第2話

 さてそのようにして、皇帝やグロリアのいる城を包囲した北の兵達は、グロリアを返すように帝国側に要求しましたが、聞き入れられず、攻撃を仕掛けました。立て籠っていてもなんともなかったかもしれないのですが、皇帝は片を付けようと、城門から兵を出して応戦しました。とはいえ、皇帝本人が初めから出て行くことはありません。指揮を執る立場にいながらいつも先頭切って攻め込むマーセントリウス王が非常識で無責任なのだとよくグロリアは言っていました。マーセントリウス王の名誉の為に言っておくと、王が誰よりも勇敢だということは紛れもない事実です。

 ところが恐れていた通り、とうとうマーセントリウス王は捕虜になってしまいました。それを見ていたグロリアは怒り狂って、無謀なマーセントリウス王のことを罵り、国を出て以来初めて泣いたといいます。

 若いマーセントリウス王はハンブランゲル皇帝の前へ引き出されました。皇帝はもちろん、安全な場所で指揮を執っていた、マーセントリウス王風に悪く言えば高みの見物をしていたくちです。とはいえ決して臆病だとか自分は楽をして部下に戦わせる方だとかいうわけではなく、戦略を重んじる方だから、自分が出て行くべきかどうかきちんと見極めていたのです。

 グロリアは拘束されていたわけではありませんが、部屋で一応の監視を受けていました。しかしとっさに気絶でもした振りをして、周りが油断していた隙に警戒を振り切り、皇帝のところへ駆けつけました。

 ……衣の間に、剥き出しにした短剣を隠し持って。

「マーセントリウスを殺したらあなたを殺す!」

 グロリアは皇帝に向かってそう叫びました。彼女が皇帝のすぐ側に近寄るまで、その細い手に刃物が有ることを誰も予想しなかったのです。

 もちろん誰もが驚き、一瞬動けなくなりましたが、すぐに周りにいた兵達がグロリアに向かって槍を構えました。女性がそう簡単に殺人行為に及ぶとは思わないでしょう。でも彼女は、まるでクリームヒルトのように怒って皇帝の首筋に刃を立てようとしています。

 皇帝は、まるでその場の緊張を解こうとするように、笑いました。馬鹿にされたように感じ、更に彼女は怒りました。 まず、皇帝は落ち着いて、兵達に向かって、この女性に武器を突きつけないようにと命じました。兵達は皇帝の言うとおり一度武器をひっこめかけましたが、グロリアが首を横に振って動かないので、また彼女の命を狙おうとします。まったく、皇帝に謀反の刃を向けて殺されなかった人間は後にも先にも彼女だけでしょう。

「剣を床に置きなさい」

 皇帝はあいかわらず優しい目でグロリアを見ていました。どうしてだったのか、それはむろん彼が彼女を愛していたからだとしか考えられませんが、決して力ずくで彼女の剣を奪い取りはしません。

「マーセントリウスを解放して」

「もし儂を傷付けたとしても、その途端そなたもマーセントリウス王も彼らに殺されるぞ」

「あなただって死にたくないでしょう?」

「さあ、それはどうかな。儂もマーセントリウス王も、戦場ではいつも死ぬ覚悟をしているのだからな。だがそなたは戦士ではない。こんな形で命を落とすのは道理に反することだ。剣を持ってはいけない」

 マーセントリウス王は縄をかけられ、返り血や砂で汚れてはいたけれど、大きな怪我をしているわけではありませんでした。先程からグロリアを怒鳴りつけ、馬鹿な真似をやめるよう説得します。でも彼女は聞きません。

「何と言われようと、私が殺されようと、関係無い。マーセントリウスを解放して」

「何の力をもってそなたは儂に言うことを聞かせようというのだ?」

「力」

「そなたは外国の王女に過ぎない。短剣一本でどうやって儂を従わせようとする」

 グロリアは困惑しました。諸民族を統合する広大な帝国を治める皇帝という存在が、マーセントリウス王や自分より一段高いところにいて、グロリアの好むと好まざるとに関わらず彼女を従わせようというのでした。

「話し合わなくても結構です。先に我々の国に対するテロ行為をしたのは陛下ですから。こちらも身を守るために戦います」

 彼女を強引に攫ってきたことに何の道理があるというのかと、そう言って、恐い目を皇帝に向けました。

「そなたのそういうところはとても良い」

 皇帝は更に笑いました。

「こういうのはどうか。儂は誰の言うことにも従わないが、皇后は別だ。そなたが儂の后になるなら、そなたの希望に従って、王は解放してもいい」

 それを聞いて激怒したのはマーセントリウス王です。

「汚い真似をするな! それより剣で勝負しろ」

「命をかける相手が違うのではないか」

 皇帝は、王がもうすぐ妃を迎えようとしていたことを知っていました。マーセントリウス王も反論しづらかったようですが、それでも決して引きません。

 でもグロリアは突如刃物を床に置きました。同時に、兵士が飛びかかってこようとしましたが、皇帝が怒鳴りつけ、彼女を守りました。

「マーセントリウスだって以前同じようなことしたじゃない。だからこういうことが起こるのよ」

 彼女はマーセントリウス王にしがみつき、泣いて必死に彼の戒めを解こうとしていました。

 その時、ハンブランゲル皇帝に一騎打ちを申し入れて来た者がいたのでした。グロリアに求婚していた南の王子レイモルドです。

 レイモルドもマーセントリウス王と一緒に帝国内へ攻め入っていたのです。彼は単身ですぐにやってきました。彼もまた勇敢な騎士でした。彼なら、と皇帝も戦いに応じます。グロリアはこういうやり方に納得せず、どうするかはグロリアが決めると申し出ました。けれど、それに納得する者はいません。

 彼らは城の修練場に出ました。城の外では、王を奪われた北の兵士達が為す術もなくおろおろと周りを取り囲んでいました。

 さて、彼らは剣で戦いました。騎士同士の約束なので、初めの誓約に基づいて負けた方はグロリアを諦めねばなりません。

 レイモルドは勇敢さと強さでは誰にも負けません。しかし一方、百戦連勝のハンブランゲル皇帝も、それ以上に恐るべき剣の使い手でした。マーセントリウス王にも勝負は目に見えていたといいます。

 とても残念なことにレイモルドは皇帝にかないませんでした。ここで彼が勝っていたらグロリアの人生も大きく変わった可能性もありますが、南の国一の騎士も、ハンブランゲル皇帝には問題ではなかったようです。それに、もし皇帝の命が危うくなろうものならすぐに周りを取り囲む帝国の兵たちが襲い掛かってレイモルドは殺されていたかもしれません。実際はそんなものだと皆の見解は一致しています。

 いずれにせよ健闘虚しくレイモルドは敗れました。しかし、皇帝は彼の命を奪わず、約束通り立ち去ることを要求しました。

 グロリアはマーセントリウスに別れを告げました。しかしもう泣いてはいません。皇帝が勇敢で誰よりも力が有り、自分を支配する権利の有る人だということはわかった、今自分に必要な理由はそれだけであって、自分は皇帝と結婚して彼を愛するよう努力する、と言ったのでした。

 そしてレイモルドにはこう言いました。

「あなたが命をかけて助けてくれようとしたことは忘れません」

 彼女はそのままそこを立ち去ろうとしました。マーセントリウス王は後ろから抱き寄せて、グロリアに耳打ちします。

 もし窮地に陥って助けが必要になったら、必ず助けに来るから、と王は彼女に堅く約束しました。そしてまるで兄妹のように別れを惜しみました。


 戦いに敗れたレイモルド王子のことに関しては、言及するのはやめておきましょう。彼がどんなにか苦悩し、死んだ方がましな程面目を失ったように思ったか、誰でもわかるでしょうから。ただ彼の名誉の為にひとことだけ言っておくと、それでもやはり彼は南の国一強い騎士でした。

 マーセントリウス王とハンブランゲル皇帝は和解して、すぐに皇帝とグロリアとの結婚式が挙げられました。急だったとはいえ、それでも皇帝はぬかりなく準備していたので、見たこともないような華やかな宴が催されました。次の日にもその次の日にも馬上槍試合が行われ、街の人々にも酒やご馳走をふるまう気前の良い宴会が何日も続くうちに、各地から人がどんどんやってきて、神々しいほど美しい花嫁を見ては感嘆の声をあげるのでした。

 そして一週間に及ぶ婚礼の宴が終わると、マーセントリウス王は騎士たちを連れて国へ帰っていきました。侍女と一緒に残されたグロリアは泣きませんでした。いつも気丈に振る舞い、若くして既に十分な皇后の風格を見せ、その高貴さと凛とした佇まいは帝国の人々を圧倒しました。彼女を選んだハンブランゲル皇帝の目は確かだったと言えるでしょう。


 私から見ると、グロリアは皇帝の前ではいつも決まって不機嫌そうでした。人前では普通の夫婦のようにしていましたが、家族だけでいる時はあまり仲が良さそうには見えなかったのです。グロリアの気持ちを考えると当然でしょう。しかし皇帝は明らかにグロリアを愛していたし、私が当時思っていたほど仲が悪かったわけではないのかもしれません。いつかグロリアが自分の髪飾りが取れてしまったのを、不機嫌そうに皇帝に付け直してもらっている場面を目撃したことがあります。考えてみたら嫌いな相手にそんなことはさせないでしょう。

 とにかく、結婚後しばらくしてグロリアは男の子を産みました。彼はジノーと名付けられました。皇帝はとても喜び、ますますグロリアを大事にしました。それから三年ほどして、女の子が生まれました。もうおわかりかと思いますが、それが私ナルアニーエです。ナルアニーエはグロリアの母親と同じ名前だそうです。

 それから妹マルセも生まれました。兄ジノーが一番母親に似ていたと思います。私もマルセもどちらかというと父に似て、それでも美しいと言ってくれる人は大勢いますが、やはり絶世の美女である母に似たかったと思うのは自然なことでしょう。もちろん、私は父皇帝を愛していますから、父に似ていると言われるのもそれはそれで嬉しいものです。そんなにしょっちゅう父と子で顔を合わせる生活をしていたわけではありませんが、皇帝も子供達をとても愛しかわいがりました。


 グロリアは子供達を熱心に教育しましたから、私達は随分と幼い頃から文字を読み書きし、難しい聖句なども暗記して、周りの皆を驚かせました。また、グロリアはとても素敵な歌声を持っていて、彼女がどこかで歌っているとすぐにわかりました。よく通る声で、私たち兄妹にたくさん歌を歌って教えてくれました。全て南方語の歌詞で、今考えると北で生まれ育った彼女がどこで南方語の歌を憶えたのか不思議でなりません。随分小さいときだったから記憶もごっちゃになっているし、当時歌って貰ったのが何という歌だったかもう憶えていないので、何とも言えませんが、私が後に南の国へ行ってから耳にした歌の中に、聞き覚えの有るものがあったので、かつて母が私たちに歌ってくれたのは南の国の歌だったのかもしれません。


 グロリアは皇帝の正妻ではありましたが、皇帝に何人もの妾妃がいることがどうしても許せないようで、よく父と喧嘩していました。喧嘩というより、彼女が一方的に怒って、怒鳴ったり物を投げたり、普段人前で見せる穏やかさや落ち着きから想像できない程ヒステリックになりました。そんな恐ろしいグロリアを皇帝が笑ってあしらっているのは、子供心に驚くべきことでした。そんな時彼はグロリアをまるで子ども扱いしました。

 皇帝は彼女がヒステリーを起こすと決まって彼女をどこかへ連れて行ってしまいしばらく行方をくらませました。残された私達兄妹は母の変わりようにショックを受けただおろおろとしているだけです。でもそういうことが度重なると、だんだんおろおろすることもやめ、黙って母が戻ってくるのを待っていました。時々思い出すのですが、兄ジノーと二人で、母のベッドに登ったり、収納棚に飛び乗ったりしながらも、普段のようにはしゃいで遊ぶんでなく、黙って遣る瀬無く母を待っていた記憶が、鮮明に心に残っています。黒い髪の兄が、妹よりは事情を知っていそうな様子で、不機嫌そうに口をつぐんでいる美しい横顔。母のベッドにかかった薄緑色のカーテンの、しつこいほどの襞ひだを、黙って端から無意味に数えたこと。別にどうということもない記憶ですが、時に涙が出るほど懐かしく思います。

 両親がその間にどこかで仲直りしているのだと、今では私にもわかるのですが、その後和解して仲良くしている場面を見るわけでもなく、私の覚えている父母揃った姿は母グロリアの罵声にしっかりと彩られてとても凄惨なものでした。私が思うに、親というものは喧嘩している時でも、子供の前でだけは仲睦まじくしているべきです。子供には男女の複雑な関係がよく理解できないのですから。

 後でグロリアの侍女ティフィル、今はオーラン夫人と言われている人に聞いてみると、グロリアと皇帝は仲が良かったと言い張ります。にわかには信じがたいですが、本当にそうだったのかもしれません。

 とにかくそうやって揉めながらも、幸せと言える日々が続きました。

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