第3話 朝定食


 狭い階段を降りていくと、突き当りのトイレのドアにあまり達筆とは言えない大きな字が書き留められたメモが貼ってあった。店にいるので用があれば店舗スペースへ来てくれとのことだ。

 まず脱衣場で、ずり落ちそうなズボンを洗面台と体で挟み込んで顔を洗い髪を括ってから、彼女は廊下の東の端にある店舗へ行ってみた。店とプライベートを区切っているドアを開けたところにある段差にはバリアフリー仕様の踏み台があり、かつて高齢者がここに住んでいたことを示している。そこに昨日自分が履いてきた靴が、ぎゅうぎゅうに新聞紙を詰めて乾かされていた。「あ、おはようございます」


 厨房から店主が顔を出した。彼女は少し悪びれた様子で挨拶を返す。


「おはよう……ごめん、結局朝まで爆睡してた。もしかして、起きて待ってた?」

「すみません、僕も寝ちゃってました」


 それを聞いて、彼女も安心した様子で、ぼやいて見せた。


「あーあ、ホテル、キャンセル料払わないといけなくなったよ」

「あ、体の具合はどうですか」

「おかげさまでだいぶいいよ」

「じゃあ、よかったら、朝ごはんどうぞ」


 さっとカウンターに置かれたもてなし盆の上には、ご飯の茶碗と味噌汁。つややかな白い米粒が茶碗の中で甘い香りを漂わせていた。ところどころ赤茶色がかった粒がある。これは何かと聞いてみると、もち麦とのことだった。 味噌汁はわかめと薄揚げと葱。角皿の小鯵こあじの開きと紅生姜の入っただし巻きが二切れ、小鉢には京菜のおひたし。二連皿にはカットした焼き海苔と青菜漬けが添えられている。

 食器は塗り椀以外は昭和のレトロ感漂う器で統一され、先細さきぼその四角箸がとても使いやすそうだ。

 いただきますと軽く合掌して飯を口に入れた瞬間、彼女は一瞬目を見開いた。


「うまっ」

「うち、炊飯器じゃなくて羽釜はがまで焚いてるんですよ」

「へえ……」


 彼女にとって羽釜など日本の民話に出てくる代物しろものだ。あんなものでちゃんと炊けるのかと思いつつもう一度口に運ぶと、普段食べているものより甘くしっとりと感じた。もち麦も、一粒摘まんで噛むと、もちもち、しこしこと弾力がある。

 彼女にとっては朝に魚を食べるなんて旅館やホテル以外ではありえないことだったが、この小鯵の香ばしさもどうだろう、骨を齧りたくなるほどうまい。だし巻きもおひたしも、自分の体には足りていなかった栄養を補ってくれるような気がする。

 彼女は感動しつつ、尋ねた。


「こんだけうまいんなら、この店、けっこう儲かってんじゃない?」

「儲かりませんねえ。儲ける気もないし……」

「ええ……まじでうまいのに」

「僕一人が食って行ければいいんです。客あしらいも下手ですから、手は広げずにこぢんまりやってます。本当は引き籠っていたいんですけどね」

「え、そう?」

「ええ、引き籠れるなら引き籠りたいです」

「よく私を助けたね」

「困ってる人を放置できるメンタルがあれば、今頃は引き籠れてました」


 彼はシニカルに、かつ温和に言った。昨晩の人助けでアグレッシブな人間だと思ったのだが、この男には隠者じみたところがあり、人間不信と言っていたのも出まかせではないようだ。


「ここ、祖父母がやってた定食屋だったんです。七年前に他界しましたけどね」

「あなたがこの店継いだんだ」


 昨晩のあんた呼ばわりがいつのまにか、あなた、に変わっているに気づき、店主は苦笑した。


「いえ、祖父母が他界してから、何年かずるずる放置してぼろぼろになってたんですよ。で、固定資産税滞納で父の貯蓄が差し押さえになりかけたときに、税の滞納やらなんやら全部引き受けるっていう条件で僕がこの物件を貰ったんです。このレトロな感じが好きなんで、見かけは変えずにリフォームしました」

「だからあんまり古い家の匂いがしないんだね」

「住宅丸ごとクリーニングとオーバーホールしたようなもんですからね」

「すごいねえ」

「当時は金ならあったんで……妻と妻の不倫相手からもらった慰謝料が」



 ちょうど食べ終わって箸を置き、焙じ茶の入った湯飲みに手を伸ばしたところで、突然話が重くなった。どう相槌を打てばいいのか彼女にはわからず、おもむろに茶を飲む。彼は続けた。


「とりあえずここは住まいとして考えてて、店をやるつもりはなかったんですけど、調子に乗ってリフォームにお金使い果たしちゃって。儲からなくてもいいんで食い扶持くいぶちだけ稼げればって感じでぼちぼちやってます」


 彼女は首を巡らせ、店を見まわした。和風の古い定食屋だが、昭和の無駄に鮮やかな、でもそこが愛らしいテーブルウェアやら北欧のファブリックやらがちらほらしていて、厭味がなくて心地よい。少し垢抜けないレトロポップという佇まいだ。雰囲気から察するに、洋食もレパートリーにありそうだ。


「いい店じゃん。こういう店、あんまり来たことなかったけど、なんかすごく落ち着くよ。正直もっと儲かってほしい」

「ありがとうございます」

「ねえ、この店、屋号はなんてーの? 看板もないし、暖簾にも書いてないよね」

「クローカ食堂です。祖母がつけた店の名前のままなんです」

「え、クローカ?」

「昔、ソ連のソユーズ二号かなんかで宇宙に行った犬の名前で、当時飼ってた犬がその犬に似ていたからだそうです。うちのファミリーネームが『いぬい』なので、ぴったりですよ」


 昔の愛犬に似ていると思っていたところへ「クローカ」という屋号。

 彼女はその名前を聞くと、、一瞬の驚愕ののちに安堵と懐かしさを覚えた。ごく軽く柔らかな布がいきなり降ってきて体を包むような思いだった。


 きっと神様は見ている。あのちょっとツンとした態度の黒犬も、神様の足もとに寝そべってちらちらこっちを見ている。


 どうかしたのかと訝し気に訊ねられて、彼女は答えた。


「不思議だねえ、うちで昔飼ってた犬の名前もクローカだったよ。すごいご縁だね」

「本当に奇遇ですね」


 乾はおざなりに驚いて見せた。クローカという名の犬に出会ったことは数回あった。ペットの名前だの家族の名前だのにこじつけてうっとうしい話題を振ってくる手合いにも何度か遭遇している。

 彼女はいそいそと名刺ケースを出した。


「はい、これ、私の名前と連絡先」


地味な紙面をしげしげと見つめ、乾は感じ入ったように呟いた。


「ほんとにお医者さんなんですね」


 彼女はにやっとした。乾の反応が面白かったらしい。


「言ったじゃん、医者だって。疑ってた?」

「疑ってたわけじゃないんですけど、お名刺をいただいて、なんか実感が湧いたっていうか」

「黒とか紫に金箔とかオーロラフィルムでギラッギラで、源氏名が印刷されてるようなお水っぽいの想像してた?」

「いや、それは、はははは……えっと、瀧居先生とおっしゃるんですね」

「プライベートで先生呼ばわりはやめてよ」

「じゃあ、瀧居さんでいいですか」

「タネ屋さんみたいだから、下の名前で呼んでもいいよ」

「……百……花? ひゃっか……?」

「普通そうは読まないでしょ。普通に『ももか』って読めば?」

「わざとってわけじゃないんですけど」

「イメージが合わないって言いたいんでしょ」

「……」


 目が一瞬泳いだ乾に、瀧居医師はふふ、っと笑った。 


「患者さんにも普通に性別聞かれるんで慣れてるよ」

「そういうのって嫌じゃないんですか」

「ちょっとはね。でも最近は男女どっちだって私は私だってことにしたら気にならなくなったよ」

「それはいいことです」



 名刺をカウンダ―の内側の壁にかけた状差しに入れて、さっと片付け物を済ませてから、乾は近くの月極つきぎめ駐車場まで車を取りに出た。

 五分と経たぬうちに4ナンバーのダットサンが食堂前に停まる。

 運転席から降りてきた乾が、ビニール袋に入った濡れた衣類を助手席に積み込む。

 瀧居は乾かしてもらったコートを羽織り、ボディバッグを肩にかけてゆるゆるのズボンを押さえながら、助手席のドアを開け、先ほど置かれたばかりのビニール袋を後部座席へ投げ込んで勝手に座った。

 運転席に乗り込んできた乾は瀧居が助手席に座っていることに気づくと呆れた様子で彼女の目をまともに見た。

 日本人には珍しいはしばみ色の瞳に朝の光が入ってオリーブがかって見える。美しい色合いで彼女もそれを少しは心得ているようだった。

 しかし彼は、もし瀧居先生が裸眼だとしたらこの色素の薄さが白髪の多さと関係しているんじゃないか、気の毒に、などとあさっての方向のことを考えていた。


 エンジンをかけてカーラジオをつけながら、乾はまず衣料店へ寄ろうと提案した。彼女に異論のあるはずもない。

 車が商店街の路上をゆっくりと走る。

 昔は歩行者天国だったが今は車は入り放題。

 まばらながらもシャッターを上げている店で、仕入れた積み荷を下ろす軽トラックと開店作業をしている人々。

 瀧居はそれをしげしげと眺めていた。


「この街も、悪くないかもしれない」

「ええ、けっこういいところですよ」


 気が付くと、瀧居は運転している彼の横顔を見ていた。

 乾はちょっと気詰まりに感じて、どうかしたのかと尋ねた。


「また来るよ」

「え?」

「今度はちゃんと客として来る。絶対来るから」

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食堂に犬は眠る 江山菰 @ladyfrankincense

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