#8
しばらく道を進んだが、結局獲物は一匹も見つからなかった。左右に広がる白樺の木々の間で動くものと言ったら、風に揺られる枝のみだった。歩いているうちに雲が増えてきて、今にも雪が降りそうだった。体感でわかるくらいに気温が下がってきた。予報では夜から雪だったものが早まったのだろう。
「すまん、ここで戻ろう」
「帰るのか?」
「ああ。今日はダメだ」
「わかった」
何か文句の一つでも言うかと思ったがそれもなかった。俺たちは何も言わずに来た道をスノーモービルまでとぼとぼと歩き、乗りこんだ。運転しながら、男の言った生きている限り「死んだ奴よりは上」という、動物的な価値観が思いのほか救いになっていて、自分で驚いた。そしてその言葉の裏に、実際に死んでしまった人間がいるような気がしていたけれど、、それを聞くのはあまりにも無神経だったので、聞けなかった。その程度の理性はまだ俺にも残っていた。
むなしくロッジに帰還した。時刻は午後三時を回ったところ。男を先におろして、スノーモービルをガレージに入れた。空を見ると、雲は分厚く、もう夜が来たように薄暗かった。大雪になる予感が漂っていた。
ロッジに入ると、電気をつけないと何も見えないくらいに暗かった。そして寒かった。いつも焚いている灯油ストーブが着火されていなかった。男は二階の寝室に行ったらしく、気配がしなかった。一階は誰も使っていないのかもしれない。とにかく行動する動線の電気をつけてしまおうと思い、キッチンの電気をつけて、それからリビングの電気をつけたとき、食卓に夫婦の女の方が座っているのに気づいた。
「うおっ!」
思わず間抜けに叫んでしまった。俺が大きな声を出しても、女は食卓に向かってうつむいたまま、視線を動かそうともしなかった。
「どうしたんだ?」
答えはなかった。電気をつけると、俺が用意していた朝食のサンドイッチとクラムチャウダーが手つかずのまま残っていた。女は微動だにせず、長い髪は顔にかかって、表情を隠していた。ただ目はしっかり見開かれていて、電気の光が白目に反射していた。生きているの疑わしくなるくらいに、その姿は抜け殻のようだった。
「何かあったのか?」
「調子が悪いのか?」
「リュウはどうしたんだ? 俺より先に入ってきたはず……」
何を言っても反応がなかった。俺はどんどん怖くなってきた。まさか銃を突きつけてきた男よりも、椅子に座っているだけの女に怯えるとは思わなかった。俺は頭をボリボリとかいて、二階へ向かった。寝室に旦那がいた。
「おい、リビングに行ったか?」
「行ってないけど」
「お前の嫁、なんだか様子がおかしいぞ」
「ああ。きっと嫉妬してんだな」
「嫉妬って……あいつも猟に興味あったのか?」
「違うよ」
「違う?」
「俺とあんたの関係が嫌なんだろ」
一瞬、言っている意味がわからなかった。
「どういうことだ? 俺のことを同性愛者だと思ってるのか?」
「それは知らねーけど。あいつは、俺に孤立してて欲しいんだよ。そう思ってるだけじゃなくて、実際に行動もする。俺が今こんな境遇になったのも、実際……いや、それは俺が選んだもんであって、俺の選択だけど」
「要するに、俺とお前が男同士で仲良くなってるのが気に食わないってことか?」
男は頷いた。俺はまた頭をかいた。
「それが本当なら病気だろ」
「そうかもな。俺がこんな境遇になったのもあいつのせいかもしれない。あいつが実家の近所にいて、仲良くならなければ、もうちょっと学校でも上手くやれたのかもしれねえ。あいつは孤立した俺をどんなときも見捨てない天使なんだ。そういう状況をつくるために、裏で悪口流したり、俺の行動を操ったりしてた。俺はそんなあいつに救われたり、憎んだりした。でも結局は救われた」
「そんな自作自演の救いがあるか? 呪いじゃないのか? そんなもん」
男はすこし笑った。
「呪い。たしかにな」
そう言いながら立ち上がって、一階におりていった。俺はどうしたらいいかわからず、二階の階段のところで様子を伺った。話し声は小さく、確かには聞き取れなかった。窓の外では雪が降りはじめた。あまり風のない中を、大粒の牡丹雪が静かに落下する。また数日はまともに外で活動できなさそうだ、と思った。
夫婦という関係を、俺は経験したことがない。十年以上山の中で暮らしているのだから、女っ気なんてあるはずもない。そして幸福な夫婦への嫉妬もなくなった。若い頃は確かにカップルに嫉妬することがあった。嫉妬するのは自分もそういう幸福を味わいたいからだが、いつしか明確に自分の人生からそういう未来が消えた。それに伴って何も思わなくなった。嫉妬がなくなったのはいいことだが、健全であるとも言えなかった。孤独感に苦しむことはあった。妻がいればいくらか救われただろう。五十代になって感じるが、どんな妻でもいないよりはマシだと思う。ただろくでもない結婚相手を選んだせいで、人生が転落した人間もそれなりにいる。だから、どんな妻でも、というのは嘘だろう。限度はある。この限度について説明するのは難しい。「幸福な家庭はどこも似たようなものだが、不幸な家庭にはそれぞれの不幸がある」と書いたのはトルストイだが、不幸というのはパターン化できない何かがある。
限度というのは、容姿が悪いとか、性格が悪いとかそういうレベルではない。そういう些細なことで別れてしまった奴も見たけれど、俺はその裏があるのではないかと勘繰ってしまう。たとえば「旦那がトイレのフタをおろさないのが気になって離婚しました」という女がいたとして、もしその旦那が宇宙人から世界を救った英雄だったとしたら、たぶんトイレのフタをおろさないのも愛嬌になっただろう。いや、女の方がそれでもトイレのフタをおろさないのがどうしても許せなかった異常者だった可能性もある。しかし女の方がまともな人間だったという仮定を置く。たぶん九割ぐらいの人間はそうだろう。その場合、「トイレのフタ」というのは、単に我慢の限界に来たのがそれだったというだけで、その裏にあるのは旦那が日常生活において他人に対して常に負荷をかけ続ける存在だった、ということが多いように思う。母親が甘かった人間にありがちなことだ。母親の代わりを求めて女を探して、女の方が限界を迎える。特に俺の世代は、母親の在り方が大きく変わった。男女雇用機会均等法だの何だの、母親が働くことが珍しくもなんともなくなった。母というどこの家庭にも当たり前にいた役割は専業主婦という侮蔑的な名前がついた。
あの夫婦は、もちろん男の方も女の方も限度は超えている。配偶者が犯罪者というのは最悪だ。俺の直接の知り合いにはいないけれど、結婚相手が犯罪に手を染めた話は聞いたことがある。暴行とか轢き逃げとか。そしてギリギリ犯罪ではないが、近いもので家庭内暴力や借金。そういう配偶者がいることは、孤独な人生よりもマイナスだろう。しかし殺人犯と殺人犯が結婚した夫婦だから、どちらかが不幸になるということもないのか。殺人夫婦だ。
旦那の方の人間性はなんとなくわかってきた。バカではあるが、その分まっすぐな人間だとも思う。もし同級生にこんな奴がいたとしたら、嫌いになることはないと思う。教師から見たらわからないが、少なくとも生徒同士だったら、むしろ面白いと思うんじゃないだろうか。その上身体能力がずば抜けている。数ヶ月一緒に暮らしただけだが、その中で特別なものがあることは理解した。女の方が吹いていた「何のスポーツをやらせても先輩を圧倒して上下関係が崩れて部活を辞めた」というエピソードも、あながち嘘ではないのかもしれない。その辺の公立校であんな身体能力の人間がいたら、周囲を圧倒するだろう。そこまでは想像がついた。
嫁の方を理解できていなかった。俺はそもそも女というものをよくわかっていない。「女心に疎い」なんて言えばそれっぽいが、そうではなくて、単純に女性経験が足りていなくて、女特有の要素が何一つわかっていないだけだった。そんな俺にとって、リュウの嫁のリキは難解だった。リュウもリキも、頭の中では名前を知っていたが、直接名前で呼ぶことはなかった。向こうも俺の名前を覚えていたかはあやしい。
嫁は終始大人しくしていたが、大人しい人間なのだとは思えなかった。見た目は黒髪のロングヘアーで前髪を左眉の上でわけていた。化粧をしてなくて、薄い顔立ちだった。美人だと思うが、目が合うと、切れ長の目の奥に何か鋭い光が見えた。笑うと眉間に皺が寄る。長く喋ると東北弁が出て、本人はそれを恥ずかしいとは思っていない。それ以上の情報はない。恐らく内面の芯の強さをあまり外面に出さないようにしているのに、それでもにじみ出ているのを俺が勝手に感知している。旦那より、嫁の方がなぜか怖かった。
屋根からどさりと雪が落ちた。
「あ」
俺はふと思い出した。嫁はどことなく俺の母親に似ていた。容姿や性格ではない。不機嫌で家の中を支配するという点において、二人は似通っていた。
不機嫌の理由を考えるのは、雪が降っている理由を考えるくらいに不毛なことだった。気象学的になんらかの説明ができるくらいで、突き詰めていくと「雪雲が発生したから」以外の説明はない。そしてそれに対して人間ができることもないのだが、古来から人間はそのことを認めたがらなかった。行いを正すとか、神に祈るとか、そういう方法でなんとかして太陽に戻ってきてもらおうとした。そしてそれは女の不機嫌に対しても同じだった。
すこし時間を置いてからリビングに行くと、二人はもう会話していなかった。女は椅子に座ったままで、男はソファに座っていた。中途半端についている電気の照明効果もあいまって、絵画的な光景に見えた。その絵にタイトルがあるとすれば、夫婦の亀裂、とか、そういうことになるが。
それからシャワーを浴びて、夕食をつくった。前に買い出しに行ったときの生野菜の余りがあって、ラーメンサラダをつくった。真冬に食べるものでもないが、何か変わったものをつくりたいと思った。あとはコンソメスープに、すこし量が足りないので、冷凍の餃子も焼いてやった。男の方は狩りに行って腹が減っていたのか、米も食べた。ラーメンサラダは酒を飲む人間にはちょうどいいのだが、そうでないと中途半端な食べ物だなと思った。主食というにはすこし足らないし、サラダというには主食すぎる。かといって米と一緒に食べようとは思えない。女はやはり食べなくて、コンソメスープだけ半分ほど飲んだ。
不穏な空気を引きずったまま、二人は別々のタイミングで寝室に行った。俺は一人でしばらくウィスキーを飲んで、それから後片付けをした。それから自分の寝室に行き、ベッドに入った。狩りの疲れと酒の酔いですぐに意識を失った。
夢も見ないくらいに深い眠りだった。
「おい!」
男が叫ぶ声で目覚めた。階段で激しい足音もする。時間は正確にわからなかったが、真夜中であることはわかった。
「どうした?」
「出ていった!」
「はあ?」
どうやら女がロッジの外に飛び出したらしい。
「何があったんだ?」
「知るかよ。とにかく探しに行かなきゃ」
男は寝室で寝巻きからスキーウェアに着替えようとしていた。
「ちょっと待て。俺も行く」
「は? いいよ別に」
「お前らよりこの山のことは知っている。夫婦そろって野垂れ死ぬなんてことになったら最悪だからな」
男は険しい顔で俺をにらんだ。しかしそれ以上の反論はなかった。
(続)
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