#10
警察から電話が来たことを夕食の場で伝えた。二人の表情はさほど変わらなかった。
「驚かないんだな」
「まあ、そのうちこうなるかもしれないと思ってたからな」
「どうするんだ?」
「逃げるさ」
「どこに?」
男は考えたが、答えはなかった。
「早ければ明日には来る」
「早ければ?」
「天気次第らしい」
「この辺の道って、山降りたあの道だけか?」
「舗装されてる道はそうだな。車で降りたら国道に抜けるしかない。反対に行っても行き止まりだ」
「行き止まりの先は?」
「林があって、その先は知らない。おそらく山にぶち当たるはずだ。ロッジの裏手に山脈が走ってて、そこで交通が遮断されてる。夕張山地っつってな。この辺が縦にしか道がないのは、そのせいだ。山を抜けられたらいいんだが、歩きになる」
「どのぐらいかかる?」
「わからん」
「だいたいでいいよ。一日あれば行けんのか、全然ムリなのか、どっち?」
「上手くルートを取れれば、半日あれば行けるんじゃないか。そんなに高い山じゃない。たぶん登山道もあると思う」
「国道方面で抜け道ないの?」
「やめた方がいいだろうな。どこかに抜けようと思ったら一本道で、小道に入れば基本的には行き止まりだ。まず検問張ってるだろうしな」
「ゲレンデ登った先は?」
「基本的には行き止まりだ」
「んー」
男は頭をかいた。
「どう思う?」
女に意見を求めた。
「わかんない」
二人の話を聞いていると、女が判断役を務めることが多かったが、そのときは意見を言わなかった。
「逃げ切る確率を考えるなら、山に入った方がいいと思う」
「こっから山越えってできるのか?」
「登山ルートはない。林の間を抜けることになる。逆側からは登山道があるんだ。だから上手くそこに出られれば。安全な道ではないが、だからこそ警察も検問を敷けないはずだ」
「そっちの方がまだマシか」
話しながら、俺を人質にとって警察と交渉するという手もあることに気づいた。二人は全くそれに気づいていないようだった。
「車で国道か、歩いて山抜けか、どちらにしても、動くなら夜のうちがいい」
「そうだな……」
「夜に動くのはやめた方がいいよ」
女が急に言った。
「それより警察を返り討ちにしよう」
「何言ってんだ」
俺はまだ女が錯乱しているのかと思った。
「そうだな、そうしよう」
男も同調して言った。
「おいおい。逃げるんだろ」
「逃げる。けど戦ってから逃げる」
頭おかしいんじゃないのか、という言葉が喉元まで出た。
「リュウは無敵なんだよ」
女が言った。それで作戦会議は終わりだった。
一夜が明けた。早朝。
「ライフル、使わせてくれ」
「わかった」
二人でロッジの外に出る。天気は小雪。予報によると明日には雲が抜けるらしい。ライフルは狩りの道具一式が入っている小屋の保管庫に入れていた。夫婦が来てからは施錠するようにしていた。
「拳銃の残りの弾は何発あるんだ?」
「ちょうど十発」
男は正直に答えた。銃というのは、銃本体だけでは何の意味もない。重要なのは弾だった。俺は店に行けば合法的に弾を買えるが、その手段がない逃亡犯にとっては死活問題だろう。
「弾ないか?」
「ライフルか散弾銃の弾ならあるけど、拳銃には入らない」
「そうか」
冷え切ったライフルを男に渡す。これで警察と戦うというのだろうか。
「このライフル、何発入るんだ?」
「一度に四発。オートロードだ」
「オートロード? ああ、自動で次の弾が来てたあれか」
猟に行ったときに、練習で何発か撃っている。
「弾はどんぐらいあるんだ?」
「三十ぐらいか。最近ショップに行ってないから、あまりない」
「おお。でもどのみち自分で弾入れられる気がしねえな。四発入れといてくんない?」
「わかった」
俺はマガジンを取り外して、弾を入れる。何を恐れているのかわからないが、手が震えた。男は弾の入ってないライフルを弄り回していた。
「ここ引くと、撃ち終わった弾が出るんだよな?」
「そうだ」
「安全装置はこれだな」
「そうだ……あ」
マガジンに弾を入れようとして、床に落ちた。男は俺の怯えを冷静な眼差しで見ていた。
ライフルを構える場所を二人で検討した結果、リフトの屋根の上で構えることになった。
「今までに拳銃を何発撃った?」
「そんなの数えてねえよ」
「いや、射撃センスを聞きたかったんだ。どのぐらいあたるんだ?」
「そうだな。野球のピッチャーとバッターぐらいの距離ならまず外さない」
「野球って、二十メーターぐらいか?」
「知らねえ。相手の頭が、丸ぐらいになってれば、まあ狙えるかなと思う。丸から点になると厳しい。弾が届かない感じがする」
丸と点の違いはわからなかった。
「射程、どのぐらいなんだ?」
「知らねえ」
「ちなみにそのライフルの射程はだいたい五百メーターだ」
「そうか」
男はスコープを覗きこむ。
「五百メーターって言われても、わかんねえな」
それから男は防寒具を整えてから、リフトの上に陣取った。熟練の狙撃手のように、ライフルを構えた。その様子を俺は女とともにロッジの玄関から見ていた。
「あいつ、銃の訓練なんて受けてないよな?」
「当然」
「そもそも、どうやって銃手に入れたんだ?」
「稚内のロシア人が持ってたの。それをもらった」
「どうやって練習したんだ?」
「普通に、誰もいないところで撃ったりして」
「それだけか?」
「それだけ」
どのみち拳銃とライフルは扱いが全く違う。それでも俺が聞いたのは、この絶望的な状況をあの男が打開するのではないかという希望を抱きたかったからだった。しかし聞けば聞くほど、無謀な挑戦をしているようにしか思えなかった。
夕方まで待ったが、その日警察は現れなかった。
「来なかったな」
そう言って男が戻ってきた。夜に来る可能性は極めて低かった。相手は二人しかいない。わざわざ取り逃す可能性が高い夜中を選ぶ必要はない。俺たちは普通に夕食を食べて寝た。
翌日。昨日と同じ格好で、男がリフトの上でライフルを構える。昨日がよほど退屈だったせいか、今日はCDプレイヤーを持っていった。朝からよく晴れていた。抜けるような青空で、雪に反射する朝日が目を刺した。放射冷却のせいで昨日よりも朝方の気温は下がっていた。0度前後だろう。俺と女は昨日と同じようにロッジの前で立っていた。リフトの様子はよく見えなかったが、ゲレンデ脇の車道はすこし見えた。
九時をすこし過ぎた頃に、遂に警察の侵攻がはじまった。機動隊が山をのぼってきた。六人が二列になって行進している。大盾を構えながら進んでいるため、歩みは遅く、俺から見ると六枚の盾だけがゆっくりと移動しているように見えた。
空からはヘリコプターが二台飛んできて、拡声器で誰かが叫んでいる。
「お前らは完全に包囲されている! ムダな抵抗はやめて、大人しく出頭しなさい!」
そして、聞こえるかと言って、誰かの名前を言った。俺はそこではじめてこの二人の本名を知った。木下リュウと有村リキは偽名だった。そんな気はしていたので、さほど驚かなかった。リュウ、という名前は一部本名から来ていたが、あとは全部デタラメだった。
そんなことよりも、いよいよ殺人夫婦が追い詰められている現場を目の当たりにして、緊張が高まった。不思議なことに俺は二人に捕まってほしくないと思っていた。一緒に暮らす中で二人に情が湧いたという単純なものではなかった。単純なものではないが、自分でも上手く言葉にすることができない。このまま機動隊員に押さえつけられて、敢えなく手錠をかけられるリュウを想像すると、思わずゾッとしてしまう。
「……やっぱり夜のうちに逃げておくべきだったんじゃないか? あるいは昨日……」
「私にはリュウがいる」
女の表情は深い信頼にあふれていて、まっすぐに今の絶望的状況を眺めていた。その顔は一昨日の狂った女の顔ではなくて、極めて穏やかで、すこしの乱れもなかった。
「だから大丈夫」
胸の前で祈るように軽く手を握り合わせた。以前リュウは自分のことを負け犬と言った。東北の貧困家庭に生まれた、高校中退の負け犬。犯罪者。それでも奴はみじめではない。そこが俺との違いだ。俺は負け犬が奇跡を起こすところを見たいのかもしれなかった。
そのときライフルの発砲音がした。最初に一発。すこしだけ間が空いて、三発の銃声。拡声器の声もやんだ。位置関係的に、機動隊の方からは狙撃箇所が見えなかった。ヘリコプターはリフトの屋根の上の存在に気づいてなかったようで、銃声ではじめてリュウの存在を発見した。
機動隊の動きが止まった。隊員が一人倒れているのが見えた。ヘリコプターのプロペラの騒音だけが静かな山に響き続けた。一瞬の膠着状態が生まれた。
「一人しかやれなかったけど、足止めぐらいにはなるか」
リュウはロッジに戻ってきてそう言った。ロッジの前にスノーモービルを用意していた。リュウの作戦(作戦とも言えないが)は、ライフルで機動隊を狙撃して、壊滅させてその間にスノーモービルで逃げる、というものだった。
「ちょっと待て」
俺は夫婦に声をかけて、ロッジの中に招いた。
「なんだよ」
「これを見ろ」
テーブルの上に、古い登山用の地図を広げた。
「いいか。ゲレンデをのぼったら、左にくだるんだ。右はたぶん谷に行き当たる」
俺は地図を見せながら、地形を説明した。
「こんな地図あるなら、早く見せてくれれば良かったのに」
女が文句を言った。
「正直、お前らを助けることをいいことだと思っていない。だからできれば、このまま傍観を決めこむつもりだった。なんでこんなことをしているのか、俺もわからない」
「まあいいよ。何にせよ、ありがとう」
女がお礼を言って、そのまま夫婦は外に出ようとした。
「待て!」
その背中を俺は引き止めた。
「いいのか?」
「何がだ?」
「俺を生かしておいて。このまま警察に保護されれば、俺はお前らの情報を洗いざらいしゃべるぞ」
自分からそんなことを言った意味もまたわからない。もしかしたら殺されたかったのかもしれない。目の前で燃えるような生命のやりとりが繰り広げられて、自分もその炎の中でもらい火して、ついでに終わってしまいたかったのだろうか。
「死にたいのか? そういえば前そんなこと言ってたな」
「そうなの?」
女の方が男に尋ねた。
「ああ」
「じゃあ、残念だったね。私たち、ムダな殺生はしないの」
女は半笑いで言った。
「行くぞ」
三人でロッジを出る。機動隊は撃たれた位置のまま静止していた。ヘリコプターから、俺たちの様子をうかがっている警官が見えた。二人はスノーモービルにまたがった。リュウの背中に女が抱きついていた。どこか悠然と、スノーモービルがゲレンデに向かって行った。ヘリコプター二台が空から追いかけた。俺にはもうそれ以上二人の行方は見れなかった。
それから数分で、機動隊がロッジまでのぼってきた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「ロッジ管理人、保護しました!」
機動隊員の一人が無線で誰かに伝える。六人いたはずだったが、五人になっていた。隊員の一人は腕から出血していた。ライフルが右腕の上腕をかすめたらしく、警察車両が来たら、そっちに行って治療を受けた。
すべてが終わった。
警官は二手にわかれて、ロッジを調べる組と殺人夫婦を追いかける組とにわかれた。けれど夫婦を追いかけた組は成果をあげられず、ただ乗り捨てられたスノーモービルを回収してくるだけに留まった。俺はロッジで警官にあれこれ聞かれて、その後近くの警察署に連行されて、調書を取られた。俺は概ね正直に答えた。夫婦は拳銃を所持していたこと、その拳銃は稚内で入手したと言っていたこと、おそらく東北の出身であると思われること、見た目の特徴、どういう形で共同生活を送っていたか、などなど。警察が引っかかったのは、ライフルとスノーモービルを俺が犯人に差し出した点だった。
「あなたは長い共同生活の中で、二人に愛情を抱き、できれば逃げて欲しい、そのために積極的にライフルとスノーモービルを供与した、と言いましたか?」
警官は俺のたどたどしい供述を整理した。
「そう言えるかもしれません」
「しかし、あなたは犯人から暴行を受けた、とも言っていましたよね?」
「暴行……まあそうですね。一発殴られただけですが」
「それ以来、あなたと犯人の間では、こう、一種の主従関係ができた、そうは考えられませんか?」
「主従関係はないです」
「では、逆らうと殺されるとか、殴られるとか、そういう前提ができていた感覚はなかったでしょうか?」
「それは当然、最初はあったと思いますが、一緒に過ごす時間が長くなって、薄れていった気がします」
「料理をつくったり、買い物に行ったり、そういう中で親密さが増して、自身が人質状態であることに慣れた。やがて意識すらしなくなった。相手の命令を命令とも思わなくなっていた、その可能性はありませんか?」
「可能性はあるでしょう。自分でもわかりません」
なんでこんなに相手が長々と俺の心理解釈をしているのか、と疑問に思ったが、どうやら警官は俺が脅迫されて犯人に渋々協力せざるを得ない状態だった、という展開に持っていきたいようだった。そうしなければ、俺も共犯としての余地が出てくる。
「何を考えて自分が行動していたのか、自分でも説明できません」
「わかりました」
警官はアナログ派で、録音しながら、紙にメモを取っていた。彼はそのまま「何を考えて行動したのか自分でも説明できず」と書いていた。
翌日になって、俺は警官とともに現場検証に行くことになった。回収されたスノーモービルは証拠品として押収されていたので、警察が二台分どこかから調達してきたものに乗って、ゲレンデをのぼった。
「二人は捕まったんですか?」
「いえ、まだ見つかっていません」
「そうですか」
あの状況で逃げられたのか、あるいは山の中で遭難したか。
「ヘリが追ったのですが、ここから探索ができなくなりまして」
ゲレンデをのぼりきって、道が二手にわかれている先で、見失ったらしい。空から見ると、確かに雑木林の枝で遮断されるのかもしれない。一度歩いて道を知っていれば追えないことはなかったと感じたが、ヘリに乗っていた警官もそこまではわからなかったろう。
「犯人の二人組は、ここからスノーモービルで左折、道をくだっていったものと推察されます」
東北訛りの警官が行った。昨日スノーモービルを回収に行った機動隊員の一人だったはずだ。
「俺は趣味で狩りに行くんですが、この辺の道はよく来ますが、人間が歩いて進める道は途中で途切れます」
「そのようですね」
「くだり坂なので、スピードに気をつけてください。途中で停めて、歩いてもいいかもしれません」
警官もスノーモービルの運転にはさほど慣れていない。
「どうしてもスピードが出ますね。歩きましょう」
そこから警官三人と俺とで歩いた。昨日に引き続き快晴で、まだ夫婦のものと思われるスノーモービルの轍が残っていた。やがて道が突き当たりに来て、左右にわかれる。夫婦がどちらに行ったのかはすぐにわかった。右の獣道がめちゃくちゃになっている。
「スノーモービルはこの先で回収しました」
俺はつい三日前に、女を捜索するためにここに来たのだった。そのとき腰まであって歩行を阻んでいた低木は薙ぎ倒されて、歩きやすくなっていた。
「あっ!」
俺は思わず声を上げた。薮の先には林があった。強引にスノーモービルで突っこんだ跡が残っていた。
「スノーモービルが乗り捨てられていたのはこの先です。ほぼ大破してました」
人一人の肩幅ぐらいの隙間に、強引に車体をねじこんだらしい。木々の生々しい傷跡を見ると、リュウがアクセルを目一杯踏んで林に突っこむ情景が浮かび上がった。
「二人はどうなったんでしょう?」
「この勢いで突っこんだとすると、恐らくは二人とも体を投げ出されて、吹っ飛んだはずです。でも車体周辺に人の痕跡は残っていませんでした」
死体も足跡も見つからなかった。それはほとんど奇跡に近かった。
「山の中は探さないんですか?」
「昨日から必死で捜索しています」
なぜだか知らないが、俺は二人が逃亡に成功したことを確信していた。
その後の話。
北海道警の雪山突入は、ニュース番組で大々的に扱われて、俺は事件の詳細を知ることができた。突入部隊の編成は以下の通りだった。
- 機動隊六人(北海道警五名、A県警一名)
- 一般車一台(警官四人)
- ヘリコプター二台(一台につき警官二人)
更にロッジの下の道にはパトカーと警官が待機。また国道は検問が敷かれて、山には入場規制が発令された。
警官の想定では、人質を取った犯人がロッジに籠城。反撃があるとしたら何らかの銃。ライフルは一応想定にあったらしいが、狙撃があるとしてもロッジのベランダから狙ってくると考えていた。爆発物は想定せず。ヘリ二台と機動隊は無線で情報連携が取れており、俺と女がロッジの前に立っている情報もつかんでいた。リフトの上の男を見逃したのは、ヘリ部隊の落ち度。機動隊からは目視で狙撃手を確認することは困難だった。また三人二列で大盾を構えながら進行していたが、車はその後ろからだった。もしもこの車が装甲車で、機動隊を先導できていたら、死傷者は防げたかもしれない。
被害は機動隊六人のうち一人が死亡、一人が軽傷。彼らは大盾を構えながら進んでいたが、リフトの上からは角度があって、頭と肩まわりが狙えた状況だったらしい。死亡した隊員は前列中央で、ライフル弾がヘルメットを貫通して、即死だった。軽傷の隊員は前列左。右上上腕を弾がかすめて、肉を持っていかれた。この隊員は俺も目撃した。
ニュース番組では色々な点が叩かれていた。本当に悪いのは殺人犯の方なのだが、なぜかみな一様に警察を批判した。北海道警の見通しの甘さ、犯人を取り逃した責任。そして死んだ隊員の神格化など。更に批判は飛び火して、ライフル所持の要件についても厳格化すべきかという議論がなされた。何もわかっていない人間たちに腹が立ったが、それでもテレビ番組を食い入るように見てしまった。
更に詳細を知ることができたのはインターネットを通じてだった。殺人夫婦の逃亡ルートを追うWebサイトができていた。二人がロッジで警察を返り討ち(でもないのだが)にして逃亡したニュースは、一部で伝説化していた。A県から出発して、北海道のロッジに至る足跡が、事細かに推測されていた。そのサイトではA県警と道警の未解決事件の情報をつなぎあわせて、その事件が夫婦の犯行であるとするならば、何月何日にこのルートで移動したはずだ、と推定していて、精度が高そうに見えた。疑わしい情報には「?」マークがついていて、ほぼ確定情報とわけられていたのも信頼性が高かった。俺も断片的に二人の犯行の話は聞いたが、A県の実家から逃亡劇がはじまったくらいしか正確には知らなかった。
そのサイトは二人の本名、学歴、実家の位置まで特定していた。最初の事件はA県の男子大学生の殺人事件。しかしこれにも「?」マークがついている。被害者は金属バットで殴られて死亡していて、一緒に現場いたはずの友人は黙秘しているらしい。その翌日未明、レクサスの盗難事件が発生している。強盗殺人。田舎道の路肩に駐車していたところを強盗され、運転手はそのまま頭をタイヤで轢かれて死亡。タイヤに返り血がべったり付着したはずだが、どうしたのだろう。この事件は夫婦の犯行確定として扱われている。ナンバーは変えられていたが、この車を青函フェリーで運んで、北海道に逃げてきたのは間違えない。そこからちょこちょこ強盗犯罪を繰り返しながら、稚内に。稚内で二人が何をしていたのかはよくわからない。それからなぜか夕張方面まで南下して、偶然俺のロッジにたどり着いた、というのが真実らしかった。そして現在の行方はわからない。
それから俺の人生は激変した。時の人としてマスコミから取材を受けて、発言内容でバッシングを浴びた。ついでにスキー場の補助金不正受給のスキームも発覚して、当然施設の認定は取り消されて、制度自体が廃止されるまでになった。
管理人としての職を失った俺は、砂川市の安アパートを借りて、事件について本を書くことにした。大手出版社から連絡が来て、最初はインタビュー形式で出さないかということだったが、一から書かせてくれ、と俺の方から提案した。
俺の中で巨大な感情が生まれていた。身を焦がすような情熱に突き動かされて、連日文章を書きつづった。その情熱をくれたのは、あの殺人夫婦と過ごした日々だった。マスコミは真実を伝えていないから俺が真実を伝えるんだ、という怒りから書きはじめた文章は、やがて事実と俺の思考が入り乱れた、甚だ読みづらい怪文になっていった。初稿を編集に送ると、大量の赤がついて返ってきた。それでも俺の情熱が萎えることはなくて、むしろ燃え盛った。書いて、書いて、書いて、腹が減ったら自転車で外に行って、外で食べるか何か弁当を買って帰るかして、また書くことを続けた。
完成しつつある本は、俺がストックホルム症候群を装って、殺人夫婦に魅入られていく、ワイドショー向きの話になった。最初に書きたかったものとは全く違う内容になったが、編集は太鼓判を押した。曰く、「センセーショナルでありながら、不快感がない、爽やかなドキュメンタリーとして広く受け入れられるだろう」。事実を歪曲した描写に、抵抗が全くないわけではなかったが、やがて受け入れた。どうせ警察の事情聴取のときも、テレビで事件を語ったときも、誰も俺の言うことをまっすぐ聞いてくれることはなかった。じゃあ俺も世間を騙し切ってやる。やがてそういう気持ちになった。
もしかしたら、俺も何かを残せるのかもしれない。そんな予感がした。
(了)
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