分身

梅丘 かなた

分身

   1



 雨がしとしと降っていた。

 和康かずやすの目には、男の姿が映っている。

 男は、顔がやっと見えるくらいの距離のところに立っていた。


 男は灰色の傘を差している。

 和康は、自分は傘を差していないと、初めて気づく。

 雨は、和康の服の中まで、ぐっしょりと湿らせていた。

 体を濡らす水分は、どこか生暖かい。


 男は、和康に向かってゆっくりと歩いてくる。

 和康は、男の顔に見覚えがあった。

 それは、よく知る顔。

 自分自身が鏡に映った時、そこに見る顔によく似ていた。

 つまり、その男は、和康自身にそっくりだった。

 男の肌は、小麦色。

 和康は、もっと白っぽい色をしている。

 男は、目つきも少し鋭い。

 それに対し、和康は、もう少し穏やかな目つきをしていて、眼鏡をかけている。

 男は、眼鏡をかけていなかった。


 男は、和康の目の前まで歩いてくると、和康を傘の中に迎え入れた。

 男は、そこでふっと笑った。



 そこで、和康は目が覚めた。

 今のは夢だったのか、と彼は寝ぼけた頭で考える。

 そして、また同じ夢を見た、と気づく。

 一か月ほど前から、時々同じ男が和康の夢の中に登場する。

 彼は、和康にそっくりで、それでいてどこか違う。

 何か自分に深い関係のある人物ではないか。

 そんな気がしているが、彼は夢の中の人物であって、現実には存在しないだろう。

 それは、和康にもよく分かっていた。



   2



 夢の中と違って、現実の世界はよく晴れ渡っていた。

 蝉の声が響く中、川辺を散歩している。

 焼けつくような真夏の暑さが、和康の肌を焦がす。


 彼は、現在、仕事をしていなかった。

 したいのは山々だが、電話越しに苦情を聞き続けたせいで、疲れ果てて、先月退職したばかりだ。

 今すぐに働く気にはなれない。


 和康は、川辺の公園にたどり着いた。

 ベンチに座り、休んでいると、夏休み中の子どもの遊ぶ声が聞こえてくる。

 近くには両親がいて、この公園で、はしゃぎまわっているようだ。


 突然、辺りが無音になった。

 子どもの遊ぶ声も蝉の声も消えた。


 不意に、その男が現れた。

 どこか懐かしいような感覚に襲われながら、男の顔をよく見ると、自分とほぼ同じ顔。

 双子以上にそっくりかもしれない。

 ただ、その男は目つきが若干鋭く、肌も小麦色。

 半袖からのぞく腕も、がっしりと太い。

 和康は、目つきが穏やかだし、その男と違って眼鏡もかけている。

 肌の色も彼より白っぽく、腕も彼ほど太くない。

 途端に、和康は今朝の夢を思い出した。

 彼は、夢の中に登場した男ではないか。


 あまりのことに、驚いていると、男はいつの間にか姿を消していた。

 追いかけなければ、と和康は思う。

 だが、変に思われるだけでは、とも考えた。

 そして、長い逡巡しゅんじゅんののちに、和康は男がいた辺りに走っていった。


 もう男はいない。

 和康は、男の姿をしばらく捜した。

 それでも、男はどうしても見当たらなかった。

 和康は、胸が痛いような喪失感を感じた。

 気が付くと、先ほど、はしゃいでいた子どもの声と蝉の声が聞こえてくる。

 呆然とする和康を置いて、子どもとその両親は、公園から去って行った。



   3



 その夜も、和康は例の男の夢を見た。

 男は、今日行った川辺の公園で、和康とベンチに座っている。

「もうすぐ俺たちは出会えるよ」

 男は、微笑みを浮かべた。

「君は、何者なんだ? 僕にそっくりだし、夢の中だけでなく、現実でも見かけた」

 和康が言うと、男が軽く肩をたたいてきた。

「もう焦らなくていいんだよ。全部、うまくいくから」

「全部うまくいくって?」

「夢の中より、現実を楽しみにしてて」



 そこで、和康は目が覚めた。

 今の会話は、何だろう、と彼は考える。

 夢の中での、男の言葉は、和康の頭に焼き付いている。

 もうすぐ俺たちは出会えるよ――

 それは、本当なのだろうか。

 和康は、夢で会った人物と、現実でも会うなんて、信じられなかった。



   4



 それから二週間、和康は毎日のように例の公園に足を運んだ。

 しかし、夢の中の男と出会えるとは全く思えなかった。

 夢は、あくまで夢。

 和康は、そんなことを考え始めていた。


 夏の終わり、川辺の公園で蝉の声が響き渡る中、和康は歩いている。

 彼は、そろそろ仕事を探さないと、と思い始めていた。

 自分には、楽しい仕事がこの世にあるとはとても思えなかった。

 仕事はつらいものだと、もうあきらめている。

 そういう妥協と忍耐で、この世界は回っているのだ。

 それは、今さら初めて考えるには遅すぎる。

 とっくに知っていなければならないことだった。


 そう考えていると、不意に蝉の声が消える。

 突然、周囲の音が消えるこの感覚は、覚えがあった。


 前方から、あの男が歩いてくる。

 男は、和康に気づいた様子だったが、二人はすれ違ってしまった。


 和康は、勇気を出し、振り向いて男に声をかけた。

「ちょっと、待ってください」

 男は振り返り、和康と向き合った。

「君は――」

 男は、口ごもっている。


「もしかして、僕を知っていませんか? 宗田そうだ和康かずやすと言います」

「知らない名前だけど」

 男は、ぶっきらぼうに言ったが、和康の顔を不思議そうに見つめている。

 自分とそっくりな顔が目の前にあるので、驚いているのだ、と和康は解釈した。

「君、双子なのかと思うくらい、俺とよく似ているな。驚いたよ」


 男は、言葉を続ける。

「俺は、村下むらした将人まさと。君、兄弟はいる?」

「それが、一人っ子なんです」

 和康は、なぜ兄弟について聞かれたか、分かっていた。

 あまりに似ているから、生き別れた兄弟でも不思議はない、と将人が感じているのだ。

「俺も一人っ子。君は、この辺に住んでるの?」

「ここから歩いて十五分ぐらいの所に住んでます」

「俺とどこかで会ったことある? 何となく、知っているような感じがする。似ているとか、そういうんじゃなくて」

「少し、お話しできませんか?」

「いいよ、俺んちに来る? 一人暮らしなんだ」



   5



 一人暮らしの将人の家は、1LDKだった。

 将人は和康を連れて、16帖のLDKを横切って、洋室に入った。

 洋室には、ベッドと机が置かれている。

 机のそばには、ひじ掛けのない、シンプルな椅子。


「ベッドか椅子、どっちか好きな方に座ってもらっていい?」

 将人は言った。

 和康は、机のそばの椅子に座った。

 将人は、リモコンでエアコンを操作し、部屋に冷房をかける。

 そして、ベッドに座り、和康と向かい合う。


「君、本当に兄弟いないの?」

 将人は、疑いを口にした。

 自分がその兄弟なのでは、という疑いだ。

「さっき言ったとおり、僕、一人っ子なんですよ」

「それは、信じるよ。でも、ここまで似ていると」

 将人は、和康の顔をしげしげと見つめている。

 将人の顔は、どこか野性的だったが、優しげな表情の和康とよく似ていた。

 和康は、夢で会った話はしない方がいい、と何となく思っている。


「生年月日は? あと、血液型は?」

 将人が聞いてきた。

「平成元年生まれで、11月6日です。血液型は、A型」

「俺も平成元年生まれだけど、誕生日は9月8日で、B型」

「誕生日が違うということは、双子ということはあり得ない。とくに、血液型が違うので、一卵性双生児の可能性はないですね」

 二卵性双生児の二人なら、性別や血液型が違うことはある、と和康は言った。

 誕生日がそもそも違うので、二卵性双生児でもない。

「他人なのが信じられないな。声も似ているし」

 将人は、少ししゃがれたような声をしていて、和康の声と似ている。

「将人くんは眼鏡は持っていないんですか?」

「俺は、眼鏡も持っているけど、普段はかけていなくて、コンタクトしているんだ」

「肌の色など、違いはあるんですが、すごく似てますよね」


「仕事は何やってる? 俺は、ガテン系だけど」

「実は、ストレスが原因で、最近辞めたばかりなんです。苦情処理、やってました」

「職種は、まったく違うんだな」

「僕は、ガテン系の仕事は一度もやったことないです」

「もしかして、同性愛者だったりする?」

「はい、実は……」

「そこは、同じなんだな……。俺も、ゲイなんだ」

「へぇ、全然そう見えないですね」

 和康は、目の前にいる、うり二つの男、将人をじっと見つめる。


「少し、手をつないでいい?」

 将人は、和康に聞いた。

 和康は、無言で将人に手を伸ばす。

 二人の手は、ちょうど届く位置にある。

 将人は、和康の手を握った。

 将人の手のひらは、和康の手より硬い。

 和康は、相手の手を通して不思議な温かみを感じた。

 懐かしく、どこかほろ苦いような――。

 和康は、手をつないだだけで幸福な心持ちがした。


 二人は、三十分ほど、手をつないだままだった。

 それほど、心地よい感覚だったのだ。



   6



 夕方、和康は将人の部屋を後にすることになった。

 玄関で靴を履いた後、和康は、自分を見送る格好の将人と向き合う。

「また会えませんか? これからも、将人くんとこうして会いたい」

「もちろん、いいよ。こちらこそ、よろしく」

 将人は、優しげな笑顔を浮かべている。

 二人は、スマホを取り出し、連絡先を交換した。


「これからも、よろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ。気をつけて帰ってね」

 和康は、夢の中で二人がすでに出会っていたことを、まだ話さないつもりだ。

 それは、ずっと話さない可能性もある。


「もう一度、握手しませんか?」

 和康の心の中に、ためらいはあったものの、思い切って言ってみた。

「いいよ、何度でも」

 将人は、優しく手を握ってくれた。

 その柔らかな温度が、和康の心に染み渡ってくる。

 二人は、温かく幸せな感覚に包まれている。

 終わっていく夏の熱気が立ち込める玄関で、和康は幸福な予感を感じていた。

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分身 梅丘 かなた @kanataumeoka

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