ナルアニーエの手記

緩洲えむ

第1話

Prologue


 大好きなお母さま。懐かしいお母さま。いかがお過ごしですか。お父さまはお健やかにお過ごしでしょうか。妹たちがどうしているか、生まれたばかりだったユリアンがもうどれくらい大きくなったかしらと、よく家族のことを思い出します。

 もちろん、私はとても元気です。ここへ嫁いでまだ三ヶ月ちょっと、前のお手紙で泣き言を書いてしまいましたが、ご心配おかけして申し訳ありませんでした。ようやくここでの生活に馴染んできました。未だに慣れない言葉や習慣には戸惑いますが、こちらの方々はとても私をかわいがってくださいます。夫はジノーと同じ年の生まれで、二十一になったばかりです。兄のイメージのせいか、お会いする前は、結婚するにはまだ若いのではないかと心配でしたが、私も当然とっくに兄の年齢を追い越してしまっているのに、無用な心配でしたね。生きていれば兄もこのような立派な若者だったと思うと不思議な気分です。

 彼はマーセントリウス王に似て勇敢で、正義感が強く、意外と不器用ですが、優しい方です。どのように優しいかというと、不器用な言葉や態度で、優しい思いを私に一生懸命投げかけてくれるところが、優しいと思います。お母さまの旦那様のようには美しい方ではありませんが、このような方が私の夫になったのはとても幸せなことですね。

 マーセントリウス王もお妃様も私を実の娘のようにかわいがってくださっています。お母さまはここでとても愛されていたのですね。お母さまのことを話す皆の顔や口調でとてもよくわかります。マーセントリウス王は私の三人目のお父さまということになります。どのお父さまも私にとって大事な方々です。だから、心配しないでください。本当のお父さまが亡くなったとき、お母さまは私のために泣いて下さいました。お母さまがご自分のご両親を早くに亡くされたから、私が不幸になってしまうとお思いになったのでしょう。でも私は、お母さまの愛情を存分に受けて育ち、そしてこうして今皆に愛されて幸せでいるのです。私を産み育ててくださったお母さまに感謝の気持ちで一杯です。離れてみて一層そう感じます。お母さまと、お父さまが、いつまでもお健やかに、仲良く、そしてお幸せに日々を過ごされることを、遠い北の国より、お祈りしております。

ナルアニーエより


****************


 私は大好きな家族と別れ、この北の国に嫁いできたばかりです。私の夫は北の王の第一王子ルーディンです。私の母は前王の娘で、私の母とマーセントリウス王は従兄妹同士になります。

 私は外国で育ったので、この国のことをあまりよく知りません。言語だけはかろうじて母に習っていました。母はとても賢く教育熱心な人でした。母と私たち兄妹は、実の父が亡くなってから一年ほど塔に幽閉されて暮らしていた時期があったのですが、その頃も毎日、母が壁や床に文字を書いて外国語や古典を教えてくれました。あの日々は今思い出しても涙が出るほどつらいこともありましたが、母はいつも優しく朗らかで、つらい環境の中であればあるほど、私たちを安心させようと穏やかに微笑んでくれました。だから私も妹のマルセも安心して生きてこられたんだと思います。

 私が知っているのは物心ついてからのことですが、両親だけでなく母の侍女のオーラン夫人からも、私が生まれる前のいろんな話を聞いています。

 母がどうして父と結婚することになったのか、大人になった今考えるととても大変な事態だったのだと理解できます。とにかく母の半生は波瀾万丈だったと言えるでしょう。

 母は私の父と結婚する前に、既に結婚して夫と死別していたそうです。そういった話は、国では私にとってよくないと考える人が多かったのか、誰もちゃんと話してくれなかったので私もよくは知りません。ただ、東の国にいる王子が母の息子だということは何となく耳に入っています。北の国の都トゥルンザーベルクの宮廷に嫁いでから耳にする機会が一度ならず有りました。その辺りのことは今までの私の人生の中で大して重要でなかったので、また別の機会に調べてみようと思います。 私が書こうとしているのは、母が父と結婚することになった経緯からです。

 ここに記す便宜上、母も名前で呼ぶことにしましょう。母の名はレーテルアルと言います。でも父が彼女をグロリアと呼んでいたので、私も彼女をグロリアと書きましょう。

 グロリア王女が最初の夫を亡くした後、再婚話はいくつも有ったそうです。なにしろ絶世の美女と言われる人でしたし、それに彼女との結婚には利権も絡むのですから。特に熱心に求婚していたのは南の国の王子でした。でもマーセントリウス王は二人の結婚に反対でした。それは、かつてグロリアが南の王子との婚約を破棄して、最初の夫と結婚してしまったからです。それでもグロリアを諦めきれなかった南の王子レイモルドは、彼女に会って何度も求婚しました。グロリアはもちろん躊躇い、断り続けながらも、心は揺れていたようでした。側近のオーラン夫人にも、受けるべきかどうか相談していたそうです。

 ところが、大変な事が起こりました。グロリア王女は北の国内にいくつか領地を持っていて、一度その中のひとつ、アヴォネーの城へ行くことにしたそうです。東の国との国境付近にある土地です。事情はわかりませんがとにかく彼女は宮廷を離れました。それが大変な事態を引き起こしてしまうとは誰も予想していませんでした。

 アヴォネーへ向かったグロリアの一行は、途中大勢の兵に取り囲まれ、グロリアと彼女のお側にいたオーラン夫人が彼らに略取されてしまったのです。彼女を連れ去ったのは、かねてよりグロリア王女に執心していたハンブランゲル皇帝でした。

 皇帝は彼女を攫うと手勢を引き連れ凄まじい勢いで逃げました。もちろん、帝国へ戻れば皇帝も強大な軍事力を行使できる身ですが、引き連れていた数十名の騎士では、北の何万もの兵に対抗できません。北の国を出て、東の国を通り抜け、そして帝国領に入るまでに追いつかれたら、皇帝といえどひとたまりもないのです。

 もちろん、マーセントリウス王は追いかけました。昼夜分かたず馬を走らせ、脱落者も顧みず、王は自ら先頭きって馬を駆りました。でも差はなかなか縮まりません。もともと都から離れた場所で彼女は略取されたのだから、追いかける方が不利でした。

 母グロリアにそれは恐かったことでしょうと聞いてみたところ、彼女自身はそれほどでもなかったようです。なにしろ彼女は絶世の美女ですから、略取されることは度々有ったそうだし、戦争で人質になったこともよく有ったそうです。私も母のように美人だったらと思うことはありますが、でも分相応、という言葉があるように、人はそれぞれ持って生まれた分をわきまえねばなりません。私には母の神経がわかりかねます。私は自分の幸せをかけがえなく思っているからそれでいいのです。


 さて攫われたグロリア王女の話ですが、皇帝は東の国をまっすぐ突っ切って帝国領へ入ると思っていたのに、どういう訳か途中進路を変えてわざわざ東の都ゴーターへやってきたそうです。詳しくはわかりませんが当時小国である東の国は帝国に頭が上がらなかったそうなので、東の王は行く手を阻むこともできず、わざわざ立ち寄った皇帝に挨拶に出てきました。

「詳しく話している時間は無い。スムーズに関門を通れるよう先々の街道の通行を正式に許可してもらいたいのと、それからひとつ頼みがある」

 皇帝はそう言ったそうです。

「今すぐ王子を連れてきて、一時でいい、この婦人に抱かせてやってくれ」

 そう言われて初めて東の王は皇帝の側にいたグロリアを見たそうです。グロリアもびっくりして東の王を見ました。彼らは初対面でした。そして目の前にいるのが東の王だということもグロリアはその時まで知らなかったのでした。

 すぐに乳母に抱かれて来たのはまだ小さな王子でした。王子は物心もつかない様子で、生まれてまもなく引き離されてしまったこの女性が誰かさえわからないのでした。彼はグロリアの腕に預けられ、グロリアは泣き崩れました。これが孫の母親なのだと知った東の王は皇帝に、グロリアをここへ置いていってくれるよう懇願しました。しかしそれは聞き入れられませんでした。知らない人に抱かれてびっくりした幼い王子は、グロリアの手を逃れようとし、祖父の方へ手を伸ばして泣き出しました。王子が東の王に抱かれるのを見ながら、しばらくして、グロリアは皇帝に言いました。

「もう十分です。帝国に参りましょう」

 もう涙は見せませんでした。東の国が帝国と仲違いしこの王子の将来に悪いことが起こるのを彼女は恐れたのです。

 彼らはすぐにゴーターを出発しました。後でわかったことですが、北の王がゴーターに到着したのはこの半日後だったそうです。マーセントリウス王は、突然のことで事情を理解していなかったとはいえ王子の将来を案じてグロリアを守らず皇帝を逃がしてしまった東の王を非難しました。でも北と東の仲が良くないのはこの時から始まったことではありません。マスコルド王やその前の王の時代から仲は良くなかったし、その後諍いがあったらしく特にマーセントリウス王の東の国に対する心証は悪かったのです。でも、グロリアの息子である小さな王子を見て、マーセントリウス王の気持ちも和み、それ以上何も言わず、また皇帝を追いかけて行ったのでした。


 しかし、皇帝はぎりぎりのところで北の王の追跡を振り切り、帝国領へと逃げ戻りました。今度はマーセントリウス王の方が敵地にそう無謀に入っていけず、一度諦めるより他ありませんでした。王女を奪われてしまった北の騎士達は涙を流して悔しがりましたが、仕方ありません。今度は戦を仕掛ける準備をせねばなりません。グロリアが彼女の望まぬ事態を強要され兼ねないのでぐずぐずしてもいられません。

 帝国領の奥深くに踏み込めず去っていく北の王の一団をグロリアは寂しい思いで眺めながらも、気弱に泣いたりはしませんでした。彼女はとても気丈な人間です。

 そんなグロリアを皇帝はとても気に入って、丁重に扱いました。彼女の望まないことは決してしませんでした。もともと女性に不自由していない方です。手の内に収めてしまいさえすれば、結婚はグロリアの承諾を引き出してからでも遅くはなかったのでした。

 皇帝が正式な后をこれまで置かなかったのもそれほど切羽詰まった必要を感じていなかったためで、そろそろ跡継ぎをと周囲にしつこく言われるものだから、やっとお后捜しに本腰を入れて諸国を回っていたところでした。だからグロリアともだいぶ歳が離れていて、当時彼女が二十歳そこそこだった時に、皇帝は四十にはなっていたことになるでしょう。

 グロリアは立派な部屋を与えられ、たくさんの召し使いが彼女に仕えました。


 ところで帝国の言葉は、私が母語としている南方語です。母は北の出身なので北の国や東の国、西の国で使われている北方語が母語だったと思いますが、彼女はとても教養があったので、南方語を自在に使うことができたそうです。きっと今北の国へ嫁いできて言葉に苦労している私のような苦労は無かったことでしょう。いえ、苦労が有ったとしても私と違い、彼女は泣き言を言う人ではありません。 でも、彼女は多分彼女に求婚していた南の王子に対して何か想いが残っていたのかもしれないと私は思います。これは勘でしかありませんが。そのせいか彼女は皇帝に結婚の承諾の返事をしませんでした。

 そうして待っているうち、当然、マーセントリウス王がグロリアを取り返しにやって来ました。南の王子レイモルドも一緒です。皇帝は北の国だけでなく南の国も敵に回してしまったことになります。帝国領と国境を接し帝都を側面から攻撃できる南の国が北を後援すれば帝国にとってもありがたいことではありません。

 とはいえ、皇帝はグロリアを返す意志が無かったものですから、当然受けて立ちました。

 戦争の時代とはいえこういつも戦の渦中にいるグロリアも気の毒といえば気の毒です。しかし、その為に戦う者達も気の毒です。指揮を執る方はもう少し冷静に物事を見るべきなのではないかと思います。戦を知っている人ならわかると思いますが、騎士達の戦いは血みどろになり両者全滅するまで殺し合う時とそうでない時があります。戦をしたという事実だけ欲しくて籠城する城をだらだらと攻撃してみたり、また仲の悪い領主達が年中行事のように毎年形ばかりの抗争をして死者のいない戦も有ります。どのような戦をすべき時か見極め、引き際を心得ることも、この時代の騎士の重要な能力の一つでしょう。ところが、マーセントリウス王は死を賭した攻撃を皇帝に対して仕掛けてしまったのです。

 本来、王女を奪われたとはいえ皇帝のような方が正式な后にするために連れ去ったなら、奪われた側が威信の為に戦を仕掛けるのはいいとしても、一国の王が死ぬ程の危険を冒すべきではないそうです。いえ、それは母グロリアが私に言った言葉です。母に言わせると、グロリアの為にマーセントリウス王が自分や自分の騎士達の命を捨てるべきではないそうです。どうしてそんなことを言うのか私にはよくわかりませんでした。もしグロリアが皇帝との結婚を望まず、まして、他に結婚したい人がいるのであれば、他の男達がグロリアを助けに来るのは当然のことではありませんか。母は当時の気持ちを忘れてそんなことを言ったのかもしれませんが、でも確かに、この戦でたくさんの兵が死んだのを思うと、知らない人々ながら、心が痛みます。彼等の魂の為に祈るばかりです。

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