第2話 曇
明くる日の早朝、母は、最近健康増進のために始めた散歩に行ってくると、睡眠中で意識朦朧としている私に向けて言い放ち、朝早くから出ていった。時刻は午前7時頃、気温は田舎町なこともあり、室内にも拘らず、体感でも二、三度近く低く感じ、尚寒かった。母の出立を境に目が覚めてしまったので、体を起こして洗面所に向かうことにした。
洗面所から帰ってきた私は、朝ご飯の支度するため、台所の横に設置されている冷蔵庫に手を掛けた。中には思ったほど材料が用意されてはいなかったけれども、それは、独り暮らしの水準で考えれば到底十分すぎるほどの量ではあった。最上段には、葡萄のジャムだけが右奥に置いてあり、中段には、乳製品、食肉製品などが不規則に点々と疎らに配置されている。最後、下段には何も無かった。この中で作れるものは、目玉焼きかスクランブルエッグしかなかった。なので私は、目玉焼きを作ることにした。冷蔵庫から卵を2つ取ったその時、斜め後ろの机の一番奥に置いてあった目覚まし時計が騒々しい音を響かせたのを機に、卵を一つ落としてしまった。
「最悪」
独り言ちて、奥にある目覚まし時計を止めに行く。旧式のタイプで中々手こずり、やっとのことで静まりかえった空間に溜息をついた。朝ご飯を作ろうと台所に戻ろうとした時、机の前の戸棚の引き戸が、少し空いていることに気づいた。気になって開けてみると、そこには、兄と私が、公園を背景に二人並んでピースしている写真や、私の七五三の写真、小学校の運動会の写真など、大学の入学式の写真もあり、私たち兄妹の思い出の数々が、引き戸の中に溢れかえっていた。少し気になって、棚の奥も見てみることにし、引き戸を全開にして、中を探索した。すると、兄の思い出の写真が数十枚も発見された。その他には、円形の缶ケース、白い封筒ほどしかなかった。正直、少し期待外れで失望したが、渋々、白い封筒を開けてみることにした。封筒は既に糊が剝がれており、封が切られていたので、そのまま中身を取り出した。その瞬間、私は息を呑んだ。そこには父の名前と、診断書という文字が記載されていた。その文字を見たとき、父の名前以後の事柄の記載を見てもいいのかという疑念が漂った。それも、母の濁した精神疾患という曖昧な言葉が過ったからでもあった。仮にこの診断書に、精神病の一種が記載されていたのならば、母は何故あの時、病気と断言せずに、中途半端な言葉を吐いたのだろうかと思った。すると、玄関から戸が開く音が微かに聞こえた。この時、私は慌てて引き戸の中身の一切を隠す、また、戻す手段を持ちえなかった。ゆったりとした足音が近づいてくるのと共に心拍数が高鳴っていく。私は咄嗟に書類を封筒に戻し、兄の幼少期の写真を眺めているような様子を装うことしか出来なかった。リビングの出入り口に立った母は、少し火照った顔に怪訝そうな顔を浮かべて、私を凝視した。それに呼応するかのように私も、母の顔をまじまじと見つめた。
「おかえり」
私は平然を装った。
「あんた朝から何してんの」
微笑を浮かべて、母は言った。それから、視線を私から引き戸の一切に落として、もう一言呟いた。
「元あった場所戻しといてや」
母はそれ以上は言わず、緩やかな歩調で洗面所に踵を返していった。
私は、母と目が合った時、彼女のその訝し気な顔見た時、新鮮味を覚えたのだった。また、あの時、何を考えているのかも一切分からなかった。
夕凪 久保 心 @kuvo
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