第三局 俺の八冠が形勢不利のまま死の終局を迎えるわけがない
「おやつって……!」
祐二は、自身の中で、八冠に対する巨大な何かが急速に崩れゆくのを感じた。
食事ならまだ分かる。自分も腹が空いている。
しかし――おやつ?
生存のためというより、半ば楽しむための、あのおやつ?
帰ってきた子供が「ただいま」の次に言うあれ?
「先に手を洗ってきなさい」「はーい」のあいつ? おやつ?
その時、床に放置された縄が祐二の目に入った。
「は、まさか! さっきの拘束パートの再現か?」
あれは不運にも失敗に終わったが、少なくとも一時は身体の自由を取り戻せていた。
とすると、やはり「おやつ」にも脱出への深謀遠慮があるのかもしれない。
いや、そうに違いない。
何といっても八冠だ。その辺の一冠や二冠とは違うのだ。
いいぞ、八冠。
それでこそ八冠。
さあ、この一手に対し、化け物たちはどう返すのか。どんな手を繰り出してくるのか。
「……おやつだあ?」
「おめえらは出荷直前の家畜だぞ。食わせてどうする」
「むしろ、するなら泥抜きだろが」
トカゲと毛虫とカニが順々にあきれ顔をする。八冠の訴えを、化け物たちはまったく取り合わなかった。
「何も出さんかったあ!」
祐二は両の拳で床を殴った。
その手があったか!
現実はパスもあり! 将棋のルール外!
「い、いや、落ち着け俺。この程度の局面、正直、アマチュアにも読める者はいたはず。だが、八冠は八冠だ。七冠よりも上なんだ」
祐二は気を取り直した。
「さあ、パスという奇策に、八冠はどう対応する……!」
次の一手。
「おやつ」
「同じ手! まさかの同じ手!」
祐二は血の拳で床を殴った。
「また、おやつって鳴いたんか」
「だから、やらねえって」
「しつけえな」
「受けも同じ! そりゃそうだ!」
祐二は床に頭を打ち付けた。
ところが、またしても八冠はつぶやこうとする。
「お、お――」
さすがに祐二もあきれ、悲しみすら覚えてしまった。
八冠よ、もうその手は通じないんだ。俺たちにおやつは出ないんだ。
「……お昼」
「ちょっとひねってきたあ!」
しかし、そのひねりはまったく足りなかったらしく、おやつだろうと昼食だろうと、祐二たちは食事を与えられなかった。
頭上からは、なおも日の光が降り注いでいた。最初に見上げたときよりは多少とも傾いているようだが、祐二の体感では、とうに沈んでいてもよいはずだった。
この世界の一日は、どうやらよほど長いらしい。
いつの間にか眠っていたようだ。
床の上で、祐二はふと目が覚めた。
実はすべて夢でしたということもなく、相変わらず車は走り続け、化け物たちは交替で飲み続けている。
この段になると、空腹よりも喉の渇きが耐えがたくなっていた。
当然ながら、渇望は祐二のみではなかった。
八冠がむくりと上体を起こすと、おもむろに懐から財布を出した。
マジックテープをベリっと剥がし、五百円玉を一枚取る。それを将棋の駒のように人差し指と中指で挟みつつ、にこやかに辺りを見回した。
見回していた。
「……」
「……」
祐二はハッとして、「ねーよ」とツッコんだ。
「自販機もコンビニもねーよ! ここ、異世界だよ! 現代日本のもの、なんもねーよ!」
「んー――」
八冠が、にこやかに小首をかしげる。
「……待った?」
「待ったなし!」
ああ、ダメだ。八冠、ポンコツだ。将棋のない世界じゃ、史上最強の天才もただのニコニコ野郎にすぎないんだ……。
「もう、それしまえ。将棋じゃねえんだよ。持ったところで、どこにも打てやしねえんだ」
「打つのは碁。将棋は指します」
「うっせえ! そんなとこだけ的確なんだな! さすが将棋のプロ!」
「なんだ? おめえら、渇きに弱え生き物か。よく見りゃ、表面ぶよぶよだしな」
二人のやりとりを聞いていたらしい。
全身を硬質の殻で覆われたハサミの化け物が、ほらよと八冠の前に皿を置いた。毛虫が、そこへ乱暴に酒をそそぐ。
「まだ死なれちゃ困るんだ」
そそぎ終わるのを待ち、八冠がニコニコしながら皿をとった。傾けて中身を飲み干し、ほっと一息ついてから、ペコリと化け物たちに頭を下げる。
「ありがとうございます。八冠の持ち時間わずかでした」
「ギリギリだったんか! にしては何でもなさげな顔だったな! さすが勝負のプロ! 一人称、八冠かい!」
祐二はまとめてツッコんだ。
「……勝負のプロ?」
繰り返したのはトカゲだった。
「そうか、それでずっと眠ってんのか」
「……眠ってる?」
今度は祐二が繰り返した。念のため、八冠のにこやかな顔を確認する。
「いやいや、起きてるし。目、開いてるし」
「声、聞こえねーだろ」
トカゲが平然と言い返した。
「は? 声だって……」
反論しかけて、祐二は半ばで語を変えた。
「うん……ま、確かに」
うんざりするほど思考が通じ合う世界なのに、そういえば、八冠の心の声はまだ一度も聞いていなかった。これまで聞こえてきたのは従来の声――口で発する音声だけだったのだ。
どういうことかと、祐二はトカゲのほうを向いた。
「別に不思議はねえ。仕事してねえときゃ、なるべく脳みそ休めてのんびりしてえだろ。食うか食われるかの稼業なら特によ」
「のんびり、か」
悪者のくせに妙に説得力のある言葉だった。
「かも……な、たぶん。勝負の世界に生きる者はなあ……。ただでさえ俺たちのいたところはストレス社会で、スローライフとか流行るくらいだし」
「そう、それよ。スローに生きようぜ」
納得したのは他の二匹も同じだった。
「こいつも同業か。戦う者どうしだったとは」
「獲物ながら、ちょいと親近感わいちまったぜ。ほれ、もっと飲め飲め。嫌なこと何もかも忘れてパーッと飲もうぜ」
空の皿に再び酒をつぐ。そのしぐさは先程よりも明らかに丁寧だった。
「おお、もしやこれは!」
祐二はハッとした。
仲良くすることで難を逃れる作戦!
こう来たか!
さすが八冠!
恐るべき終盤力!
形勢、一気に逆転したよ!
上機嫌の化け物たちが祐二にも酒を勧めてきたので、素直にいただく。
残念ながら、味についてはいまいちだった。どうにも薄く、アルコールにいたってはまるで感じられない。ほぼ水だ。しかし、喉の渇きを癒やす分にはむしろ都合が良い。ごくごく飲める。
「おめえもいける口か」
その飲みっぷりに、化け物たちはいよいよ気を良くした。
「売り飛ばすまでの短い付き合いだ。それまでのんびり仲良くしようぜ」
「スローライフ、スローライフ」
ブッ。
祐二は吐き出した。
「売るのは変更なしか!」
水分を摂りすぎてしまったか。
祐二たちはそろって下痢になった。
片隅で、二人並んで桶に排便する。祐二がそれを荷台の外に捨てようとすると、毛虫が、何しやがるもったいねえ、と慌てて桶を奪い取った。
理由を問う間もなく、己の毛の中にそそぐ。あろうことか排泄物を飲んでいるらしい。なかなかの衝撃的光景だ。
「ま、まあ……地球にもフンコロガシとかいるしな。それに人間だって虫の糞をガムの着色料に使ったり、江戸時代にゃ人の糞便を原料にした漢方薬もあったそうだし……近年でも飲尿療法とか……」
衝撃をどうにか和らげようと、祐二は己の理性と知識を総動員する。
「まずっ!」
毛虫が便を吐き出した。
「俺の気遣いが!」
「くはあ……! おめえら、なに食ったらこんな発酵食品こしらえるんだよ……。クソまっじい……」
「……クソだし」
下痢は続いた。
これ以上衰弱されては困るからと、化け物たちは不承不承ながらもついに祐二たちに食事を提供した。トカゲは損するだけからやめておけと反対したが、カニと毛虫が、死なれたらもっと損すると押しきったのだ。
出されたのは何かの干し肉だった。
「まずっ!」
祐二は吐き出しそうになったが、それでも噛みちぎり、飲み込んだ。酒と同じく妙に薄味だったのだ。調理や調味料の問題ではなく、素材自体に味をほぼ感じなかった。
しかし下痢は治まらず、二人の体はさらに弱っていった。八冠の表情は相変わらずにこやかだったが、祐二の顔は体調どおり順当に青ざめていった。
こ、これは売られる前に死ぬのでは……?
思えばショボい人生だった……。
気力も弱まり、これまでの日々を反省まじりに振り返ってしまう。
一発逆転を狙ってラノベ作家志望をうそぶいたこともあったが、本当はただの逃避だった。
冴えない己を偽っていただけだ。
虚勢を張って言い訳を繰り返すだけだったから、今まで何一つうまくいかなかったのだ。
けれど――。
自分は自業自得だとしても、八冠はどうだ?
八冠は違う。八冠は本物だ。俺たちの至宝なんだ。
こんな訳の分からない世界で失われてよい人間ではない。
だから、せめて八冠には助かってほしい。
そのどさくさで自分も助かりたい。
神様お願い。
しかし祐二の願いもむなしく、ようやく二つの太陽が沈むころ――。
ついに一行の目は、目的の村を火山の下部にとらえたのだった。
三匹が喜々と叫んだ。
「着いた! 酒だ!」
「へべれけに酔うぜえ!」
「うっひょう! スローライフだー!」
異世界でも、夕暮れの空は燃えるように赤かった。
薪をくべられた焚き火ように気温も高い。
高い――?
「……暑くねえか?」
毛皮をまとった虫が苦しそうに吐いた。
「茹であがっちまう」
カニも顔を真っ赤にする。
反対に、トカゲは顔面蒼白になっていた。
「まさかまさか……!」
火山の山頂から、噴煙が盛んに昇っている。
荷タコ車を止めても車体がゆらゆらと揺れている。
種々の動物たちが「逃げろ」と警報を発しながら、火山から遠ざかる方向へ一斉に離れていた。
「まさかあああ……!」
どーん。
山が火を噴いた。
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