真夜中の視線

松浦どれみ

押入れから

 まただ。

 暗がりの中、私は手探りでスマートフォンを掴んだ。薄青く画面が光り、室内をぼんやりと照らす。時刻は午前二時。


 この部屋に越してきてから三ヶ月。ほぼ毎日、深夜になるとなんとなく視線を感じていた。いつも決まって押し入れからだった。


 初めは気のせいと思い、布団をかぶって眠った。けれど最近は日増しに視線を強く感じ、眠ってやり過ごすこともできなくなってきた。


 私しか住んでいないワンルーム。視線からの逃げ場はない。


 引っ越しもできない。夫のDVで逃げるように離婚した私は、仕事も保証人もなく、役所に相談してやっと入居できたのがこの部屋だったのだから。


 翌朝。押入れを見ると、わずかに引き戸が開いていた。まるで誰かが片目で覗き込んでいたかのよう。私は生唾を飲み込んだ。


 閉め忘れでもない。押入れについては神経質になっていて、毎日寝る前に確認している。私は恐る恐る戸に手を伸ばした。


「なに、これ?」


 ほぼ何も入っていない押入れ。しかしその下段の角にあるものを見つけてしまった。


 そこには黒いクレヨンのようなもので書かれた「ごめんなさい」という文字。


 以前はなかったはず。

 私は近所に住む大家を訪ねた。


「やっぱり……」


 大家は七十代の女性だ。彼女は私を室内に招き、話を最後まで聞いた後、静かに語り始めた。


「実は、あの部屋は十年前に虐待の末育児放棄で亡くなった男の子が発見されているんです。もちろん全てリフォームしているけど、皆さんすぐに引っ越してしまうんですよ」

「でも、文字が書かれていたんです」

「その子の遺体の傍にありましたねえ、黒いクレヨンが」


 当時、遺体の第一発見者だったという大家は、そう言って涙ぐんでいた。


 帰宅後、いつも通り生活し床につく。やはり深夜に視線を感じた。

 例の男の子なのだろうか。

 自分と同じ、家族からの暴力という既視感。

 いつまでも狭い押入れに縛られるなんて可哀想だ。

 そんな同情心で私は起き上がり、押入れの戸を引く。


「おいで。もう、出てきていいんだよ」


 私は押入れの前にしゃがみ、下段に向かって優しく声をかけた。


『ママ!!』


 耳元で子供の声が聞こえた。

 ああ、これでこの子は解放される。

 そう思ったのも、束の間だった。


「ぐっ……!」


 突如襲う、息もできないほどの圧迫感。肋骨のあたりがゴキゴキと音を立てて襲いくる、強烈な痛み。酸素の代わりに血液が気管を満たす。


 私は彼の母親に対する愛憎の全てを受け止め、この部屋を去った——。


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真夜中の視線 松浦どれみ @doremi-m

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