エピローグ
第22話 ツバメ
日曜日の夕方、藍子は台所に
その音に驚いたのだろうか。ソファーから立ち上がり近寄った健吾が台所を見て、大きな声をあげた。
「何でこんなごちそうを作ってるの? クリスマスに食べたばかりだろ。それにその鍋にあるのインドカレー? 俺、インドカレーより普通のカレーの方がいいって前に言ったじゃないか」
優斗もゲームをやめて台所に来ると、作りかけの生地を見て歓声をあげた。
「もしかしてそれ、ナン? やったー! 俺はインドカレー好きだよ、お母さんとフードコートでよく食べたよね。家でも作れるんだ、すごい!」
藍子ははしゃぐ優斗を見て微笑んだ後、健吾に目を移した。
「今日は私の誕生日でしょ。だから私の好きな食べ物を作るの。今、オーブンに入ってるキッシュも健吾が嫌いだったからずっと作らなかったけれど、今日は特別。私の誕生日だから。ケーキもあるのよ」
藍子は最後の方は優斗を見てそう言うと、止めていた手をまた動かしてナン作りを続けた。
「そっか。今日、お母さんの誕生日だ。俺、なんか作ってくる!」
優斗はそう言うと、自分の部屋に走って行った。
バツが悪そうに立っている健吾の方は見ずに、藍子はそのまま話を続けた。
「そうそう、私、今年の正月は実家に顔を出すの、一週間位経ってからにしようと思ってるの。だから、健吾の実家にもう一泊できるけれどどうする?」
「え!? お姉さんとお
「そういうの、もうやめようと思ったの。そもそも子ども達を連れてハワイに行かないのがおかしいんだから。年末年始しかまとまった休みが取れないのに、子ども達がかわいそう。お母さんとお父さんも私をあてにして引き受けているんだから、断ればいいのよ」
穏やかではあるがどこか毅然とした口調で話す藍子の横顔を、健吾はまるで別人を見るかのようにしばらく見つめた後、
「そうか。分かった」
と呟いてリビングに戻って行った。
生地を
健吾の意向にそぐわないようなことは避けてきた藍子にとって、自分の希望を押し通すことは久しぶりである。
それに、姉の子ども達のことがなくても実家に行くのは気が重かった。心の底で蓋をしていた子供時代の苦しい記憶が
藍子は料理をする手を止めて、紅茶を一口飲んだ。
高尾山以来、マークとは連絡をしていない。恐らく、もう帰国したであろう。
藍子はざわざわする胸を沈めるように紅茶の香りを嗅ぐ。
両親はもはやあの頃の両親ではない。この感情とも自分で折り合いをつけなければならないだろう。時間がかかったとしても、それでいい。いずれ介護などの問題が発生したら自分のできる範囲で助ければいい。無理をする必要はないし、できないことに罪悪感を感じる必要もないのだ。
紅茶の香りを嗅いでいると、藍子は心が落ち着き、手の震えが少しおさまるように感じた。
*
三月下旬の良く晴れた金曜日。藍子は最後の出勤日を迎え、退職の挨拶をしていた。
「沢田さんがいなくなると寂しくなるわねぇ。最近はすっかり頼りにしていたものだから。来月からは市の図書館に勤務されるのよね」
藤木は感慨深そうにそう言うと、目を少しだけ潤ませた。
「はい、子どもたちに向けた読み聞かせのイベントがあるような小さな図書館なのですが。子どもと接する仕事がしたくて。みなさんにはたくさんご迷惑をおかけしたのに、優しくご指導して頂きまして感謝しています」
藍子がそう言うと、内山がその後の言葉を引きとるかのように、
「通信大学で司書の資格も取るつもりなんですよね。働きながらで大変だと思いますけれど、がんばってくださいね」
と言って、両手をグーにした。
その後、内山の母は癌の転移もなく、予後も良かったせいか、内山もすっかりいつも通りだ。
藍子は内山にありがとうと言ってお辞儀をしてから、穏やかな微笑みを浮かべて立っている館長に向けて再び深々とお辞儀をした。
トレンチコートを
ここに通うのも今日で終わりかと思うと、この一年間のさまざまな出来事が思い出された。
マークとはあれ以来連絡を取っていないが、思い出すことは度々ある。その都度、罪悪感とともに沸き起こる漆黒の渦潮のような感情に襲われる。
数ヶ月前、自分は夫や両親との関係で真綿で首を締めるかのように追い詰められていた。自分でも気づかぬうちに。その息苦しさの中で、手に入らぬ自由もしくはある種の自己破壊を求めたのだろうか。
藍子はそんなことを考えながら、マークがいつも座っていたベンチの前で立ち止まる。マークはここに座ってどんな景色を眺めていたのだろうか。
藍子はベンチの前にある
私は今も夫や両親との関係に息苦しさを抱えている。それは変わらない現実だ。でも、あの時と違うのは私の心だ。
お堀を見下ろす藍子の頭上を一羽のツバメが通り過ぎ、旋回した
(了)
青いつばめ 葵 春香 @haruka_p
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