漆
「はっ……はっ……!」
町外れで火事が起きたらしい。どうやら最近、良くない
深夜にも関わらず町中の人々が叫び合う声で目を覚ました
自分の身なりなんて、気にしていられなかった。
だって火元になっている場所には、釉釉が全てを捧げると誓った憧れの御方がいるのだから。
「
思わず、荒い息の中に悲鳴のような声が混じった。
──麗麗様をお助けしなければ。私が、お助けしなければ……!!
悩みのどん底にいた釉釉を、的確な助言と鮮やかな祈祷で救い出してくれた女神様。町の誰もが釉釉の話を聞き流し、相手にしてくれなかった中、麗麗だけが釉釉の声に耳を傾けてくれた。力を貸してくれた。
だから今度は、釉釉が全てを捧げる番だ。
あの声で一言命じてもらえれば、きっと釉釉には何だってできる。
そんな燃え上がるような思いが、限界を越えても釉釉の体を突き動かしていた。
「麗麗様、お助けします……お助けしますっ!」
「麗麗様なら、あそこにはいないわ」
「っ!?」
その瞬間、闇の中から微かな声が響いた。
驚きにビクリと体が震え、足がもつれる。そのまま釉釉は踏み固められた土の上に倒れ込んだが、闇の中から
「最初からね、あそこに
痛みに震えながらも、釉釉は意地で顔を上げる。
そんな釉釉の視線の先に、フワリと人影が姿を現した。
闇の中でも不思議とはっきりと目に映ったその姿に、釉釉は思わず目を丸くする。
──綺麗。
そこにいたのは、こんな田舎町には似つかわしくない、美しい女性だった。
横髪だけを団子状に結った流し髪は艶々と黒く、肌は雪のように白い。釉釉にひたと据えられた瞳は、内に星を閉じ込めているかのように微かな煌めきを放っていた。静謐な眼差しを注ぐ顔は冷たく整っていて、凜とした空気が彼女の美貌を引き立てている。
燃え盛る炎が巻き起こす風がここまで届いているのか、女性が
闇の中で相対していても、女性の身を包んでいるのがお姫様のように上等な装束だと分かる。首筋に巻かれた紅の絹布が華やかな飾り結びにされていて、まるでお貴族様のお屋敷の奥で大事に飼われている黒猫が人の姿を借りているかのようだった。
「なっ……何で、そんなこと……」
どこかで聞いたような気がする声。どこかで見たような気がする衣。
だが気が動転している釉釉は、それらをどこで見聞きしたのか思い出すことができない。
いや、気が動転しているからではない。ここ数ヶ月の記憶は酷く曖昧で、自分がどこで何をしていたのか、釉釉ははっきりと思い出すことができなかった。
「あなたが紅麗麗に惹かれた理由は何?」
そんな自分の状態に、釉釉は今更ザッと全身の血の気が下がったような気がした。さらに追い打ちをかけるかのように女性は釉釉へ言葉を向ける。
「元々悪女に憧れていたの? 甘い言葉をもらったの? 意中の男性が自分を振り向いてくれるように、呪いをかけてもらったからなの?」
「あっ……」
淡々と重ねられる言葉に、感情らしき感情はない。それでも釉釉の背にはゾクゾクと走る悪寒があった。
恐怖。
釉釉はこの仙女のごとく美しい人に今、明確な恐怖を抱いている。
「覚えておきなさい、釉釉」
何とか上半身を起こした釉釉は、尻餅をついたまま手足で後ろへいざろうとする。だがそんな
足取りと同じ軽やかな動きでかがんだ女性は、釉釉の目を覗き込むかのように顔を寄せる。目の前に迫ったその美貌に、釉釉は思わず呼吸を忘れた。
「漠然とした憧れに心を遊ばせていては、魂魄を相手に握られることになるわよ」
今まさしく釉釉の魂魄を抜き取ろうかとしている美女は、妖艶に微笑むと伸ばした指先でツッと釉釉の頬をなぞる。
その冷たさに、釉釉はハッと我に返った。後に駆け抜けたのは、眼前に迫るヒトならざるモノへの恐怖だ。
「
絶世の幽鬼の指が、釉釉の頬から離れる。
その瞬間、釉釉は壊れたように悲鳴を上げていた。
不思議なもので、悲鳴が上がれば体も動く。立ち上がれずにいた釉釉は己の悲鳴に叱咤されたかのように腰を上げると、なりふり構わず逃げ出していた。
声を上げれば上げるほど、走れば走るほど、恐怖にグチャグチャになった記憶は混濁していく。
釉釉の悲鳴に気付いて駆け付けてくれた町の人々と釉釉が合流した時、釉釉はここ数月の記憶をすっぽりと忘れていた。
ここ最近の釉釉の様子と保護した後の釉釉の証言から『釉釉は邪術に意識を操られていた』と判断した町の住人達は、この後釉釉を手厚く看病することになったという。
※ ※ ※
「やはりお前ほど『悪女』という言葉から程遠い人間も珍しい」
呆れたように紡がれた声に、麗麗は外套を翻しながら
すでに夜は明けて久しい。刻限で言えばもう朝よりも昼に近いだろうか。
「これでもれっきとした悪女よ。それも、死後に偽者がわんさか湧いてくるくらい、とびっきりのね」
周囲に人の気配はなかった。麗麗と翠熙は二人揃って徒歩のまま、のんびりと山道を進んでいる。
修行生時代は、どこに行くにも徒歩での移動が基本だった。だから『紅の邪仙女』も『救国の仙君』も、徒歩での道中に苦は感じない。むしろ久しぶりにこうして二人で行く道中は、懐かしく楽しいものだった。
だがどうにもそんなのんびりしたことは言っていられなさそうだ。
「ねぇ翠熙。昨日片付けた一件、今までとはちょっと毛色が違ったと思わない?」
麗麗が話を振ると、翠熙はスッと眉間にシワを寄せた。微かな変化ではあるが、無表情が常である翠熙にとってはかなり渋い表情である。
「あの耳飾りを
「そう。真犯人はあの場にはいなかった。そしてその真犯人は、やたら
麗麗がちょっと脅しをかけてやると、黒幕であった黒雲は呆気ないくらい簡単に己が知っていることを吐いた。
曰く、この計画は自分が立てたものではない。
黒雲は三流を名乗ることさえ
そんな黒雲は数ヶ月前、逗留していた街を叩き出され、路頭に迷っていた。またしても盗みだか詐欺だかが発覚した結果らしいのだが、被害が小規模だったおかげで出禁を喰らうだけで済んだという。
しかし手持ちの金も荷物も巻き上げられた上に、真夜中に行われた放逐だった。さすがに黒雲も途方に暮れたが、下手にごねれば今度こそ命はないかもしれない。仕方なく黒雲は街道をトボトボと進んでいった。
「そこに声をかけてきたのが」
「黒雲が言う『あの御方』」
「そう」
黒雲が、道端の廃寺を通りかかった時だった。
その廃寺を一夜の宿としていた旅人に、声を掛けられたのだという。
身なりの良い人間だった。男のように思えたが、もしかしたら女だったかもしれない。黒雲はあの晩の記憶はなぜか酷く曖昧なのだと麗麗に話していた。
黒雲を廃寺に誘ったその旅人は、黒雲に食料を振る舞い、火の近くに座らせ、黒雲を歓待してくれた。なぜこんな歓待を受けるのか黒雲には分からなかったが、振る舞われる物を断る
だが黒雲は結局、旅人の身ぐるみを剥がすことはできなかった。
それ以上の
それがあの、偽者の紅麗麗を祀り上げる新興宗教団体設立の話だった。
「これがまた旅人の言う通りに運営していくと面白いくらいに稼げちゃったもんだから、黒雲はいつの間にか旅人のことを『あの御方』なーんて言っちゃって信奉するようになったって話なのよね」
「初期投資も、細かい運営指示も、全て『あの御方』がしていたという話だったな」
「そう。黒雲はただのちんけな雇われ頭目だったってわけ」
『あの御方』は黒雲に指示を与えるために定期的に黒雲の元を訪れていたが、黒雲が指揮していた集団には常駐していなかった。耳飾りもその人物が渡してきた物で、『紅麗麗の身代わり人形を仕立て上げるための物だ』と説明された以外に黒雲は詳細を知らなかった。己で
『紅麗麗』に関する細かい演出の方法も、宗派の運営の仕方も『あの御方』に指示された通りに行っていた。黒雲がしたことは、相談事があたかも『紅麗麗』の祈祷で解決したかのように見せかけるために部下を動かしたり、ちょっとした術を操ることだけだった。
──つまり……
真の黒幕は『あの御方』。
正体不明のその御仁を押さえないことには、似たような事件が各地で起こりうるということだ。
「何者なのかしら? 紅麗麗に詳しくて、あれだけの呪物を作り上げることができるなんて」
「当時、
『お前が分かりやすく証拠を残しておいてくれたおかげで』という言葉は、翠熙から向けられる視線だけで告げられた。だから麗麗も『知ってるわよ』という言葉を小さく顎を引くだけで伝える。
「でも、絶対に当時の琳王宮を知っている人物だわ。じゃなきゃあんな演出、思いつかないわよ」
「取りこぼしがあったか」
その一言に、麗麗はニッと口角を上げた。そんな麗麗を見ても、翠熙は平静な表情を崩さない。恐らく麗麗から事の仔細を聞いた瞬間から、麗麗が何を言い出すかなど、翠熙には予想ができていたのだろう。
「ねぇ、翠熙。私達の不始末だもの。見過ごせないわよね?」
麗麗が翠熙の前に立ちふさがるように回り込めば、翠熙も必然的に足を止めることになる。そんな翠熙の顔を下から見上げて、麗麗は続く言葉を口にした。
「もちろん、
ニコリと顔中に笑みを広げてみせれば、翠熙の顔からスンッと表情が消えた。その無表情の中に『仕方がないな』という消極的な同意を見た麗麗は、翠熙に覚られないように内心だけで笑みを深める。
──これで真っ直ぐに珀鳳山へ向かうよりも時間稼ぎができる!
もちろん、自分の名を語って悪事を働く人間を見過ごせないという気持ちもある。だが翠熙の同意の上で、自分の『余生』を悪党退治に使えるということが、麗麗にはこの上なく嬉しかった。
──生前は、
最終的に全ての悪を根絶させるためだったとはいえ、その道中で踏みにじった命がなかったわけではない。こうして蘇った今、その時間の中で生前の分まで少しでも誰かを救うことができるなら、これ以上に良い我が身の使い方も中々ないだろう。
「……お前が少しでもこの旅路に前向きになってくれるなら、それでもいい」
そんなことを思った瞬間。
ポツリ、と。どこか寂しさを覚える声が落ちた。
「……え」
「麗麗、私とひとつ、賭けをしないか」
ハタハタと目を
そんな麗麗の両頬に、そっと翠熙の手が添えられた。
「もしも珀鳳山に到着するまでにこの一件の黒幕を突き止め、事件を根絶させることができたならば。……私はお前の核となっている呪具を、お前に差し出す」
その言葉に、動きを止めたはずの心臓がドクリと騒いだような気がした。
そんな麗麗の心の内を見透かしているのか、翠熙はコツリと麗麗の額に己の額を預けて、さらに言葉を続ける。
「逆に珀鳳山に到着するまでに事件を解決しきれなかったら。自裁を諦めて、山を降りた後もともに事件を追い、事件解決の後も私と生涯添い遂げることを誓ってほしい」
その言葉に、麗麗は表情を取り繕うことができなかった。ヒュッと鋭く息を呑み込む音が、どこか他人が立てる音のように耳に響く。
──あんた、気付いて……
麗麗が三拝を挙げることを受け入れた理由。ともに道中を歩んでいた理由。
それが全て、麗麗が自分自身を殺すための時間稼ぎであったと、翠熙は気付いていた。
麗麗が翠熙の想いを受け入れたわけではなく、今この瞬間も翠熙の前から消え去る方法を模索している最中なのだと、見抜いていた。
その事実を、翠熙は『賭けの条件付け』という言葉で突きつける。
「どれだけ傍にいたと思っている。私が気付いていないと思っていたのか」
今の麗麗にとって燃えるような熱をはらんでいる翠熙の手は、触れていなければ分からないくらい微かに震えていた。間近で見上げた瞳は、触れ合った両手以上に隠しきれない痛みに震えている。
それでも翠熙はきっと、この賭けの条件を翻さない。なぜならば麗麗を翠熙の元に引き留めるには、これ以上に吊り合う条件が存在していないから。
一度賭けが成立してしまえば、たとえどれだけ不本意な結末に終わろうとも、翠熙は条件の履行に不正を用いることなどしないだろう。
誠実で。真っすぐで。いつだって潔白。
どんな不条理を世に突きつけられても、見ているこちらが痛みを覚えるくらいに、いつだって凜と背筋を正して歩みを止めない人間だから。
だから麗麗は、我が身を邪道に堕としてでも、この想い人を幸せにしてあげたかった。
「……どっちの道に転んでも、事件解決まできっちり付き合ってくれる心づもりがあるのね」
麗麗はそっと己の両手を翠熙の手に重ねた。
熱は失ってしまったけれども、翠熙と同じ場所に剣だこがある手を。長年翠熙とともに修行を重ねた、正真正銘自分自身の手を。
あの日々の中で、ともに取り合った手を。
もう一度、重ね合った。
「私、あんたのそういうところ、好きよ。大好き」
その上で、麗麗はしっかり目を見開いて、翠熙の瞳を見上げた。
少しあおのいて背伸びをすれば唇が触れ合いそうな距離で、それでも麗麗は口づけを決して許さない猛々しい顔で笑う。
「分かったわ。その賭け、乗ってやろうじゃない」
だって自分達は、想い合う恋人同士ではなく『紅の邪仙女』と『救国の仙君』だから。
想い合うには不条理すぎて。甘い恋が成就してしまえば、きっと重なり合った不条理に折られて、その日に世界は終わってしまうから。
「私、負けないから」
だからこんな恋は、実ってはいけないのだ。
たとえ麗麗の言葉に翠熙が切なげに笑っていても。翠熙の瞳に映り込む麗麗が、目に薄っすらと涙を浮かべていても。
この恋は、破局以外に、許される道など存在しない。
これは舞台の幕が下りた後で繰り広げられる、『死にたがりの悪女』と『生かしたがりの英雄』による、世界を敵に回した、とある恋の物語。
紅の悪女は幕引きを望み、翠の皇子は幕開けを願う〜邪仙女麗麗世直奇譚〜 安崎依代@1/31『絶華』発売決定! @Iyo_Anzaki
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