#9

他人を支配したい、という欲求。


人間が二人以上いれば、必ず何らかのパワーバランスが生まれる。だから俺は一人で生きることを選んだのだった。人に命令するのも、人から命令されるのも嫌だった。嫌なことを避けていった結果、極めて消極的に、この誰もいない山小屋の生活に落ち着いた。


人と関わること自体はけして嫌いではないのだった。集団の中のヒエラルキーがあって、階層の上にならないといけない圧力がどうしても嫌いだった。だから俺は群れから離れて、一人生きるしかなかった。俺はこの夫婦に、自分と近しいものを感じていた。そしてうらやましいことに、二人は一人ではなかった。社会的に孤立はしていたけれど、互いに深いところで理解があって、孤独ではなかった。俺にはそう見えていた。けれど二人の間では違ったのかもしれない。


防寒を整えてロッジから出ると、外は吹雪いていて、おまけに暗かった。その寒々とした景色を見て、夫婦があくまで異なる人間二人のつがいで、絆には脆さがあることを改めて思い出した。極限状態のときに本当の絆の強さが試されるというが、それは違うだろう。極限状態への強さと日常生活の中での強さは別だろう。戦争で活躍した人間が、平和な世の中に適応できないように、極限にだけ強い絆というものも存在する。あるいは女はそのことを知っていて、わざわざ極限状態をつくろうとしているのではないか、と考えるのは、俺の邪推だろうか。


懐中電灯とヘッドライトで、女の足跡をかろうじてたどる。どうやらゲレンデに出て、山の上に向かったようだった。

「おーい!」

大声を出しながら、周辺を見渡したが、人影はなかった。雪で視界が悪く、視認できる範囲も狭かった。家を出るまでにかかった所要時間が五分ほどであることを考えると、そう遠くには行ってないはずだった。

「あいつ、体力はどうなんだ?」

「普通だよ。でも、なんか、ずっと変だったから、いつもとは違うかもしれない」

仮に雪山を五分ほど全力疾走したとしても、大した距離は進めないはずだった。

「スノーモービルを使おう」

俺は悩んだ末に、そう提案した。俺たちが走れば女に追いつけるかもしれなかったが、夜の山が怖かった。俺がこのロッジに住み着いてから、夜に外出することはほとんどなかった。スキー場が営業していた頃は、後片付けか何かでゲレンデにいることはあったが、せいぜいリフトで作業をする程度のものだった。夜のゲレンデを走り回るなんてことはまずしなかった。目印は何もない。

「わざわざ戻んのか?」

「俺たちが全力で走って、追いついたとして、あいつがまた逃げるとするだろ。それを俺たちがまた追いかけて、逃げて、追いかけて……そんなことをしているうちに、自分たちがどこにいるかわからなくなる。自分たちの足跡をたどれば戻れるかもしれないが、この雪だといつまで残っているかわからない」

「うるせーな。わかったよ」

そういうと男は小走りでロッジに向かったので、俺もその背中について走った。数メートル離れただけで相手の背中が見えなくなりそうになって、まずいなと思った。焼け石に水かもしれないが、ロッジの玄関の灯りをつけておいた。玄関のライトは二階のベランダにくくりつけてあるので、おそらくゲレンデからもそれなりに見えるはずだった。

スノーモービルで再び女の足跡をたどる。足跡は降る雪のせいで薄くなっていた。前方についているライトの明かりでは、足跡は見づらかった。なんとなくで走っていたら、途中で完全に見失った。仕方ないので、スノーモービルを止めて、懐中電灯で雪上を探し回ったら、何とか次の足跡を見つけた。

「さみい」

男が思わず呟いた。ヒートテックの上にスキーウェアを着て、可能な限り最大限の防寒はしていたが、それでも寒さを感じた。スノーモービル上で受ける向かい風がつらい。

「いったい何を言ったんだ?」

「は?」

「何かひどいことを言ったんじゃないのか?」

「いや、何も言ってない。たぶん、何も言ってないから、怒ってんじゃないのか」

「哲学的だな」


狩りのときにいつもスノーモービルを置いている場所まで来た。やはり人影は見えない。スノーモービルを降りて、足跡を探すと、二手にわかれた道の一方に向けて続いていた。

「マジかよ」

思わず男が呟いた。ロッジからここまでのぼるのは、不可能ではないが、なにせこの雪と気温だ。こちらの脚力をすべて吸収するかのような雪を踏み抜いて、斜面をのぼらなくてはならない。

「お前の嫁、どういう体力してるんだ」

男は答えなかった。そのままスノーモービルで進んだ。道がすこしくだっていて、ブレーキを強くかけないとスピードが出てしまう。蛇行するにしては、道が狭くて、どうしても直進に近くなってしまう。狩りのときに拠点にした、開けた場所の辺りまで来た。木の間から入る必要があって、人一人分ぐらいの隙間があるのだが、スノーモービルを入れるには狭かった。入り口の前で停めて、また足跡をたどると、開けた場所には入っていなくて、そのまま道をおりて行ったようだった。

「あっ」

俺は急に思い出した。

「いつもスノーモービルをゲレンデに置いていた理由、思い出した。くだりだったからだ。スピードがつきすぎるからやめたんだ」

「ああ……」

男は俺が急に興奮して喋り出したので、戸惑った風だった。狩りに来るようになってはじめての頃に、俺はスノーモービルでこの斜面をくだって、止まれなくて派手に草むらにつっこんだのだった。もう十何年前のことだろう。

「だから、ここからは歩きだ」

些細なことだった。昼間に男に聞かれて、上手く説明できずにまごついたことに、しっかりした理由があった。こんなことを思い出したところで、何が変わるわけではない。しかしこの数日低調だった精神状態が確かに変わった。何をやっても上手くいかない感じ。やたらと落ちこむ気分。それを解消したくて酒を飲んで結局もっと精神的に落ちていく感じ。狩りに行って少しだけ気は晴れたが、それでもなお低調なままだった。そして深夜に女が出て行った。これもまたネガティブな事態だったが、しかしネガティブなことがある閾値を超えると、引っくり返る瞬間がある。一種のパニック状態だ。そしてその混乱の中で、この瞬間、俺は妙に自信を取り戻した。これは自分でも上手く説明できない現象だった。


俺は同じことを繰り返しすぎていた。雪山の生活の中で、生活を繰り返す。もちろんこの夫婦が来て以来、その繰り返しは破られたように思っていた。しかし夫婦との緊張関係が緩和していくにつれて、結局生活の繰り返しは変わらなかった。朝起きて、飯を食って、家のことをやって、飯を食って、酒を飲んで、眠る。一日単位でそれを繰り返して、やがて季節が変わる。春になって夏が来ても、俺がやることはさほど変わりがなかった。そして一年が過ぎて、また冬が来て、同じように山ごもりがはじまる。また一つ年を取る。

「俺は正しいことをしているのか?」

時折その手の自問自答に襲われて、おかしくなりそうになる。人を殺したわけでもないのに、異常な罪悪感がわくときがあった。この苦しさから解放されるために、髪を切って、ヒゲを剃って、ネクタイを締めて、会社のビルの出社したいという思いに駆られる。労働を繰り返す中で、子供が大きくなって、やがて家から巣立って、自分も定年退職を迎えて、子供は孫をつくり、夫婦二人になった家を訪れる。かつて魅力に感じなかったそんな小市民的幸福が、今は自分が手を伸ばしても到底届かない眩しい幸福のように感じて、胸が苦しくなった。


その痛みに意味がないことは、頭ではわかっていても、心がわかっていない。だからこそ心を健全に保つ必要があった。まず体の健康、そして美味しい食事、退屈を破るための狩り。一人の生活は、精神の健康を保てなくなったときに、すべてが破綻してしまう。誰も脅かさない代わりに、誰も助けてくれない。


暗い気持ちにとらわれないためには、目の前のことに没頭するしかない。何かに熱中するしかない。熱中だけが中年の孤独を救う。燃えるような炎が身を焦がすとき、俺はようやく自分の強さを感じられる。人生の意味なんていう高尚な禅問答が消え去って、後に残るのは冷たい空気を吸ったときの肺の痛み。鼻のつんとする感覚。世界には形而上学的な意味などなく、ただ目の前に見えているものが全て。全身の神経が覚醒して、心臓に血が集まる。暗い視界の中で、瞳孔が開かれていく。体中にエネルギーがみなぎって、生の喜びを感じる。


俺は率先して歩いた。雪に長靴が吸いこまれるけれど、それも構わず次の一歩を踏み出す。

「俺が知る限り、この辺で熊が出たという話はない。けれど、最近は市内でも目撃情報があるぐらいだから、出ない保証はない」

「銃持ってきた方が良かったのか?」

「ライフルか? いや、ムダだろう。どのみち逃げるしかない。逃げるときは絶対に背中を見せるなよ。相手の目を見ながら静かに後ずさりしろ。怯えは隠せ。だが威嚇もするな。相手が戦闘状態になったら終わりだ」

そんな講釈を垂れながら、先に進む。道が突き当たりになって、更に二手にわかれる。左手は小道、右手はかろうじて獣道があるだけの藪。両方とも進んでもどこに出るのかわからない。女の足跡はそこで途切れていた。

「まいったな」

左の小道に行っていれば足跡が続くはずだから、おそらく右の獣道に入ったのだろう。左は一度行ったことがあって、奥まで行ってもただ道が途切れて、林に続いているだけだった。右はどうなっているのかわからない。

「もしあいつが見つからなかったら、諦めて俺たち二人で……」

「絶対見つける」

「……ここまで来てる時点でまともな精神状態じゃない。林の中に入ったんだとしたら、ヘタしたら遭難している」

「見つかる」

男は現実を認めようとしなかった。

「探すのを諦めるという選択肢はないんだな?」

「ない」

「わかったよ」

俺たちはガサガサと藪を払って、獣道に入って行った。藪は腰ぐらいまである低木だったが、その奥には林があって、先が見えない。低木の枝を払いながら、奥に進むと、林まで行けるが、その先は木が続いているだけだった。

「ダメだ」

俺は立ち止まった。

「この先は何があるんだ?」

「俺も知らない。たぶん林が続いているだけだ。このまま行くと方角がわからなくなる」

急いで家を出たので、コンパスを持って来なかった。こんなに奥まで追うことになるとは思わなかった。

「日がのぼるまで待とう」

「そんな余裕ないだろ。ぐずぐずしてると、もっと遠くに……」

「仮に林の中で会えたとしても、今の暗さだと向こうが俺たちのライトに気づいて逃げるだろ。そしてたぶん会えないよこれ。俺たちも遭難するのがオチだ」

「俺一人でも行く」

「いや、お前も行くな」

「お前は無関係だから、そんな余裕でいられるけどなあ」

「見つけたければ!」

俺は大声を出した。

「日がのぼるのを待て。焦る気持ちはわかるが、今先に進むのは自殺行為だ。だから止めてる」

男はしばらく俺をにらみつけた。何か言いたそうだったが、黙ったままだった。そして無言で引き返していった。獣道を逆戻りして、道が二手にわかれていたところに戻った。

「ロッジ出たときの時間わかるか?」

「わかんね」

動転していて、時計を見ていなかった。ベッドに入ったのが0時で、おそらく二〜三時間は寝ていたような体感がある。そこから女の捜索で一時間ほどたっている。この時期の日の出はだいたい六時から七時の間ぐらい。となると二時間以上待機することになる。俺はその旨を男に説明した。

「一度スノーモービルのところまで戻ろう」

スノーモービルの場所までは徒歩で十分ほど。

「ここの方がいいだろ。明るくなったらすぐに……」

「この雪の中二時間ただ待つのはつらいぞ。スノーモービルの中に少しはモノがあるから、ここよりはマシだろう」

確かカロリーメイトや燃料が入っているはずだ。コンパスも入れていたかもしれない。何もない小道で待機するよりは精神的に楽なはずだ。


俺たちはスノーモービルのところまで戻った。いつ入れたのかわからないカロリーメイトをわけて食べた。行動食としてカロリーメイトは優秀だった。かさばらない、味も美味しい、おまけに消費期限が長い。ガスバーナーで雪を溶かして、紅茶を淹れて飲んだ。じっとしていると寒さが身に染みるので、食事でなんとか体温を上げなければならなかった。焚火でもできれば良かったが、この雪では着火しそうもなかった。雪が避けられる木陰にスノーモービルを置いて、日の出を待った。

「お前の嫁、どうかしてるんじゃないか。前にもこんなことあったんじゃないか?」

「夜中に家出て行ったのははじめてだよ」

「近いことはあったのか?」

「まあな」

チタンカップは一つしかないので、一杯目はカロリーメイトを食べたときに分け合って、二杯目は男に渡した。飲み終わったら自分のために三杯目を淹れる。

「その辺は母親似だな。あいつの母親は頭がおかしかったんだ」

「そうなのか」

「金勤会(こんごんかい)って知ってるか?」

「名前ぐらいは」

それなりに有名な新興宗教だった。詳しくは知らないが、特定の神を信じてはおらず、個人の修養を目指す教えのもとに集まっているらしい。

「母親が信者だった。弟が生まれて、その弟がなんか障害持ってたんだよな。それで母親はますます狂って、金勤会の中では神になったらしい」

「神になった?」

「重い障害を持った子供がいるけど、がんばってる姿が感動だったんじゃねーの。テレビでもたまにあるじゃん。そういうの。講演とかやってたよ。行ったことないけど。俺から見たらクソババアだったけど、今思い出すとちょっと雰囲気あるように見えたんだろうな」

「雰囲気ってどんな感じだ?」

「あんま言いたくないけど、あいつに似てるな。なんていうか、喋りの説得力?」

二人とも多弁ではなかったが、日の出を待つためにとにかく喋らざるを得なかった。頭の中に浮かんだものを搾り出すみたいに、どんなに話題が尽きても話を続けた。普段なら話さないような細かいことを話した。俺は社交的ではないだけで、けして人と話すのは嫌いではなかった。

「確かに、言い争いになったらあまり勝てそうになかったな。あの……リキは」

「そうだな。でも、基本的に言い争わないけどな。俺は向こうが言ってることに従うだけだ」

夜明け前の山はとにかく暗くて、お互いの表情はよくわからなかった。

「告白会っていうのがあるらしくてさ」

男がそう言って、俺は一瞬話を見失った。

「付き合ってください、とでも言うのか?」

「はは。そう思うよな。なんか、自分の弱さを告白しないといけないらしい。たとえば宿題をサボりましたとか、同級生がいじめられてるのを見て見ぬフリしましたとか」

話の途中で、金勤会の儀式の話なのだと気づいた。

「それを家でやるらしいんだけど、何もなかったですって言うとボコボコにされるらしいんだよな」

「ボコボコねえ」

俺は「厳しい口調で責められる」ことを、比喩的な意味でボコボコと言っているのかと解釈した。しかしそうではなかった。

「こう……背中丸めて床にうつ伏せになって、背中をベルトでバンバン叩く、みたいなさ。だから何かしら自分の悪いことを言わねーといけないんだけど、本当に悪いこと言うと、それはそれで怒られる。隠してるのがバレたときは半殺しになる。自分の娘だぞ? そんなことするか普通。宗教信じてる奴ってやっぱ頭おかしいよ」

カルト宗教によくある手法だった。相手の弱みを告白させることで、上手くマインドコントロールする。弱さを克服するとか、トラウマを乗り越えるとか、そんなことを言って、悩みを抱えている人間を誘いこむ。一度教祖と信者の上下関係ができあがってしまえば、あとは奴隷のように人を使うことができる。

「だからあいつはちょうどいいラインの話をつくるのが上手くなった。バレないように嘘をつく訓練を重ねた。そういう教育を受けたから、何一つ本当のことが話せなくなったんだ」

たしかにロッジにいるときも、女は時々無意味な嘘をつくことがあった。たとえば本当は苦手な食べ物なのに、苦手じゃないようなことを言って、実際に食卓に出ると理由をつけて手をつけなかった。

「もしかすると今回のリキの行動も、ねじれた思考回路の産物なのかもな。赤ん坊が泣いているときって、自分でも何が不快なのかわからないだろ? そんな風に、あいつも自分が本当に何を考えているのかはわからなくなってるんじゃないか?」

「わかんね」

俺の真剣な考察に対する反応は冷たいものだった。


いつしか雪はやんでいた。まだ雲は多かったが、山裾が明るさを増してきた。もう少しで日の出だった。東向きに別の山があって、その向こうから太陽がのぼってくるはずだった。通常の日の出より、山がある分遅れるかもしれない。そんなことを考えていたら、薄暗い林の中から、ずっと探していた女がふらふらと現れた。


それは幻想的な光景だった。雪の上に女が立っていた。雲の間から、朝日が後光のように差しこんで、彼女を照らしていた。ニット帽の下から黒い髪を垂らしている。林の中をさまよった結果なのか、雪の粒や木の葉が体についていた。その姿は二足歩行の獣のようにも、何かの妖精のようにも見えた。

「リキ!」

俺は大声で呼んだ。男の方は体が先に動いていた。雪の上を走って、女の元へ駆け寄った。女は放心していたような表情だったが、男が肩に手をかけると、正気を取り戻したようだった。

「触らないで!」

肩の手を振り払って、そう叫んだ。二人はしばらく揉み合った。

「お前のせいで私の人生は台無しだ! 触んなよ!」

林が揺れるほどの大絶叫。

「落ち着けって!」

男も負けじと叫んだ。ただ女がギャーギャー喚く声にかき消される。何を言ってるのかもわからない、動物の鳴き声じみた叫びが続いた。

「落ち着け!」

しばらく揉み合った後で、男は女を抱きしめた。すると女は黙った。美しい男女の光景のようにも見えた。それをすこし遠くで見ながら、なぜかそのときにはじめて俺は二人を理解できないことを理解した。


それから三人でロッジに戻った。女にシャワーを浴びさせて、オニオンスープを飲ませて、一旦寝かせた。俺は長らく使うことがなかった風呂をデッキブラシでせっせと掃除して、長年蓄積した水垢を落とした。風呂にお湯を張ることにしたのだった。なんだか何かを変えた方が良さそうだと思った。


最後に湯を張ったのは何年前だろうか。湯船は一度に十人程度入れる広さがある。何を考えてこんなに大きな浴槽にしたのかはわからない。まだ日本に余裕があった時代の無計画な建築設計は、今になってみるとムダどころかマイナスになっていた。


夕方になって、夫婦を風呂に入らせた。それとなく様子を窺うと、相変わらず一人が入っているときはもう一人が風呂の前に張っていた。数ヶ月共同生活が続いて、向こうの警戒心も薄れていたが、最低限の警戒は欠かさないようだった。いいことだ、と思った。餌付けされている野良猫が人間に慣れすぎて、警戒心を失ったのを見ると、将来が不安になってしまう。


風呂の様子を見て、二階の自分の部屋に行こうとしたところで、固定電話が鳴った。固定電話は一応残しているが、電話がかかってくることはめったになかった。たまにあやしい営業電話がかかってくるぐらいのものだった。

「もしもし」

「すみません、そちらのスキー場は明日営業してますか?」

俺は一瞬思考停止した。スキー客がこの電話番号にかけてきた雰囲気だったが、この電話番号はどこにも一般公開していない。ただ施設登録の資料には記載があるはずなので、知っているとしたら官公庁の人間が疑わしい。官公庁のチェックなのだとすると、営業している体裁を装う必要があった。

「お電話ありがとうございます。明日、お越しいただけるということですかね?」

少し考える間があいてしまったが、その後でこんな風に取り繕った。電話の向こうでも沈黙。

「今お一人ですか?」

「え? ええ」

「そのまま普通に営業電話が来ているように、こちらの話を聞いてください。私は北海道警の者です。そちらのロッジに、逃亡中の殺人犯が逃げこんでいますよね? はい、か、いいえだけで答えてください。それ以上の回答はやめてください」

電話の相手が誰なのかを理解して、俺は血の気が引いた。

「……はい」

嘘をつく理由はなかった。

「相手は二十代の二人組の男女ですね?」

「はい」

「銃を持っていますか?」

「はい」

「そちらには車で来ました?」

「……はい」

警察はかなり正確に二人の情報をつかんでいて、俺は「はい」と答え続けるだけだった。

「あなたは拘束されていますか?」

「いいえ」

その質問ではじめて否定をした。

「……あなたの身の自由は制限されていますか?」

「いいえ」

「ではもし、そちらの山小屋から一人で逃げようと思えば、それは可能ですか?」

「たぶん、はい」

「監視はされていない?」

「はい」

「なるほど」

警察は俺のことを監禁でもされていると思っていたらしい。たしかに殺人犯が押し入ってきた時点で、そういう状況もあり得た。

「では、ここからは特に何も回答せず、聞いてください。明日以降、警察でそちらの山小屋に突入します。天候次第で延期します。申し訳ないですが、決行日が変更になったとしても、こちらからこれ以上連絡はしません。犯人が勘づくリスクを少しでも減らしたいためです。あなたはご自身の身の安全を一番に考えてください。当日、機動隊が山小屋へ向かいます。犯人があなたを人質に取ろうとすることが想定されます。できるならば、その前にあなたは下山を試みて、警察と合流してください。ただ不審な動きは犯人に怪しまれる危険があるので、ムリはしないでください。ご自身の身の安全を第一に行動してください。またもしも犯人に気づかれずに我々に連絡が取れる状況がつくれたならば、110にかけて、北海道警につないでもらって、お名前かスキー場名かを言っていただければ、我々のチームが受けられるようになっています。この電話は一方的に話すだけになってしまい申し訳ありません。それでは失礼します」

そのまま電話は切れた。この殺人夫婦との共同生活が明日には終わろうとしている。その事実にしばらくただ茫然としていた。


(続)

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