#7
銃は自分に向けるものではない。相手に向けるものだ。相手に向けている銃は味方だ。心が安らぐ。自分に向けた銃は敵だ。怖い。誰だってこんなに怖いんだろうか。俺は自分に銃を向けたことはない。俺は健康な人間だ。肥満、切れ痔、飲酒習慣以外は、至って健康だった。実際、この年齢の割には健康体だろう。
この世に何かを残せる、という考えはなぜか子供の頃からあった。その傲慢は誰だって持っているものではない。それはわかる。この世に何一つ残せないかもしれない。その不安に駆られたのは二十代後半。俺なりに焦って、もがいて、すべてが時間切れになったのを悟ったのが四十歳のときだった。しかしそれは絶望ではなくて、救いだった。何かを残すことを諦めたとき、俺は本当に解放された感じがした。一気に見えているものが明るくなって、残りの人生は好きなように過ごそうと思えた。他人と比べずに、自分が本当にやりたいことだけをやろう。競争から降りて、俗世と関わらないで、人里離れた田舎で、暖炉の前に座って、時々ギターを弾きながら過ごす。あ、そうか。暖炉……暖炉が俺をこんな絶望的な気持ちにさせたんだ。この優しい炎が、俺の心をくまなく照らして、そこにある空洞を浮かび上がらせた。直視したくないものを見せてきた。
俺はバケツに水をくんできて、乱暴に暖炉の火を消した。灰が舞って、咳が出た。消し炭になった薪の残骸とその灰を、じっと見おろして、しばらくしたら、雑巾を取ってきて、床を水拭きした。飛び散った灰の汚れはしつこくて、乱暴に水を振りかけたことを後悔した。
この世に何も残せない不安に、押し潰されるなんてものは、もうとっくに過ぎ去った。今の不安はもっと形のないものだった。言葉にできない不安は、他人にも当然説明ができないし、自分でもわからない。わからない不安には対処もできない。今俺にできるのは暖炉の火を消すことだけだった。
しばらく鬱々とした気持ちで過ごした。そんなときに限って雪が続いて、ろくに外に出られなかったが、数日後に晴れた。
「明日俺は狩りに行くから朝早くいなくなる」
前日の夜にそう宣言すると、二人の表情が「じゃあ俺たちの朝ごはんは?」と言っていた。
「メシはつくっていくから、二人で食ってくれ」
「俺も行くよ。狩り」
男の方が言ってきた。
「やったことあるのか?」
「ない」
俺はどうしようか悩んだ。一人で狩りに行って、気持ちを切り替えたかったが、しかし一人じゃない方がいいのかもしれない。
「俺の言うことが聞けるか?」
「言うことって?」
「狩りにはマナーがある」
「マナ〜?」
「たとえば獲物を見つけたとき、当たるか外すか微妙なときは撃つな、とか」
「なんでよ?」
「脚に当てて逃げられて、そのままどこかで苦しんで死んだとすると、まずかわいそうだろ」
「……そりゃそうだ」
「動物愛護精神に反する。そしてその死骸に熊が寄ってくると最悪だ。次狩りに行ったときに熊と遭遇することになる」
「悪いことすると自分に返ってくるってことか」
「そういうことだ」
「わかったよ」
夫婦との付き合いも長くなってきて、説明も上手くなってきた。二人には抽象論がまず通じないから、なるべく具体的に言うと、案外簡単に伝わる。「動物愛護の観点から必中のとき以外は射撃してはいけません」ではなく、具体的に。出来の悪い生徒にモノを教える先生みたいな気持ちで。
まだ暗いうちに朝食を食べて、ロッジを出た。道具を持って、二人でスノーモービルに乗り、ゲレンデの上を目指した。ロッジである程度狩りの流れは説明した。獲物の解体の話をすると、嫌そうな顔をした。実際やらせることはないだろう。スノーモービルを走らせながら、人殺しでも獣の解体を嫌がるのは滑稽だな、と思った。
いつも通りゲレンデの上にスノーモービルを置いて、そこからそりを引きずって歩く。今日はそりを男に引きずってもらったので、いつもより荷物が軽かった。まだ朝日がのぼり切ってなくて、山はすこし薄暗かった。気温も上がってなくて、吐く息が白かった。連日降り続いた雪で、辺りはすっかり白銀の世界で、ふりかえると俺たち二人の足跡がきれいに残っていた。この分なら獲物の足跡も見つけやすいだろう。
「動物の足跡に気をつけろ」
男が頷いた。しかし辺りは足跡一つない、まっさらな雪面だった。手つかずの雪がどこまでも続いていて、すこし気が遠くなった。自然の美しさは人生に絶望したときほど心の奥底に突き刺さる。
いつも通り開けた場所にそりを置いて、簡易な拠点とした。
「ここまでスノーモービルで来れなかったのか?」
「あ、そうだな」
なぜかその発想はなかった。
「今日の雪なら来れたな。いつももうちょっと雪が少ないからな。いや、道が二手にわかれてるから、そのわかれる前に置いて目印……いやそれは別に関係ないか」
しどろもどろに言い訳した。別に意味なんて何もなかった。ただの習慣だった。
「前、鹿肉のカレー食べたの覚えてるか?」
「そうだっけ?」
「覚えてないか。あの鹿を撃ったのがこの辺なんだ」
そう言って、二人で周辺を探索した。一時間ほど歩き回ったが、獲物の姿はなかった。
「いないな。この天気だといないかもな」
「関係あるのか?」
「当たり前だ。この辺はそもそも狩場じゃないんだ。何日か天気が良かったときに、鹿の群れが足を伸ばしてここまで来ることがある」
俺はぺらぺらと話した後で、相手があまり興味なさそうな顔をしているのを見て、自己嫌悪に陥った。やはり一人で来れば良かった。どうしても誰かがいると、俺のすごいところを見て欲しいと思ってしまう。林から鹿が飛び出てきて、正確に頭を撃ち抜く。いともたやすく、といった感じで。尊敬されたい。そんな自分が嫌になる。どうしていつも通りやれないんだ。
「ダメだな。場所を変えよう」
道をくだっていったところでまた道が二手にわかれて、かろうじて道になっている道と完全な獣道とがあった。
「ちょっと待ってろ」
と言って、獣道をなるべく音を立てないように入った。しかし獲物の影は全くなかった。すぐに戻って、比較的まともな方の道を下った。しかし日差しを照り返すくだり坂は、鏡のようにきれいで、獲物の気配は微塵も感じられなかった。
「……悪いが、今日はダメかもしれない」
狩りというのは獲物と出会えることの方が少ない。出会いを増やすためによりより狩場を探すが、良すぎる狩場は誰かが商売にしてしまう。
スノーモービルを置いているわかれ道まで戻って、そこから逆の山道を進んだ。急に自信がなくなった俺を見透かしたように、動物たちの気配は全くなかった。一人で生活しているときに、絶望的な気持ちになったときは、家から出ずに一日寝て過ごしたり、数人分のメシをつくって腹がはち切れるまで暴飲暴食したり、立てなくなるまでスキーをしたり、今日のように狩りに行ったり、とにかく一人でなんとか対処していた。こういう気持ちのときに上手く人と喋れなくなる、ということを久しく忘れていた。
「こっ……こ……えー……」
「あ?」
「ここは来ないところなんだ。普通なら……でも……たまに来る。獲物がいないならここを探すと……いや、なんでもない」
俺は「ここは普段あまり来なくて、獲物がいなかったとき、たまに来る程度だ。ここで何回か鹿を狩ったことがある」という話をしようとしたが、上手くまとまらなかった。軽いのぼり道が続いて、辺りには白樺の木。ふりかえれば男二人のきれいな足跡が続いていた。
「いなさそうだな」
「すまん」
男は怪訝な顔で俺を見た。向こうが責めているわけではないことは俺もわかっていた。
「どうしてもここ数日調子が悪くてな」
「ふーん」
「すごくつらいんだ。死にたくなるぐらいに」
男は意外そうな顔をした。
「あんたみたいな奴でも、そんなときあるんだな」
「どう見えたんだ」
「いや知らねーけど。なんていうか、そういうのない人間なんだと思ってた」
「情けない話だよ」
俺は立ち止まって、白樺の木の根元にそりを置いて、腰をおろした。
「お前は気持ちが落ちこむときはないのか」
「あんまりないな」
「そんな生活しているのに?」
「……前の方が、よっぽど最悪だったからな。その頃は死にたく……いや、死にたくはならなかったか。落ちることはあったけど、死にたいはなかったな」
座った俺の隣に男が立っていた。こうして見上げるとやたら大きく見える。
「死にたいって奴たまにいるけど、わかんないんだよな。自殺って。だって、生きるか死ぬか選べって言われたら、そりゃ生きてる方がいいに決まってるだろ」
「でも、生きてるのがどうしようもなくつらいなら、死んだ方がマシだって気持ちになるのも、わかるだろ?」
「いや、それがわかんねえ。死んだ方がマシなときなんてないだろ」
俺は死んだ方がマシな状況をいくつかあげようと思った。借金で首が回らなくなるとか、事故で重い障害を追うとか、最悪の恋人を失うとか。しかしそんな例をあげても仕方がない。「ほら、死んだ方がマシなときはあるだろ」なんて納得させてどうするんだ。
「何もかもめんどくさくなって、すべてを終わらせたくなる。そういう気持ちになるんだ。これは生まれ持った性格なのかもしれない」
「そんな奴がライフル持ってちゃダメだろう」
「はは、その通りだな」
俺は力なく笑った。ライフルの所持条件は銃の中では特に厳しく、最も厳しい条件が「十年以上の散弾銃の所持」というもので、その他の条件の中に精神鑑定も含まれている。俺も所持許可証をもらうために、医者に診断書を書いてもらった。実際俺は診断上、精神的に問題がなかった。おそらくは今も。法的にはなんら問題がない。
男は俺から距離を取るように、何歩か歩いた。
「俺は悲しいと思うことなんてめったにないけど、自分で命を捨てる奴は悲しい。せめて死ぬなら、敵と撃ち合って死ぬのが良くないか?」
そして珍しく長く喋った。
「そりゃあな。でも敵なんていないだろ。都合よく道路で轢かれそうな子供がいて、身代わりで助けるなんてできたらいいけど……」
つまらない冗談だ。
「だいたい、何がそんなにつらいんだ。つらいことなんてなんもねーだろ。雪ばっか降ってるから、気持ちが暗くなんのか?」
「そうだな。それもあるかもな。人里離れた山小屋で、陰鬱な雪。希望のない生活」
「雪国はやっぱクソだな。冬が終わったら、南に行くわ」
「南? 沖縄でも行くのか?」
「そうだな。まずは東京を目指す」
まるで大学生の気ままな旅行みたいに話すが、奴の話しているのは逃亡生活の次の目標だった。しかしそれでも、俺には眩しく感じられた。
「うらやましいな。お前は悩みがなさそうで」
「そうだな」
「どうしたらそういう風に生きられるんだ?」
「は?」
何言ってるんだお前、という顔をした。
「お前はたぶんずっと普通だっただろ?」
「普通?」
「俺はずっと負け犬だった。その違いだろ」
「負け犬ってことはないだろ」
「いや、貧乏な家に生まれて、それだけで負け犬だよ」
はじめて見る悔しそうな顔をしながら、言葉を続けた。
「クソ親父が母さんに逃げられて、それから家は最悪になって、学校にも馴染めなくて、高校も中退した」
「それは……」
「お前は普通の家で、普通に学校も卒業して、普通に働いてるだろ」
男の言う普通は「恵まれている」という意味だったらしい。
「負け犬が普通になろうとしてるときはみじめだったよ」
ポツリと言った。
「ハローワーク行ったりさ。今の方が全然マシだな。気に入らない奴は全員殺したらいい」
言ってる内容は、必要な情報が抜けていて、きちんと理解できるものではなかった。本当に理解したければ、俺はもっと質問して、細かい情報を聞き出さなければならなかった。けれど今日の俺はそんな気持ちになれなかった。お互いに自分の中の思っていることをただぶつけるだけだった。
「普通の青年だったのが年を取って、負け犬の老人になろうとしてる。それがつらいんだろうか」
「俺にはお前のこと負け犬の年寄りには見えねーけどな。もっと終わってる年寄り、いっぱいいるだろ」
そう言って俺の手からライフルを取って、虚空に向かって撃った。
「それに負け犬でもなんでも、死んだ奴よりは上だろ」
そう呟いて、山道を歩いて行った。俺は慌てて立ち上がって、そりを持って後を追いかけた
(続)
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