夕凪

久保 心

第1話 微風

 「次は緑が丘に停まります」車内には自分一人しかいない。穏やかなアナウンスが響き渡る中、私は車窓の向こうに映る荘厳な山の連なりに見惚れていた。その山々には妙な魅力が見受けられた。運転手に声を掛けられるまで、私は泣いていることに気づかなかった。

 帰省という名目でしばらく休暇をもらうことにしたあの日から、もうじき一週間が過ぎようとしていた。

 運転手に深々と頭を下げ一礼をし終えた後、顔を上げた先には、先ほど車窓越しに見ていた景色全体が、直に私の目に映っていた。連なる山々の周囲を漂う朦朧とした霧が幻想的で、呆気にとられるほどだった。この情景を見ると複雑な気持ちになる。正直、故郷であるこの村では、嫌な思いでしかなかった気がする。それでも私の帰る場所であって、実家でもあるのだから、この場所を嫌うことはできなかった。バスが定時運行の時間を機に去っていく、私は、ふとのどが渇き、昔、よく兄と一緒に行ったスーパーに寄ろうと決めた。けれども、私がこの村に来た目的は母に会うためであった。

「ただいま」

引き戸を開ける音と同時には発声したため、奥の部屋から母が警戒しながら顔を覗かせていた。

「鍵閉めなあかんよ」

私が、少し語気を強めて言ったため、母は怪訝そうな顔で、口をとがらせて歩き寄ってきた。

「こんなど田舎に空き巣なんて来るわけないやんか、ましてや大層な家ちゃうんやから」

と、文句を垂れ流し、こっちに寄って来たかと思うと、顔を確認したかったのか、また戸口の方へ踵を返していった。母は、昔から大雑把な性格が著しかった。私が小学性の時は、自分の娘を泣かせた男の子の母親もろとも、私の前で叱責したり、中学生では、勉強に行き詰まる自分を県外のドライブに誘ったり、高校生では弁当にファストフードのチキンなどが入っていたこともあるくらい大胆な人だった。父はというと、私が生まれる直前に他界していて、兄が二歳になる直前頃に亡くなったらしい。もともと病弱な人だったようで、それもあってか、亡くなる数か月前には精神疾患も患っていたのだという。だから母は、警察から訃報を聞いたときは自殺だと思い込んだのだと言っていたの覚えている。兄は異様に私に優しかった。それは親を亡くした可哀そうな妹への同情か、それとも、過酷な環境が彼を変えてしまったのかはわからないけれども、確かな妹に対しての純粋な優しさと気遣いに違いなかった。

「お昼何にする?」

洗面所からリビングに向かう途中、母が呟いた。

少し間を取り「んー、じゃあモダン焼き」と少し高揚した口調で返答した。すると母は「ん、了解」と、私が言うことを知っていたかのように、冷蔵庫を開け、用意周到に準備をしだした。私はこの光景に違和感を覚えた。そして、点火装置に迷いなく手をかける母の手が、少し寂しかった。私は、昔のように独り言のように呟いて、娘の要求を顧みず、適当なものを作る大胆な母の姿に哀愁を抱いた。キッチンに立っている人物は、母の面影とは合致しなかった。私が家を出た日から、既に三年が過ぎていた。





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