第六局 現実世界で無双した八冠は現実世界で無双する
「俺だってこええよおお!」
この世界に来て以来、祐二は最大の恐怖を感じていた。
皮膚をちりちりと焦がす熱風、目を涙ぐませる煙、卵の腐ったような臭い――そうした具体的な刺激が、負の感情を否が応でも増大させる。
タコとそれに乗った者たちは、今や火砕流の先端に触れていた。このまま完全に奥まで飲み込まれれば、熱も臭いも飛躍的に増し、すぐにも耐えられない度合いに達するだろう。
焼け死ぬか、ガスで中毒死するか、あるいは土砂や石に押しつぶされて死ぬか。
「ガ、ガス……?」
それがまだ苦しまずに済む結末かなと、狭まる視界の中で祐二はつい考えてしまった。もはやこの場の者たちの顔すら、うすぼんやりとしか見えていない。
そのぼやけた顔の一つが、とぼけたように火を噴いた。
「賛成……ひっく」
「トカゲが賛成してきやがった!」
「何だよ、いいじゃねえか、ガス。意識が朦朧としてきてよ、なあんにも考えらんなくなってよ……ふわふわしてきてよ。楽でいいやあ……ういー……」
「ガス中毒を酒に酔うみたいに言ってる! ダメだ、こいつ! どうしようもないダメ人間……いや、ダメトカゲ!」
「良いですね、ガス。脳の働きにどのような影響かあるか、興味が湧きます」
「八冠もか!」
「……ガスで死んでいい? もうしんどい」
「タコまで! お前は会話に加わらんで全力で走れ!」
「つったって地割れがよ! 転落死してもいいのか!」
「ちょうどいいさじ加減で!」
「ふふん! そいつが今なんだぜ!」
なぜか自慢げのタコを祐二は
「今のままじゃジリ貧なんだよ! もうちょい速く!」
「俺はしょせんタコだぞ! あんまし頭使う注文出してんじゃねえ!」
「おわっ、開き直りやがった! つか、こっちの世界のタコがどの程度のもんか、こちとら知らねえんだよ」
「んー、なに言ってんだ? こっちの世界?」
「……わたしが細かい指示を出しましょう」
八冠がタコに申し出ると、トカゲが小さく火を噴いた。
「ひっく……また一段、目覚めちまったか? 同情するぜ」
「トカゲ殿、この未知の世界にあって、最初にあなたと出会えたのは望外の喜びと思っていたのですが」
「それで安心して寝てたんか」
「……」
八冠は答えず、じっと前方を見据えている。
「い、意味深な会話だな! 何だよ、二人だけで通じ合っちゃって。俺も混ぜてくれよ。さみしいだろ」
「……トカゲ殿は、わたしたちと同じ、異なる世界から来られた方です」
「な、なんだってーッ?」
驚きの声を上げたのはタコだった。
「い、異世界とかマジあんの? そんなファンタジー……いやいや、まさかまさか……。現実主義者の俺には、にわかには受け入れ難い話だぜ」
「うっせー! おめえこそ、よっぽどファンタジーだろ! それと、お前は走りに集中してろ」
トカゲが八冠に尋ねた。
「……根拠は?」
「トカゲ殿だけ脊椎を持っていらっしゃるので」
現在、ここにいる化け物はタコとトカゲだ。すでに死んだ化け物はカニと虫。
カニ、虫、タコ、トカゲ――あっ。
祐二も、最後の一匹だけ生物学上の分類が大きく異なることに気が付いた。
「すげえ、すげえぜ、八冠。よく見抜いた。トカゲだけ確かになんか違うな、うん!」
「……といっても傍証の一つにすぎず、これをもって、あなたを異世界人と断定するのは早計ですが」
「そりゃそうだ。よその土地にゃ脊椎動物だっているかもしんねえしな。いないことの証明ってのは難儀なもんだ。そして実際、隣の大陸に俺たちのような者はいる」
「いるんかい!」
「……根拠、ほかにもあるんだろ?」
当然とばかりに八冠がトカゲに頷いた。
「あなたは、わたしたちがこの世界の食べ物を口にするのを止めようとしてくださいました。おそらくはまともに消化吸収できまいと予想されたのでしょう?」
「八冠も食ってたじゃん」
「寝ておりましたので」
「……そっか!」
祐二は一つまばたきし、両手をポンと打ち付けた。
トカゲがエア酒を一口飲んだ。
「ぷふう……。ま、おめえさんたちが、あのクソうっすい安酒にもやられたのは誤算だったが」
「すでに体が弱っていたからでしょう。単純に、雑菌に当たったのかと」
「そういや、俺たち下痢で弱ってたんだった。ピンチピンチの連続ですっかり忘れてたよ。思い出したら、なんかまた腹が……あいたた」
「……いろいろ詳しいのかい?」
「将棋と鉄道と司馬遼太郎を少々」
「どれもさっきのやりとりと関係ねえ!」
「余談ですが、地中には、陸上や海洋以上に広大な生物圏が広がっているそうです」
「あ、そ……ふーん……イテテ……」
「これを、わたしは俯瞰したい」
「なるほど。奴らを見るわけかい」
「ご明察」
「は? 何のため? それにどうやって地面の下にいる奴らなんか」
「音を、見るんだよ」
トカゲはゲゲと笑い、祐二に生臭い息を吹きかけたのだった。
八冠がタコの背に手を当てた。
祐二が後ろからそっと横顔を伺うと、静かに目を閉じている。
「俺は走ってりゃいいんだな?」
「ええ、タコ殿。何も考えずに全力で」
八冠が答え、一礼する。
「お願いします」
それは、周囲の地を盤に、自分たちを駒に見立てた必死の遊戯だった。
今、その初手が指される。
「2六タコ」
指示に従い、タコが進路を変えた。
「腹減った」
「死ぬーっ」
「雄さん、来て来て」
八冠に聞こえているのは、そうした無数の微生物たちの声だった。
声は地中より発せられていた。内容は重要ではない。発信源の方向と音の厚み、そして、移動するタコの上にあって時々刻々と変化する周波数が、いま必要な情報のすべてだった。
これにより、八冠の脳内で地中の立体図が組み上がっていた。
祐二に彼らの声はほとんど聞こえない。言及されるまで意識にも上らないでいた。ちょうど時計の秒針、あるいは冷蔵庫の駆動音――そういった、よほど周りが静まり返り、かつ自らも耳を澄まさないと聞こえてこない微小な音だった。
それを、八冠は詳細に聞き分けることができた。
耳が良いのだ。
心の耳が。
聞く力、読む力が、八冠は他の誰よりも優れていた。
「5六タコ」
直進だ。
「5五タコ」
引き続き直進。タコがそのように動く。
「8四タコ」
今度は左へ転進。前方の火柱を回避する。
続いて、
「8一タコ」
一気にジャンプ。地割れを跳び越える。
「うっひょう! ススイのスイだ! こんなにスイスイ走るの初めて! 気ん持ちいいーっ!」
「いいぞ、タコ! その調子だ! いいぞ、いいぞ、いいぞ……!」
祐二も叫んだ。これまでの恐怖、苦痛、不安を一気に吹き飛ばす満面の笑みで。
「まるで将棋だな!」
そのまま加速。
そして――。
タコはついに火砕流の煙の中から飛び出す指示を得たのだった。
新たな地平への大いなる飛躍だ。
「8零タコ」
「おっひょおおっ! ちょっと諦めてた過去の自分に謝りてえ! すげえ! あんたすげえよ! まま、参りましたあああ!」
タコが勢いのまま飛翔する。
後方からの熱風もあり、その体は一気に開けた視界の中を飛び、空のタコとなる。
「飛べねえタコは――!」
「ところでよ」
トカゲが二人にあごをしゃくった。
「そろそろ帰り支度しねえとな」
「……え?」
祐二が間の抜けた顔をし、タコも淡々と着地する。
「ここは時空が不安定な世界でな。おかげで俺みたいなよそモンも出張してきやすいわけだが、おめえさんたちみてえに、注意報もなあんも知らねえまま、巻き込まれて来ちまうモンもまれにゃいるわけだ」
「……」
「来れるなら帰れる。道理だわな」
「さあ、ゲートが閉じちまわないうちに」
「トカゲ殿……」
「付き合わせちまって悪かったな。出張ついでに名物の酒を味わいたかっただけなんだ。それくらいの役得がねえと、やってられねえもんでよ。おめえさんたちのことは、売り飛ばして酒買ったあとで、こっそり回収し、帰してやるつもりだったさ」
「ひでえ……。詐欺じゃん」
「玉の位置は?」
「426負の八百八十九、ちょい上のⅣ。こいつを取れば
「持ち時間」
「二十六分の一日。この星の」
八冠はこくりと頷き、正面を見据えた。
「タコ殿、次の一手です」
「おうともよ! まだまだ飛ばすぜい!」
夕暮れの荒野を、二人と一匹を乗せたタコが突っ走る。
まるで一瞬の白昼夢だった。
気が付くと祐二は元のトイレにいた。
八冠も隣の小便器前に立っており、まくれた裾をニコニコしながら整えている。どうやら、帰還と同時にまた眠りに就いたらしい。
祐二も笑顔で手を洗いつつ、出かけに一言「応援してます」とだけ声を掛けた。そうして八冠とは別れたのだった。
それから、この冒険をもとに初めて小説を書いてみた。書き上げた瞬間、これは金字塔を打ち立ててしまったかと自信をみなぎらせたが、送った公募は一次で落選。荒唐無稽との寸評を添えられただけで終わった。
その間、八冠はいよいよマルチに活躍し、テレビのバラエティ番組などでもよく見かけるようになった。お笑いの大御所いわく、「メッチャやりやすいねん。将棋やめて、こっち
もちろん転職はしなかったが、本は再び出していた。くしくも祐二が書いた小説と同じ内容だったものの、盗作でないことは祐二自身が一番よく知っている。八冠本人は自伝の続きのつもりだったらしいが、多くの本屋でSF・ファンタジーのコーナーに陳列された。
荒唐無稽ぶりが良いとして、さらに絵本にもなった。その絵本版がアニメ映画化され、大ヒットを飛ばす。
「なんでやねん!」
祐二はエンドロールの流れる映画館で、ひとり涙ながらにツッコんでいた。
【祝!221(フジイ)PV達成!!】八冠が将棋のない異世界でもニコニコしててつらい Taka @Taka37564
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