夜桜の下、初めての恋に酔う(加筆修正版)
バルバルさん
桜の下には……
――――――桜の下には死体が埋まっている。
そう最初に言い始めたのは一体誰だったのだろうか。
きっと、桜の花びらの美しさにどこか危険な香りを見出した風流な人だったのだろう。
それとも、ただの死体愛好家だったのかもしれない。
どちらにせよ、桜の花という美しさと可愛らしさを併せ持った木花と、人が終わった後に残る、一般的には忌むべき死体。
それら二つを普通なら連想しないし、させないと思う。
だが、俺にとってこの言葉は、かなり身近で、俺の人生……と言えばいいのか。それと深く関わっている。
例えば、あれは確か、俺がまだ幼くて祖父の部屋に良く出入りしていた頃。彼の住んでいる部屋でなんの気なしに手にした古ぼけた日記で、桜の下での逢瀬をした女が実は既に死んでいた存在だったという記録を読んだことがある。
その日記の締めくくりがこの言葉で、その一文と共に挟まれていた桜の花びらと共に、今でも印象深く覚えている。
桜の下には、死体が埋まっている。
その言葉を、生前の祖父はどんな思いで書いたのだろう。
そこに、俺のルーツがあるのかもしれない。
◇
いきなりだが、俺は女性を好きになれないようだ。
あれは高校に上がりたての頃だったか。幼少のころからの幼馴染に告白されたことがあった。
ふんわりとした雰囲気の中にも芯があり、クラス中の憧れだった幼馴染の少女。
彼女は俺に対する好意を様々な言葉で、行動で示してくれて、俺もその好意に答えた……となればよかったのだが、残念ながらそうはならなかった。
彼女に対しては幼馴染の仲良しな女性という、友情以上の物がどうしても感じられなかった。
なんというか、心にはまるはずのパズルのピース。「この人が好きで、一緒になりたい」というものがはまらない。そんな気持ちの悪い感覚さえ覚えてしまう。
その後も何度か、女性と付き合ったことはある。だが、相手とある程度は仲良くなれるが、恋をしている、愛しているといった、一歩進んだ恋愛感情を抱こうと思うと……心に、何故かパズルピースがはまらないような、気持ちの悪い感覚に陥る。
その理由を色々考えたりもするが、どうしても答えが出ない。
「女性を愛する」という感情はわかるし、きっと素晴らしいものなのだという事も理解できる。だが、実際にそれを自分が感じられるかというと、友情以上の物は、もうすぐ三十代となるこの時期まで、ついに感じることはできなかった。
親からは、そろそろ結婚とかしないのか? などと急かされるが、好きでもない女性と付き合うのは、その女性に失礼だろう。
心にはまり、空虚を埋めるはずの、「この人が好きだ」というパズルピース。
友人達は結婚やら恋愛やらで、浮かれたり消沈したりするが、このピースがはまるのは、そこまで感情揺さぶられる良いものなのだろうか。
なら、一度でいいから、体験してみたいものだ。
そんなことを思っていたある日、春の香りが漂う季節の事だ。アパートの一室でゲームをしている時にそれは起こった。
タイトルはもう覚えてはいないが、友人に勧められた洋風のサバイバルゲームだったと思う。
リアルな人の死体描写が成されているのだが、その画面の向こう……
死体となった女性キャラを見た時、胸がドクンと高鳴ったのが分かった。
もう動かない、現実とも空想とも思えるほどにリアルなただの肉塊。しかし俺は強く感じたのだ。
吹き出ている血が美しかった。空ろな瞳が綺麗だった。虚構ながら白くなっていく肌、そのなにもかもが現実に生きている人間以上に、俺の目には魅力的に、官能的に映った。
心に、はまるはずのない、いや、はまってはいけない筈のピースがはまっていく音が鳴った。少しの間、画面から目が離せなかった。
同時に、心底恐怖を感じた。
なぜ死体に対しこんなにも胸が高まるのだろう?
どうして俺は、その光景に釘付けになってしまっているのだろう?
――――――俺は静かに電源を落とした。
所詮ゲームだ。空想に感じた感情だ。一時の気の迷い。そう、そうだ。それ以上でも以下でもない……
画面の明かりが消え、真っ暗なモニターに映る自分に、そう言い聞かせ……部屋を後にした。
だが、心に一度はまってしまったピースは、中々外れてはくれないようだ。
今まで何気なく読んでいた小説の死体描写が、これ以上なく官能的に感じてしまったり、映画のやや過剰な死体描写にも、胸の高鳴りを覚えてしまう。
社内で何気なく会話していた女の同僚。彼女が死んだら、どんな感じになるのかな? なんて想像してしまった日には、自分が怖くて仕方がなかった。
俺は、生きている女性を愛するという意味で好きになれないようだ。
だが願わくば、生きている女性へこういう感情を抱きたかった。これでは、まるで俺は……
◇
それから2,3週間ほど時間が経ち、桜の時期も終わりそうなある日のことだ。
今まで、どんなに魅力的と言われる女性との付き合いの中でも感じなかった、恋慕にも近い感情。それを生きている存在意外に感じている事に恐怖を覚え、情緒やら、思考、感情が竜巻の中のごとくぐちゃぐちゃになっていた。
その考えを吹き飛ばそうと、車を運転して気分転換に遠出をすることにした。
ちょうど桜も見納めの時期だ。ここは桜で有名な場所にでも行って花見でもしようか。
そう思い、住んでいる県を離れて夜道を車で運転していると、奇妙なことにカーナビが機能不全になったのだ。
この通信技術の発展した現代社会で不思議なこともあるものだと驚愕しつつも、仕方がないので道なりに夜道を進む。すると、そこには少し古めな外装だが、とても大きな宿が。
ちょうどいい。このままでは車中泊になるところだったと思い、駐車場に車を止め、宿へ向かう。
宿の看板には、世苦亡の宿と書かれていた。変わった名前だと思う。
駐車場には車が止まっておらず、あまり繫盛はしていないのかな。とも思いつつ宿に入ると、気だるげな雰囲気の美女がカウンターで眠そうにしていた。
とても美しい。一般的な男性なら目を奪われ、しばらく他の女性では満足できなくなるほどに美しい……と言えばいいのか、そんなレベルの美女だ。
俺も、もしこの人が死んだら……と一瞬考えてしまい、慌て頭を振って考えを吹き飛ばしてそのカウンターの女に声をかけた。
「あら、いらっしゃい」
と、これまた気だるげな、だが耳が溶けそうになるとはこの事かというほどに美しい声が耳から頭に響いた。
それに若干驚きつつも、チェックインの意思を示すと、柔らかく笑んで。
「でしたら、桜の見える部屋が空いておりますよ」
と言われ、そのまま黒髪の、これまたどの世界でも美女判定がもらえるのではというほどの女性仲居さんに連れられ、桜の見える部屋へと向かった。
◇
宿内部や部屋の内装は落ち着きつつも綺麗で、仲居さんたちもとても美しい人ばかり。とても人気が出そうなのに、不思議と宿に自分以外の客が見当たらない。
それに首を傾げつつ、着流しに着替えてのんびり一晩過ごしてみるかと思っていた時。
部屋から見える夜の桜。そちらの方で何かの気配がした。音、いや、声だろうか。
この部屋からは、外にある見事な大桜が見えるのだが、そちらの方に耳を澄ませると、耳にすっと響く美しい旋律の歌が。
興味がひかれた俺は一旦宿を出て、桜の方へと向かう。
まだ季節的に肌寒いが、だいぶ暖かくなってきている。着流しでも十分だろう。
そして桜のそばに到着すると、そこに座り、歌を奏でている人を見つけることができた。
その歌は、静かで、耳にすっと響き、嫌みも濁りもない美しく見事なものだったが、それを歌う和装の女を見て、俺の心臓が爆発したのかと思うほどに跳ね上がった。
美しいとか、綺麗だなんて陳腐な言葉で表すのも失礼なほどの女性がそこにはいたのだ。
俺は呆然と、その現実に生きる女性に初めて感じた感情に驚きつつ、ただその女性が歌を奏でるのを聞くだけだった。ふと、女性が俺に気が付いたようで、旋律がひと段落した時、俺を見てふっと笑んだ。
この時の感情を表す言葉を俺は知らない。ただ、十分満ち足りて、この笑顔だけあれば人生は十分だと思った。
そして、歌を奏でていた声が、俺にかかる。
「お客様ですか?」
「え、あ、はい」
「お耳汚し失礼しました。この時間、この木の下で歌うのが、私の生きがいなので」
「いえ! とても美しい歌でしたよ」
俺の声の勢いに、彼女は若干目を丸くしたが、再びふわりと慎ましく咲いた花のように笑んだ彼女は、隣を手で指し示し。
「良ければ、近くで聞きますか?」
俺は彼女の隣に座り、再び奏でられる旋律を聞く。美しい。歌も、桜も、彼女も。
時間も忘れ、俺は歌に聞き入りながら彼女に見惚れていた。
ふわり、と、夜桜の花びらが彼女の髪へ落ちてくる。
そして歌は終わったようで、月光で明るく妖しい輝きを放つ桜の下に、静寂の時間が訪れる。
「ふぅ。聞いていただき、ありがとうございます」
「とても美しかったです。なんという曲なのですか?」
「さぁ。私も知らないのです。心に浮かんだ情景や感情を言葉にしただけですので」
なるほど、それでここまで心打つ旋律が奏でられるのか。そう感心していると、彼女が一言。
「明日の夜も、ここで歌っております」
それを聞き、もう一泊しようと心に決めた。
もう、俺の心はこの女性に夢中だった。
心に、桜色のパズルピースが、かちり、とはまった。
◇
宿は本当に素晴らしい湯加減の温泉、これ以上ない極上美味と思える食事と至れり尽くせりで、なのに驚きの安さだったが、俺の心を埋めるのは、早く夜になれという想いばかり。
その待ちに待った夜の事、俺は急ぎ夜桜の下に向かう。するとそこには彼女が座っていた。
「お待ちしておりました。お酒でも飲んで、ごゆるりと」
そこには酒の入っているであろう徳利と、何か桜色の肴などが置かれていた。
この、まだ名も知らぬ女性が、俺を独り待っていてくれた。それだけで生まれてきたことに感謝するほどに嬉しかった。
そして、歌の旋律に耳を傾けつつ、桜の花びらの浮かぶお猪口で酒を飲む。
見上げれば、雄大な大桜。月の光で輝いているようで、不思議な力のようなものを感じるほどに美しい。
はらり、はらりと花びらが落ちる。それを目で追えば、目を閉じ歌う、彼女の姿。
もはやごまかせない。ごまかす気など最初からなかったが、この女性に、俺は一目ぼれしたのだ。
今まで生きている女性に今まで抱けなかった感情。危うく死体に抱きかけたこの感情。それがこんなに素晴らしいものだったなんて。そう思えるくらい美しい感情じゃないか。
旋律が終わり、開いた彼女の目が俺を写す。それすらも嬉しい。
「いかがでしたか?」
「美しかったです。とても、とても……」
「ふふっ。ありがとうございます」
その言葉の後、彼女は桜の木を見上げる。
「美しいと思いませんか? この桜。私は、歌を奏でるのも好きなんですが……夜に見上げる桜も好きなんです」
「そうなんですか」
「貴方は、どうですか? この桜、どう見えます?」
「そうですね……満開の、桜でしょうか。美しく、妖しく咲いた満開の夜桜」
その言葉を聞いた彼女は、一瞬目を丸くした。そんなに変な事を言っただろうか?
そして青白いほどに白い手が、そっと俺の手に触れた。驚くほどに冷たく、後々思えば、変だと思うだろうが……当時の俺は何故か心地よく感じた。その冷え冷えとした手が、愛おしい。
「嬉しい」
そして、その言葉に、彼女の笑みに意を決した俺は。
「あの、俺。貴女の名前も何も知らないんですが……貴女の歌を聞いて、心が、初めて感じるほどに高鳴ったんです。貴女の事、もっと知りたい」
そう、言葉を一気に吐き出した。
それに対し、再び可愛らしく目を丸くした女性。
まあ出会って二日目の、夜しか会っていない男にいきなり言われたら驚くだろう。
だが何故か、今言わなければという想いに駆られたのだ。
「……申し訳ありません」
「そう、ですか。」
やはり、返答は拒否の言葉だった。まあ、仕方がない。旅行先で見た夢だと諦めなければならないのか……
その時はそんな言葉じゃ表せないほどに消沈したが、そんな俺を見て、彼女は悲し気に、俺の掌に、一枚、桜の花びらを乗せてきた。
「いえ。貴方の想いはとても嬉しいのです。この桜を、美しい満開の桜と見てくれた貴方の事を、私も知りたい。でも……」
「えっ」
―――私は、死体なのでございます。
◇
その旋律が耳を通り抜けたのと同時に、目を覚ました。
正常なカーナビが示す時刻は、何故か昨日の夜中。
車内で寝ていたのだろうか。体中がガチガチで痛い。だが、あれは本当に夢だったのか?
そんな感覚に襲われるほど、現実感のある夢だったな。そう思いながら、身を起こす。
両の手は握られ、じっとりと汗をかいている。だが、不思議なことに、そこまで嫌な感じはしない。
ふと、固く握られていた手を見る。ゆっくり開くと、そこには桜の花びらが一枚。
驚き、車の横を見れば、そこには枯れかけた木。小さく最後の力を振り絞って咲かせたのだろう花を見るに、桜の木だ。
どういうことだろうか。
全く理解できないが、理解できることがあるとしたら一つ。
もう、あの女性には会えなさそうだという事だ。
それを理解した瞬間、心のパズルが崩れゆく音がした。
それから、俺は抜け殻のように過ごしていたと思う。
俺の心は、彼女と過ごした、あの夢の中に置いてきてしまったかのように、無気力に、無関心に、ただ生きた。
壊れてしまったパズルのピースは再びはまる事は無く。
ただ、想うのは彼女の事ばかり。
――――――桜の下には死体が埋まっている。
なら、彼女はそこにいるのだろうか。
◇
ぱたん、と日記を閉じる。
祖父は彼の時代には廃れ始めていた、紙の媒体で日記を書く人だったようだ。
そこには、生きている女性を心から愛せない苦悩がつらつらと綴られていた。
そして日誌の最後の方には、空想とも現実ともつかない文章が書かれている。
桜の木の下での、初めて愛せた人との出会い、そして、彼女が死体だったという驚愕と悲しみ。
彼はその後、桜の下を掘り起こしては、問題を起こしていたようだ。
そして彼は遺言で、桜の木の下に墓をたててほしいと言って、生前の兄妹を困らせたと苦笑していた。
ちなみに、彼は人生の終わりまで結婚する事は無く、子供もなさなかった。
ただ空虚に生前の時間を浪費したと、日記を借りた時に、桜の木が良く見える部屋で笑っていた。
……え、じゃあ俺は誰かって?
そうだな、一つだけ、言えることは。
彼は、桜の木の下の彼女と、結ばれたという事だ。
世苦亡の宿……現世では叶わない悩み、苦しみに悩む者の前にのみ現れる、亡霊の宿。
その従業員と……ね。
夜桜の下、初めての恋に酔う(加筆修正版) バルバルさん @balbalsan
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