狸王
ブンブン丸
第1話
ギリギリで対向車とすれ違えるくらいの細い道が、一本だけ、狭山丘陵の奥まで続いてる。
多摩湖を取り囲む緑豊かな丘陵は、天然のダムとして、主に近隣住民の生活用水を担う。
その深い緑の中を蛇行するように国道が走り、時々現れる小さなささくれのような小道に入っていくと、やがてカーナビにも載っていない緑の深層でその道は終わる。
白い建物を少し通り過ぎたところで、途切れている道。その先は、舗装されていない剥き出しの山道が山の下までのびている。時々、迷い込んだ車が山道を降りて行こうと試みるが、車体が無傷で下山できた話を聞いた事がない。
ここは、本当に都内なんだろうか。
白い建物の周りには、それを取り囲む白く背の高い壁があり、道を挟んだ建物の向かい側は、鬱蒼と樹木が生い茂っている。
最近は、だいぶ陽も短くなり、紅葉がちらほらと見られるようになってきた。そんな、よく晴れた日の午後二時。
目的のものは、建物から10メートルほど山道に入ったところに立てられていた。
高さ150センチ、横幅50センチのブリキ製の看板。長年、雨ざらしになっていたせいで錆びが目だち、端を掴んで揺らすとギィギィと鳴く。
軍手をはめてくれば良かったかな。
そう思って、錆のついた手の平をパンパン、と払ってみたものの、わざわざ、屋内まで軍手を取りに戻るのは面倒に思えた。
気を取り直して、再び看板と向き合う。 小さな子供を抱き上げるように、看板を抱えあげる。山側の藪にもたれるようにして立っていた看板には、烏瓜の蔦が幾重にも絡みついていた。力任せに引っ張る。ブチブチと音を立てて切れた。
万年塀のところまで看板を運び、横倒しにして立て掛ける。
黄色地に、緑色のペンキで大きく「進入禁止!」と書かれた看板は、16年ほど前に父と私で作ったものだ。
父が木材とブリキの板で看板を作り、字は私が書いた。当時は上手く描けたと思っていたのに、いま改めてよく見てみると、「禁」がやたらと大きく、「!」はやたらと太かった。
そもそも、私はなぜ緑色で文字を書いたのだろうか。黒いペンキが無かったんだろうか。
刷毛の跡が残る緑の線をなぞりながら物思いに耽っていた時。
今まで看板が寄りかかっていた草薮が、風もないのにガサガサと揺れはじめた。
ギョッとして、その草藪を注意深くみていると、藪が一瞬道路側へ迫り出すようにうねり、何かが突き出てきた。
地面から1メートル程の高さから三角の黒い物体が突き出している。
それは、どうやら動物の鼻先のようだった。右に、左に、ピクピクと動き、辺りの匂いを嗅いでいる。
このあたりでは、自然動物の出現はよくあることだった。
少し尖った鼻先は、ゆっくりと伸びて、やがて頭、前足、胴体、後ろ足、尻尾の順で全体を現した。
狸だ。
藪から現れたのは、フサフサの毛皮に覆われた、それはそれは立派な狸だった。
5年ほど前までは狸など見かけなかったが、ここ数年の間に住み着いた。外敵がいないせいだろうか、いつの間にかその数が増え。いまでは、餌を求めて山の下の住宅街にまで出没しているようだ。
狸は集団で行動する習性を持つものの、 藪から現れた狸は一匹だけだった。
焦げ茶と黒の毛が混じり、モコモコと膨らんだ冬毛のからだに、枯葉を何枚もくっ付けて、鼻をひくつかせながらクリクリとした丸い瞳で辺りを見回している。
一瞬、ジブリ作品に出てくるトトロを思い出して、メイがしていたように、両腕で抱きついて、背中にでも乗せてもらったら気持ちが良さそうだと思った。
私は横倒しにした看板の側で、路面に膝をつき、狸が去るのを待つことにした。荒く剥がれかかったアスファルトが膝に刺さって痛かったが、動いて狸の気に触るよりはマシだと思った。
私は直感的にその狸をオスだと思った。
彼は相変わらず、きょろきょろと辺りを警戒しながら、私から5メートルくらい離れたところで立ち止まった。
だいたい、こうなることは予測できてはいたが……目が合ってしまった。
「こ、こんにちは」
私はできる限り静かに声を出した。
「この、道の、先は、その、人が住んで、いるから」
彼は唸るでも、逃げるでもなく。じっとこちらを見ている。
「出来れば、行かないほうが、いいかも……」
真っ黒でまん丸の瞳が、一度、瞬いた。言葉が通じているとは思えなかったが、何かは感じ取ってくれているような、そんな風に思える瞳の輝き。
「……」
私は半歩後ずさった。狸が一歩こちらに近づいたからだ。アスファルトと狸の爪が、ガリッとぶつかった。
「あなたは……強そうだし。もしかしたら、なにも、怖くはないかもしれないけど」
半歩後ずさる。一歩詰められる。爪が鳴る。
最初、彼が現れた時点で、逃げる努力をするべきだっただろうか?
「山の下は、大きな道路があって、車がたくさん走っていて」
一人と一匹の間の距離は、もう2メートルも無い。
私の体はすでに、すっぽりと彼の影の中に収まってしまっている。
そう、彼は見上げるほど巨大な狸だった。
狸王 ブンブン丸 @bunbun-maru
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