月夜

藤野 悠人

月夜

 真冬の工業地帯の道を、ひとりの青年は自転車に乗って通り抜けていく。風の無い夜だったが、顔に当たる空気は冷たさを通り越して痛いほどだった。


 通勤途中にあるドラッグストアに寄り、レトルト食品やカップ麺、缶ビールを買い込む。家に着く頃には、既に9時近くなっていた。


 殺風景なワンルームの部屋も、冷凍庫のように寒かった。エアコンを点け、手をこすり合わせながら、買ってきた食品を仕舞っていく。


 無理やり体を暖めるように、熱いシャワーを浴びた。それが終わると、ようやく食事だった。勤めている工場が、生産数アップを現場に求めるせいで、このところずっと残業続きだ。


 大して味のしない食事を済ませると、冷蔵庫からビールを出した。スマートフォンを開き、特に意味もないが、SNSやニュースサイトなどを流し見する。そこで、何度か似たような文言を見つけた。今夜は満月らしい。かなり大きく、はっきりと見えるとのことだった。


 もう何日も閉めっぱなしのカーテンを少しだけ開ける。真冬の透き通った夜空の中で、白銀の月が氷のような輝きを降らせていた。


 青年は、何の気なしに電気を消し、机の上の小さなスタンドライドだけを点けて、床に座ったまま月を眺めた。缶ビールを開け、喉を鳴らして飲む。


 青年は元来がんらい、夜という時間が嫌いだった。考えなくてもいいことを考えてしまうし、思い出したくもないことを思い出す。強烈な不安感に襲われるのも夜だ。酒が飲めるようになってからは、まるでいとわしい夜を忘れるように、アルコールをあおった。


 よせばいいのに、意識は昔の思い出の中を泳ぎだした。その中から、ある夜の記憶が浮かび上がってくる。


 その夜も、満月だった。季節がいつだったかははっきりしないが、少なくとも夏ではなかったことは確かだ。


 当時交際していた恋人と共に、こんな風に月を眺めていた。記憶の中の夜では珍しく、青年は素面しらふで、月明かりは今よりもっと暖かな気がした。


 生来せいらい、口数の少ない青年が、恋人に何かを言おうとした。だが、上手い言葉がなかなか出てこない。苦心してようやく、高校の現代文で習った言葉をそのまま使ったのだ。


「月が綺麗ですね」


 言った直後に恥ずかしくなった。しかし、恋人はしばらく考えてから、ふと彼を見て答えた。


「見上げてくれる人がいるからね」


 その答えに、参った、と返事をしたことまでは覚えている。


 しかし、その恋は長くは続かず、間もなく破局した。何がきっかけだったのかは忘れたが、青年が彼女を捨てたのだった。


 そのことを、今でも引きずっているわけではない。だが、あの時期のことは苦々しさと、この上ない甘さが混じり合って、今でも彼の中に残っている。この経験を人に話したこともあるが、いつも笑われて不愉快な思いをした。以来、青年は誰にも、彼女の話をしなくなった。


 風の噂によれば、彼女は結婚したらしい。真っ当な幸せを掴んだことを、青年は密かに祝福した。しかし、女々しくこんなことを考える自分と、未だに鮮明な苦々しさとを感じ、そんな自分に舌打ちをしながら、再び酒をあおった。


 月はそんなことに構いはしなかった。


 月はいつでも、ただ空にあった。


 そこに何かの意味や思い出を結びつけるのは、いつだって人間だった。

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月夜 藤野 悠人 @sugar_san010

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