29歳
結婚して半年が経った頃、そろそろ子どもを作ろうかという話になった。結婚式を挙げ終えたことと、若いうちに子どもを産みたいという彼女の意向によるものが大きい。おれも子どもは欲しいし、もうそれなりの年齢だ。現代社会の男性の平均年齢からするとまだ少し早いかもしれないけれど、早くて悪いこともそうそうない。
夫婦間で相談し合って、その夜初めて避妊をせずに性交渉を行った。人生初の生での性交渉であった。
しかし結論から言うと、うまくできなかった。避妊具を着けずに挿入しようとすると、どうしても萎えてしまった。
断っておくと、おれは不能ではない。直後に避妊具を装着したら普通にできた。
生で性行為ができない。その原因に予想はついていた。
生ですると子どもができる。子どもができたら、責任を持たないといけない。
命の責任。
命を預かる責任を取る覚悟を、深層心理で拒絶していたんだろう。あの日殺したミドリガメが脳裏にちらつく。
「どうしたの?」
妻の心配そうな声色を聞いて胸が痛くなった。だからおれは生まれて初めて、幼い日の記憶を人に話すことにした。
「――だからおれは、人よりも命を預かることに対する責任ってやつを重く捉えちゃうみたい。生でできないのももしかするとそのせいなのかも」
そう言うと彼女はおれの頭に両腕を回してぎゅ、と優しく抱きしめた。
「つらかったね」
「……つらかった、のかな。でも殺したのはおれだし」
「でも小学生の頃の話でしょ。その頃なんて虫とか殺し放題じゃん。今も蚊とか殺すでしょう」
「それはそうなんだけど」
でも当時の個人的な感覚として、虫と爬虫類は命の重みが違った。虫を潰すのと、亀を殺すのは重さが全然異なった。
さらにあのミドリガメはおれが飼いたいと言いだした生物だった。おれが飼っていなかったら死んでいなかったはずの生物だ。
「そうだなあ、今からわたし、何か言おうと思うんだけど、正論で殴られるのと、まっとうなアドバイスを貰うの、どっちがいい?」
「うーん。正論で」
「ゴムしてても子どもはできるわ!」
「………………たしかに」
たしかに。
「ちなみにアドバイスの方は?」
「一回お義父さんとお話してみたら? その時どうして放っておいたのか。お義父さんが世話をしてもよかったわけじゃない。意図を知るっていうのが大事だと思う」
「昔飼ってたミシシッピアカミミガメ覚えてる?」
「あのすぐ死んだ亀か。覚えてるよ」
よかった。
「あれさ、おれが世話しなくて死んだじゃん。普通の親だったら世話を引き受けるとか、死ぬ前に気付いた時点で叱るとかすると思うんだけど、なんでしなかったの?」
「そりゃあお前、お前が世話するって約束したからだろ」
予想通りの答えだった。
「でも当時小学三年生とかだぜ? 結構シビアな教育じゃない?」
「小学三年生だからこそだよ。命を預かることの責任も、約束の重要さも、早めに学ぶに越したことはないだろう。それに、あの時のお前ならしっかり教育が効くと思ったからさ。まさか今まで引きずってるとは思わなかったが」
「効いた効いた。超効いた」
「あそこで俺が世話を引き取ってたら、亀は死んでなかったかもしれない。でも、『自分が約束したことを反故にしても、結局父親が助けてくれる』っていう体験は後の人生に響くと思って。そういうのはお母さんの役目で、父親の役目はそうじゃないって判断したんだ」
「父親の役目」
「自分の子の選択を見守る。間違えたことをしたら叱る。そんで、何かあった時の責任は負う。俺はそれを意識して父親やってたと思う」
責任。命の責任。
「なるほどね。ちなみにあの亀殺しは、生物が死んでいる以上一応”何かあった時”だと思うんだけど、父さんはどういう風な責任を取ったの?」
見守られたし、叱られた。でも父さんはそこにどんな責任を負ったのか。そう聞くと彼はこともなげに答えた。
「お前が爬虫類――というか生物が嫌いにならないように最大限フォローした。お前、ペットを飼うことに関しての拒否感は残ってるらしいけど、生き物自体が嫌いになったわけじゃないだろう。亀を殺したところまでは、命を預かることの重さを知ったところまではお前の痛みだ。でも、そこから生物全体を嫌ってしまうのは違うと思った。だからそこは最大限気を遣った……ような気がする」
その通りだった。
おれは猫カフェが嫌いだけれど、生き物自体が嫌いになったわけではない。
「お前にやった教育全部があってたかは知らんけど、それなりの大学を出て、就職をして、綺麗な嫁さんを貰ったんだ。十分だったんじゃないか?」
おれは頷いた。
父さんの教育は、今のところ正しい。
そして同時に思った。
父さんの教育が「今のところ正しい」ではなく「完全に正しい」と言い切れる時は、父さんに育てられたおれが、誰かを育て切った時なんじゃないかって。
それからおれは問題なく性交渉ができるようになった。あまりにもすんなりできたものだから逆に少しだけびっくりした。おれの中で大きく考え方が変わったわけじゃない。ただ誰かを育てたいと強く思っただけで、命の責任に関するスタンスは変わっていない。いまだにペットを飼おうとは思えない。
でも、ふと思ったんだ。たぶん、九歳のおれがミドリガメを殺した時とは状況が違う。あれから十年近く、母親に育てられて、父親に見守られた。そして成長したおれだけじゃなくて妻がいる。お互いの両親もいるし、生まれてくる子どもにも意思がある。
爬虫類が好きな少年はミドリガメを殺して命を預かる責任を知り、ペットが飼えない青年になった。
そんな命を預かる責任を知った彼だからこそ、育てられる命があるかもしれない。
二十年が経って、妻と話して、父親と話して、ようやくそんな覚悟が、そんな準備ができた気がした。
ミドリガメ 姫路 りしゅう @uselesstimegs
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