第3話

 しかし、グロリアがハンブランゲル皇帝と結婚して十年程経った頃です。

皇帝はしばしば都を離れ地方に遠征していました。都にいても近くの狩場を駆け回り、家でじっとしていることの少ない人でした。そんな皇帝が、狩りのとき少し怪我をしました。大した怪我ではなかったのですが、グロリアは怒って……多分それは心配の裏返しだったのでしょう。とにかくまた怒ってぶつぶつ言っていたことを覚えています。その頃私は七歳でした。

 その皇帝が怪我をした日に、北方異民族が帝国領に攻め入ってきたという知らせが都に入ってきました。北方異民族は皇帝を認めず、また私達の宗教を認めない人々です。長年彼らの平定に力を注いでいた皇帝は自ら出陣を決めました。

「エド」

と、グロリアは皇帝に言います。彼女だけは皇帝のことをそう呼んでいました。

「怪我をしているのだから」

「だからどうした」

「でも、しばらく様子を見てから」

「領地を守らねばならん。ぐずぐずしてはおれん」

「でも」

 どういうわけか彼女はこの時ひどく動揺しているようでした。もちろんこういう戦は初めてではありません。なのに彼女は皇帝が怪我をしているのに戦に行くことに不安を覚えたのでしょうか、それまでに無いくらい動揺していました。

「大した怪我じゃない。子供たちを頼むぞ」

 皇帝は笑って、彼女の頭を撫でました。

「行かないで」

 彼女は皇帝に抱きついて、泣いているようでした。こんな弱々しいグロリアを見るのは初めてだったと思います。

 これも後で知ったことで、この時まだ誰も知りませんでしたが、母は妊娠していたようです。そのため少し神経が過敏になっていたのかもしれません。……そうでなかったら、彼女は何か、予感のようなものを感じていたのでしょう。もう二度と彼には会えないのだと。

 出陣の前日、グロリアは皇帝と片時も離れずにいました。そして翌朝早くに、彼らを見送りました。私達兄妹は母のスカートにつかまって、黙って見送りました。秋でしたがとても寒かった記憶があります。


 グロリアの悪い予感は的中してしまいました。ハンブランゲル皇帝が都を出て三ヶ月目です。

 皇帝は、異民族の反乱を鎮圧することにはほとんど成功しました。ところが、なんという事でしょう。都で留守を守っていた騎士が、突然皇帝に反旗を翻したのです。皇帝にはまだ若い親類がいて、彼も皇帝に仕える騎士だったのですが、彼が主君を裏切りました。 残って都を守る役目を負っていたのはこのゴーレンという男ともう一人、シーバルゼという騎士でしたが、ゴーレンはシーバルゼを倒し、皇帝のいない都を自分の配下で固め、城を占領しました。

 グロリアは急いで兄や私や妹を逃がそうと、子供達のいる部屋にやってきましたが、もう遅かったのです。子供部屋は兵士達に占拠されました。グロリアが三人の子供を抱きかかえ、兵士達に何かどなりつけていたのを憶えています。私はまだ子供で、何が起こっているのか全くわかりませんでしたが、とにかく恐ろしく、泣き出しそうでした。でも妹のマルセが泣き出したので、頑張って涙をこらえ、妹を抱きしめました。普段から私たち兄妹はグロリアに言われていました。皇子皇女なのだから、いつ何があっても覚悟を決めて、勇気を持って行動しなさいと。

 しばらくしてグロリアは一人連れて行かれました。私たち三人と、母の侍女のオーラン夫人は固まってじっとしていました。部屋には数名兵が残されていましたから、逃げることもできませんし、どこへ逃げたらいいのかもわかりません。

 何時間かそうしていると、急に人がやって来て、私たち兄妹を引っ張っていきました。ジノーは泣く妹を守ろうと兵士に抵抗しましたが、子供にはどうすることもできません。一番年上の兄がじき三つになるマルセを抱いて歩きました。私は自分が殺されてしまうのだと思うと、震えてしまって歩くのも困難になり、オーラン夫人が抱えてくれました。

 私たちは塔に連れて行かれました。すると何とそこには、母グロリアがいるではありませんか。私は母の顔を見て安心し、泣き出しました。グロリアは子供達をひとりひとり抱きしめてくれました。

 私たち親子と侍女は塔に閉じ込められました。暗いところで、外を見る窓もありません。狭いし、ふかふかの布団も無く、ベッドには粗末な藁が敷いてあるばかりです。いつまでここにいるのだろうと不安になりましたが、母にそう聞くのが恐くて、何も言いませんでした。どうしてこういうことになったのか当時は想像も付きませんでしたが、後で聞くと、クーデターを起こしたゴーレンが皇帝を亡きものにした後にグロリアを妃にしようと計画したのだそうです。彼女が断固拒否したので我々は閉じ込められることになりました。ゴーレンは自分が皇帝になる為に皇后であるグロリアと結婚する必要がありました。それにとにかくグロリアは美しかったのです。今でも美しいですが、若かった時の彼女の美しさときたら……彼女を欲しがる者がいるのはあたりまえのことのようでした。


 さてハンブランゲル皇帝がどうしていたかと言うと、都と皇后が奪われたのを知って当然都へ戻って来ました。皇帝ですから、各地に彼に従う騎士はたくさんいますし、すぐに都に攻め込みました。ところが、不幸はまだ続きます。皇帝の身近にも、ゴーレンの手下がいたのです。裏切り者の手下が不意打ちで彼を襲いました。皇帝は都と妻子の奪還を見ることなく卑劣な手に倒れ、息絶えました。

 下手人はすぐに殺されましたが、しかし、皇帝が死んだとあっては、残された者達も自分の身の振り方を考えねばなりません。あらかじめ根回しをしていたゴーレンに従う事に決めた騎士もいました。嘆かわしい不忠の輩です。しかし、多くの者がゴーレンの所業に怒り、帝都に攻めてきました。大変な戦争になったといいます。


 この大事件の知らせはすぐ近隣諸国にも伝わり、人々を震撼させました。

北の国のマーセントリウス王はグロリアが敵に捕まっているのを知って、出陣しました。彼は彼女の危機には助けに行くという約束を守ったのです。

 しかし、グロリアのいたバンハンス城は大変堅牢強固な城でした。そしてゴーレンは大変戦争の強い男で、束でかかっていっても城を落とすことができません。ゴーレンは南方の一国の王でもあり、そちらからの物資や兵力の支援もとても大きかったのです。彼のような力のある男が、帝国を手に入れるという野望を抱くのも自然なことなのかもしれません。

 戦いは長く、断続的に続きました。中にいる我々は当初皇帝が死んだことも知らず、彼が城を奪還して助けてくれることを願って待っているしかありません。しかし、ある時ゴーレンが自ら塔へやってきて、我々に絶望的な知らせを告げました。

「皇帝は亡くなられた。皇后様がいくら抵抗しても、お子達を苦しめるだけです」

 それを聞いて、子供達は泣きました。一瞬、怒りの表情を見せてグロリアも泣き叫ぶかと思いました。しかし、彼女は泣きませんでした。とっくに覚悟を決めていたのかもしれません。

「それが本当ならば、私も死ぬまでです」

「皇后様が私の妃になれば、諸王や諸侯を納得させることができるでしょう」

「あなたが皇帝だなんて、私は絶対に認めません」

 それを聞いて、ゴーレンはかっとなったように赤くなり、恐ろしい目をしました。しかし依然として自分より身分の高い人にそれ以上無礼が働けず、そのまま踵を返し、出て行きました。

それから数週間経ったでしょうか。その悲しい出来事は起こりました。

 ある朝、数名の兵士達がやってきて、ジノーを連れて行ってしまったのです。グロリアは息子を連れて行かれまいと、必死に抵抗しましたが、突き飛ばされて倒れました。そのまま彼女が苦しみだしたので、私もマルセも恐怖に耐えきれず泣き出しました。

 グロリアはジノーを呼びながら苦しみ悶えていました。彼女の腹はとても大きくなっていました。赤ん坊がいるのです。誰も母を助けてくれる者はなく、私と妹は必死で母にすがりつきました。


 幸い無事に赤ん坊は生まれました。女の子だったのでグロリアは泣いて神様に感謝しました。男の子だったらジノーのように連れて行かれる……そう思ったに違い有りません。ジノーはどうなったのでしょう。どこへ行ったのか、生きているのかどうか、誰にもわかりませんでした。グロリアは黙って赤ん坊に乳をやりつききりでせっせと世話をしました。彼女は黒い髪のアリアナです。こんなにかわいらしい赤ん坊は見たことがありませんでした。

「かわいそうな娘達」

 グロリアは子供達に言いました。

「こんなに小さいのに、お父さまにお会いできなくなってしまったなんて」

 アリアナは父親が死んでから生まれました。マルセは小さすぎて、父親の顔も憶えていないでしょう。私でさえはっきりとは思い出せません。年月が過ぎるうちに、どんどん父の面影は遠ざかっていきました。それはとても寂しいことです。

 日もろくに入ってこない塔の中で、月日は過ぎていきました。高いところにある窓から少しだけ空が見えました。夜には目をこらすと星が見えます。じっと見ていると星は移動していきます。グロリアは星の運行のことを教えてくれました。また、占星術や、天気予報の仕方も教えてくれました。小さいマルセが熱を出した時は、牢番に指示して薬草を持ってこさせ、煎じて飲ませました。彼女はとにかく物知りだったのです。

 食事や水はちゃんと毎日与えられました。閉じ込めておけば何の害もない女達です。最低限の施しをされて、放っておいてもらえました。時々あの裏切り者のゴーレンがグロリアを説得に来ましたが……。

 いつも彼が来たとき、ジノーがどうしてるのか聞けばいいのにと私は思っていました。でもグロリアは決して聞こうとせず、ゴーレンもグロリアを得ようと苛立ちながらも、教えてくれようとしませんでした。それを確認しあっても、お互いにとって何のいいこともないと、大人達はわかっていたのでしょう。


 塔にいた月日は本当に長く感じられました。私たち姉妹は優しい母とオーラン夫人に守られ、いろいろなことを教わって、何年も何年もそうしていたように感じます。でも実際は一年くらいだったといいます。その間もグロリアの美しさや気高さは決して衰えませんでした。

 そんなある日のこと、ようやく助けは来ました。

 何日も前から様子がおかしいとは思っていましたが、塔の外では戦の声がやまず、それがいつもよりずっと大きな声で、人が泣いたり叫んだりする声まで聞こえてきていました。グロリアは子供達を塔の奥にやり、窓を見上げていました。どこからともなく、きな臭い匂いまでしてきます。グロリアは真剣な顔で、小さな窓から少しでも外の様子を知ろうとしていました。

 とうとう、この私たちがいる塔の周りに大勢の人がやってきました。鍵が見つからないのか、外で騒ぐ男達の声がして、グロリアは急いでアリアナを腕に抱きました。おかあさま、と私は恐くて泣きそうになりましたが、今は私が一番年上の子なのだから、と気を奮い立たせて、我慢しました。

 外から呼びかける声がしました。グロリアがそれに応えました。外の声は、戸を破るからどくように言いました。グロリアは子供達を安全な場所に移動させました。

 そして、戸は破られました。……助けが来たのです!

 その時のことはもう、呆然としてしまって、とにかく明るい光が戸口から押し寄せて、私たちを溺れさせようとするかのように感じたことしかわかりません。それからどうなったのか、グロリアが知らない騎士に抱きついて泣いているのを見ました。彼女はひたすらジノーの名前を呼んで泣いていました。そこにジノーがいるのかと思ったら、そうではなくジノーがどこにもいないことを知って彼女は泣いていたのでした。悲しいことに、彼は既に病気で死んでしまっていたのです。


 その時私は知らない男の人達ばかりに取り囲まれて怯えていましたが、突然見知った若い帝国の騎士が人混みをかき分けて走ってきました。そして私たちを一人一人抱きしめてくれました。グロリアはあの騎士の腕で気絶していました。その立派な騎士とは、レイモルドです。ハンブランゲル皇帝に敗れて彼女の元を去ったあの南の王子でした。また、マーセントリウス王もいました。彼は私を抱え上げ、マルセは誰か知らない従者が、そして、黒髪のアリアナを皇帝の亡くなるとき側にいたという若い騎士が抱いて、塔から連れ出してくれました。オーラン夫人も帝国の騎士に助け出されました。

 こうして、戦争は終わったのです。ゴーレンは殺されました。それから新しい皇帝が選ばれました。

 誰がどう決めたのかはよくわかりません。グロリアや子供たちはこの帝都を離れ、グロリアの実家である北の都トゥルンザーベルクの王宮へ移ることになりました。グロリアは、子供を守るため気を張っていた日々から解放されてやっと、エドやジノーを失った自分の苦しみを思い出したようで、何も手に着かずぼんやり過ごしていました。その間はマーセントリウス王のお妃様たちが私たち子供の面倒を見てくれました。でもグロリアも、生まれた王宮で暮らすうち気持ちも落ち着いたようで、やがてまた子供達に笑顔を見せてくれるようになりました。


 それから……。

 グロリアは南の王子レイモルドと結婚しました。九歳の時から私を育ててくれた優しい父とは彼のことです。その時に聞いてびっくりしたのですが、彼は十何年も彼女のことだけを愛し続けて独身でいたそうです。

 結婚と同時にレイモルドは病で寝込むようになった老父王から位を譲り受け、南の王として即位しました。私たちは南の都アルスヴェールの王宮に移り住みました。帝都ほどきらびやかで贅を尽くした宮殿は有りませんでしたが、アルスヴェールもとても美しい都で、人々は優しく、豊かな土地でした。新しい父はとても優しく、よく一緒に遊んでくれました。驚くべき記憶力の持ち主で、何でも教えてくれました。私たち姉妹を実の娘のように可愛がってくれました。グロリアと彼はいつも一緒で、二人がどんな時も本当に仲が良いので、私たち姉妹はそんな母にはじめとても驚きました。でも幸せそうな母の顔を見るのはなにより嬉しいことでした。 ジノーがいなくなった悲しみも、彼女のエドがいなくなった悲しみも、レイモルドが和らげてくれていることでしょう。失ったものは帰ってきませんが、また新たに愛は生まれます。母と新しい父の間に、弟達も生まれました。


 そして、私は成長して、北の国に嫁いで来ました。舅となったマーセントリウス王はどういうわけか小さいときから私を気に入ってくれていて、この結婚も王の希望が大きかったようでした。大変居心地の良い待遇をしてもらっています。王は相変わらず明るく、強く、皇帝と違って美しいお妃様一筋で、お二人の間にはたくさん王子や王女がいます。

 そして、誰より美しく賢明なルシチーア王妃様は、私におっしゃいます。

「悲しみに押しつぶされそうになったら、あなたを愛してくださる存在を思い出してください。 あなたの中にどれだけの愛が満たされているか、きっとおわかりでしょう。 そしてあなたも愛し続けてください。尽きることはありません。あなたのお母様がとても愛情深い方だと私もよく知っていますよ」と……。


 さて、これを書いている最中、驚くべき事が発覚しました。真っ先に国の母に手紙を書かなければなりません……きっと泣いて祝福してくれるでしょう。私も数ヶ月後母になるのだと、今しがた判明したのです。

 思いがけずこの驚くべき事件に興奮しながらこの手記を締めくくることになりました。

 そういうわけで長かったこの話もこれでおしまいです。

 勇敢な騎士達の活躍や、グロリアの子供達ひとりひとりのこと、彼女の日々の生活、彼女の周りの人たちの事、書ききれなかったことはたくさんありますが、これ以上語るのも今はかえって余計なことでしょう。

 神様の栄光が現され、世々に褒め称えられますように。神様のお守りと祝福が両親の上にあるように。これからも私はずっと、祈り、感謝し続けるでしょう。

 それでは長らくおつきあい頂いた読者様、ごきげんよう。いつの日かまたお会いできる時まで。

 何かの偶然でこれを読まれたお方の上にも、喜びと祝福の注がれることを願って――。



…ナルアニーエの手記・終わり…

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ナルアニーエの手記 緩洲えむ @kitsuneponchan

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