第五局 タコの視界は確保しろ
「よく見なさい」
その言葉に促されずとも祐二の目は大きく見開かれた。
「盤面」ではなく、相手の顔に向けて。
髪には変わらず癖があった。しかし先程までよりも
それが、ちょうど将棋の駒の形に似ていた。
「手番ですよ」
額に駒を宿した主が重ねて促す。
彼が何者かはほかでもない。
八冠だ。
なのに、明らかに今までと雰囲気が違った。表情は引き締まり、あれほど愛らしかった口もとの笑みも失われている。
したがって。
「お、お前は誰だ?」
祐二の口から、そのような質問が飛び出したのも無理はない。
「この八冠を、問いますか」
駒の主が、にこやかさとは異なる質で静かに笑った。
「では、ひとつお読みいたしましょう」
八冠はすっくと立ち上がると、日本舞踊を彷彿とさせる所作で右腕を伸ばした。駒を指す際のように二つの指先を縦に重ね、流れるしぐさで三点――足下と頭上と後方を示す。
「地に風、空に雲、後方に山。今、山は気に満ちて火を噴き、土煙のごとき火砕流をも発生中。その先端は、この場よりおおよその距離にして――」
八冠が、左右の目を一度ずつ交互に閉じた。
「……千と九百メートル。速度は遅々と見えて秒速三十メートルといったところでしょうか。この辺りは傾斜が緩い山裾ゆえ遅いほうではありましょうが、もう六十秒あまりで、この場へ到達と相成りましょう」
「遅いほうなのにあと六十秒! 優雅に振る舞ってる場合じゃない!」
「一分将棋――慣れております」
「俺は慣れてねえんだよ! ヤバいヤバい! どうしよどうしよ」
「逃げの一手」
「そりゃそうだ! 定石だ!」
「ノン。発音は同じでも、定石ではなく定跡です。将棋の場合は」
「心を読んだんか! 声だけじゃ成り立たねえ会話! 確かに石の定石だって今の今まで誤解してたよ! けど、こまけえこと言ってる場合じゃねえ! こうしちゃいらんねえ!」
ツッコむだけツッコんでから、祐二も急いで立ち上がり、八冠の手をとった。
火砕流到達まで、あと五十二秒。
ところが、なぜか八冠が頑として踏みとどまり、ついてこない。
「急がねえと!」
「どちらへ向かうおつもりで?」
「え?」
「突き進む火砕流に対して同じ方向へ逃げたのでは、遅かれ追いつかれるのが必定」
「そうは言ってもよ!」
「中段
「横……」
祐二が振り向くと、近くに上りの斜面があった。その先が小高い丘になっている。
「そうか! 高い所!」
祐二は改めて八冠の手を引っ張った。
ところが、なぜか八冠が頑として踏みとどまり、あろうことか、先ほど祐二が逃げようとした方向へ駆けていく。
「下がるんかーい! 何でだよ!」
祐二も鉄球を引きずりつつ、半ばヤケになって八冠についていった。
あと四十三秒。
それにしても、八冠のこの変貌ぶりはいったい――?
意外と大きいその背を見ながら、祐二は疑問を抱かざるをえなかった。
ふと思い出した。
「ずっと眠ってんのか」
先に車から落とされたトカゲが、以前、八冠についてそう語っていたのを。
とすると、眠りから覚めたのか。
そういえば、「定跡」という訂正も心の耳で受け止めたものだ。これまで、八冠の声は口からのそれしか聞こえてこなかった。
やはり今の八冠は目を覚ましたものらしい。
では、なぜこのタイミングで覚醒を……。
何がきっかけで八冠は目覚めたのか。
「いったい八冠に何が……? 八冠の身に何が起きたというんだ! ううっ……!」
難しいことを考えたからか、車から落とされた際に打った頭がひどくうずき、顔をしかめる。
八冠の後頭部にも大きな
あと三十七秒。
八冠が、一度は否定した方向へ移動したのには、予想外の理由があった。
それを、祐二は視覚でもって知った。
すっかり忘れていたが、そちらは、荷タコ車が落ちた地割れがあるほうだった。しかし助走がついている今なら、どうにか跳び越えられそうではある。
ならばと祐二が跳ぼうとしたとき、割れた地の底から、にゅるりとそいつの触手が現れたのだった。
タコだった。
車はカニとともに落下したが、タコは崖に張りつき、九死に一生を得たらしい。
車と繋がっていた縄は途中で寸断されていた。
「ふう……吸盤がなけりゃ危なかったぜ」
「タコ! お前、お前……!」
祐二は叫んだ。
「しゃべれるんかーい!」
「タコ殿。ご無事で何より」
「おう、珍種のおめえか。おめえもこの危機で目が覚めちまったんだな。……ったく、お互い、家畜のままなら何も考えずにいられて楽だったのによォ」
「お声が聞こえたので急ぎ駆けつけました。タコ殿さえよろしければ、わたしたちが新たに指示を出して差し上げますが、いかがでしょうか」
「耳がいいんだな。……ああ、よろしく頼むぜ」
果たして、タコという足を祐二たちは手に入れることができた。
あと二十四秒。
その丸くて大きな頭部――否、実は腹部――に乗り、いざ改めて二人は丘を目指すことになる。
……と、祐二が思いきや。
八冠が出した指示は、またしてもありえない方角だった。
「火砕流へ」
「な……にぃぃぃッ!」
祐二はがなった。
「どど、どういうつもりだ! 読めねえ! 八冠の手筋、ぜんぜん読めねえええッ!」
気も失わんばかりに絶叫する祐二に構わず、灼熱の土煙へと、何も考えていないタコが突進していく。
あと十九秒。
ただし、意図が明らかになってみれば、今回も理にかなう行動だった。
安酒だろうか、岩場でひとり手酌をするトカゲの元にタコが停止する。
火の酒の入手という目的は果たせず、仲間には裏切られ、さらに自身の命の危機とあっては、飲んべえとして当然ながら飲まずにはいられないものらしい。
そう考えれば、不合理と知りつつ理解のできる行動ではあった。
あったが、一応――。
「飲んでんのか、こんなときに! さすが飲んべえ!」
祐二はツッコんでおいた。
トカゲが気づき、いぶかしげに顔を上げた。よくよく見れば、その両手は手つきのみで実際には何も持っていない。
「エア酒! そこまでして! それほどの飲んべえか! いや、それほどの飲んべえだったよ、あんたは!」
祐二は再び義務を果たした。
「ういー……ひっく……おめえら、何しに戻った?」
「もちろん、あなたを救出しに」
八冠が澄まし顔で答えた。
「おめえ……? そうか、起きちまったか。ご愁傷様」
「さあ、早くこの腹の背に」
「腹か背かどっちだよ。……いやいや、俺はおめえらをさらった奴だぞ。さらわれた奴がさらった奴を助ける道理がどこにある」
「……」
「俺は……いいんだよ。最後の瞬間までここで一杯やっておく。ひっく」
「エアだけどな!」
と、早口で祐二。
「それだと、こちらが困るのです」
「……どういうこった?」
「カニ、毛虫、そしてタコ……その中でトカゲ殿、あなただけが特別な存在ですので」
八冠の思わせぶりなセリフに、トカゲが小さく火を噴いた。
「ほう……どこまで読めてんのかねえ」
「……」
「……分かったよ。おめえの読みに免じ、いっちょ協力してやっか」
「えっらそうに! こっちが助けてやってんのに!」
「僥倖」
八冠が先頭、その後ろに祐二とトカゲが横に並んで新たな騎乗の人となる。
さて、三度目の正直だ。
今度の今度こそ、祐二は、自分たちが脇の丘を目指すのだと確信した。
しかし。
タコが誰の指示を待つ間もなく本能で斜面を駆け下りはじめた。
「おい、そっちは……!」
「後ろだ、後ろ! 後ろ見て言え!」
「後ろ……?」
祐二が振り返ると、目と鼻のすぐ先まで火砕流が迫っていた。
「ぎええええっ!」
もしも横へ移動すれば、たちまち追いつかれ、高温の煙に巻き込まれるだろう。
あと一秒もなかった。
荷台に繋がれていないタコは、その分だけいくらか速度を出せるようになっている。
問題は、火砕流との相対速度だ。
それよりも速いのか遅いのか。
たびたび後ろを振り返る祐二のわずか数メートル先で、熱の壁が付かず離れず追いかけてきている。
「ひっく……珍種ども足を出しな」
トカゲが二人に命じた。
「こんなときに何だよ!」
祐二が向くと、トカゲが何やら小さな鍵を手にしていた。
……二人分の鉄球付き足枷が、金属音を立てながら地面を転がり、高温の煙の中へ消えていく。
「あんま変わんねえ!」
走りながらタコが叫んだ。
「ま、タコにゃ誤差の範囲だわな。……ひっく」
トカゲが深酔いした
「けど、いいぞ、タコ! 何とかなってるぜ! この速度さえ維持できりゃ、きっと逃げ切れる!」
軽くなった身で祐二が軽快に誉めると、タコが逆に減速した。
「おわっ! 何やってんだタコ!」
「タコはおめえだ! 地割れがそこら中にできてやがる! あっちこっちで大小の火柱も上がってるし!」
「石もちょくちょく降ってくるしな!」
「そいつは気にしたって始まんねえ! ぶつかりゃそこまでよ!」
「そうかよ! くそっ、なんて噴火だ……!」
祐二は顔をゆがませた。
障害物のため減速せざるを得ないタコに、さらなる追い打ちがあった。
煙だ。
ついに火砕流の先端が追いつき、タコの視界を悪くしたのだ。
熱も一気に立ちこめ、祐二の髪や肌の毛が次々に縮れ始めた。
焦げた臭いがほのかに漂い、臭いの元が自分の体と気づいて戦慄する。
ただ、熱さよりは焦りが祐二の意識の多くを占めていた。
「止まるな! 走れタコ! タコ走れぇ!」
「……つったって、よく見えねえ……見えねえんだ! こええ、こええよお!」
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