守るべき存在と暴走の予感

 地下鉄車内に出現した殺人ピエロが歩を進め、手にした鋭いナイフを振るう。

 近くにいた乗客がぎらつく氷の刃に裂かれ、傷口から血を流して倒れた。


 私は暴漢の行く手にグリース先生が立っていることに気づく。ピエロと先生との距離は三歩ほどしかない。このままでは先生が刺される、私はあせった。


 恐慌に包まれる車内、グリース先生は暴れるピエロを気のない目で眺めやる。次いで軽蔑するように鼻を鳴らした。「茶番はやめたまえ。ピエロは君自身の投影だろう。抑えきれない不満があると暴力に訴える。君は発達不良のサイコパスか」


(違う!)私は即座に否定する。(そんな下種げすな意図ではない)


 先生は白塗りピエロを、私が召喚した幻と看破している。


(お見事な推理だよ、先生。幻覚に関しては正解……)


 だが、目的は違う。車内で惨劇を繰り広げるピエロが、娘に思いを伝えられずフラストレーションをつのらせた父の憤怒であると、憎悪が凝り固まった姿であると決めつけているが、それは大いなる誤解というものだ。


(確かにヤツ白塗りは私が産んだ幻)


 私が認めるとピエロの姿は、はじけて霧散した。血を流して倒れた乗客も、いまは何食わぬ顔でおとなしくつり革にぶら下がっている。ピエロのハンティングナイフは私のカバンの中へと元通りに納まり、グリース先生は私の脳内に居場所を移した。


(私が具現化させたのは娘を守りたいという心情なんだよ、先生)


 たとえばこんなケースでもいい。

 もし、地下鉄を直下型の大地震が襲ったらどうだ。この車両はひとたまりもなく脱線する。そのときはコンクリートの巨大な瓦礫が散乱するなか、私はケガを負った杏を背に、歯を食いしばってひたすら地上を目指すだろう。公園で転んでヒザをすりむいた杏をおぶり、あやしつつ家路をたどったあの秋の夕暮れを懐かしく思いながら。


 しかしイメージの中のグリース先生は首を横に振った。「君は根本的に分かってないね」と口をゆがめる。「娘が成長した今、その役割は彼氏ボーイフレンドのものだ。すでに父親の手許を離れている」


 そうか彼氏の役目か。杏に彼氏がいるかどうかも知らない私は思わず納得しかけ、思い直してグリース先生に抗う。

(約束がある。かつて娘に約束したんだ、杏を守ると)


 緑衣の手術着を着た先生は、私の眼を見ておだやかに言う「とうに有効期限切れだよ」。彼は手にした大きなマグカップからコーヒーをすすった。「君は月の裏側で父親のパントマイムを演じているようなものだ。どんな熱演をしても伝わらない。娘はおろか観客は誰一人として見ちゃいないんだから」、彼の言葉はドラマの決めゼリフのように、しんしんと心に染みてくる。


――先生の言うとおりかもしれない。


 これまで自分が見ないように隠ぺいしてきた事実をほじり出され、目の前に並べられた私は頭の中が真っ白になる。夏の終わりの日、忘れていた宿題の山を発見した小学生のように。


 コトン。

 左肩に何かが乗った。幼い頃から変わらぬショートカットの髪。杏の頭だ。スマホを見つめているうち寝てしまったようだ。父にもたれかかるようにして娘は軽い寝息を立てていた。

 すっかり気持ちの落ち込んだ父を気遣って、娘は励ましてくれているのだろうか。


 頭の霧の中に、ふたたびグリース先生が現れる。彼はゆったりとした白いローブを着て聖人然として宙に浮かんでいる。彼はおごそかに告げた「子どもは三歳までにすべての愛を親に与えているのだ。残りの人生は親が子に愛を返済する期間である」と。


 確かに杏から多くの愛を受け取ってきた。

 気づかされた私は泣きそうになる。

 記憶の薬籠から新たなカードを取り出し、めくる。


 哺乳びんからミルクを飲ませると黒目がちの澄んだ瞳で、顔をじっと見つめてくる。ミルクを与えてくれる人物、自分の命を左右する存在として、親の顔を学習しているのだと思った。私が微笑めば、ニップルを口に含んだままニッとやわらかい笑みを返してくる。可愛い、とても可愛い。愛らしさにとろけ、杏の笑顔に語彙が消失する。なんという満ち足りた幸福感。私の父としての自覚が芽吹き、萌えあがった瞬間であった。


 まだカードはたくさん残っている。私は次々とめくってゆく。


 生後六か月で夜中に熱を出し、救急病院で点滴を受ける杏の丸々とした小さな握りこぶし。血管を確保できない乳児への点滴は手のこうに行うことを、そのとき初めて知った。


 ドアに指をはさんで大泣きした日の涙に濡れる長いまつ毛。杏の背中をさすりながら、この子は将来美人になるだろうなどと場違いな感想をいだいたこと。


 中耳炎の手術を控え、一人で病院の夜を明かした五歳の杏。一晩さびしさに耐えただけで、甘えん坊の幼児から自立した小児の顔へと変貌していたときの驚き。


 ひとつひとつ他愛のない日常を重ねて、我々親子の歴史は地層のように厚く堅固に堆積していったのだ。


 そうだ。私たち父娘を結ぶ信頼のきずなは確かなものだったはず。

 いつ誰が絆を切断した? 少なくとも私ではない。


 悩みをかかえた娘に助言したいことはたくさんある。しかし思春期以降の娘は聞き入れることがなかった。夕食のテーブルで私が口を開くと娘は「ごちそうさま」と言って自室へ去ってしまう。


 こうして父は交流のタイミングを失い、娘にかける言葉を忘却してゆく。


(私はどうしたらいいんだ、グリース先生。そうだ。ドラマでのあなたのように娘をハグしてみたらどうだろう? 思いが伝わるかもしれない)


「やめたまえ」グリース先生は鼻の頭にしわを寄せて嫌悪感を示した。「思春期の娘にスキンシップはタブーだ。親子関係に壊滅的なヒビがはいる」


(そうはいっても)私は戸惑う。(あなたは娘をハグして愛情を示したではないか)


「文化が違うだろう」先生は人差し指を立てた。「娘さんが結婚するまでは絶対に触れちゃダメだ。結婚したら関係はきっと良くなる、それまでの辛抱だね」


 グリース先生は日本人女性の性質も分かっているのか。意外な一面に驚きつつ、私は先生の教えを素直に脳裏に刻んだ。


 学んだ結果、私はいつもの投げやりな結論に到達してしまう。

 伝えたい思いは伝わらず、献身的に差しだした庇護ひごは冷たく拒絶される。


 所詮、子どもは他人と諦観すること。

 それが互いに傷つくことのない最善のストラテジーだ。


 結論づくと、ほどなくして電車は次の駅に停車した。

 開いたドアのそばに立っていた女子高生が、杏に大きく手を振ってくる。

「アオイ、降りるよ!」

 彼女の制服は杏と同じデザイン、たぶん高校の同級生だろう。


――なるほど、杏の本名はアオイというのか。


 アオイと呼ばれた女生徒が友人の声で目をさます。彼女は快活に手を振りながら立ち上がると、他人の顔で電車を降りていった。肩を並べて座っていた数分間、父であった私と、築き上げた成長の思い出をまるごと車両に残して。

 アオイと同級生はチラリを私を振り返ると何ごとか言いあってクスクス笑った。


 結局、私は父親として「杏」に何も伝えることができなかったよ、グリース先生。

 だが、これでいい。

 私は娘どころか妻もいない身軽な独身バチェラー。ありあまる愛情を向ける子どもは選び放題なのだから。


 私は杏に関する記憶カードすべてを脳内のシュレッダーにかけ、リセットする。

 娘として育てあげた杏は一瞬で消滅した。


 次は男の子の父親になってみたいと思う。

 ちょうど5,6歳の男の子が私の目の前に立った。この子はどうだろうグリース先生。私が蓄えたミームをうまく継承することができるだろうか。


「座るかい?」

 私がブルーのシートをポンと叩くと男児がうなずく。


 新品の白カードがシャッフルされる。

 つぶらな瞳の男児である。愛しさがあふれ出てきた。この子は大翔ひろとと名づけよう。長じて文句を言われないように、いまっぽい名前をつけておく。大翔は生まれたときは未熟児で病弱な子どもだった。ところが中学にあがると、とつぜん荒れ始めて不良化していくのだ。


 この子を育てるのはきっと難しい。父親としてやりがいがありそうだ。

 グレ始めたのは中一の夏のこと、コンビニで万引きをしたのが始まりで……。


 私は不良息子に手を焼き懊悩おうのうする父親の人生を歩みはじめた。

 息子があまりにも言うことを聞かないようなら、そのときこそカバンに忍ばせたハンティングナイフの出番である。


 社会に害をなす生命を絶つ決断。それもまた父としての崇高な責務だから。

 そうだろう? グリース先生。


 終

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グリース先生のように 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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