第9話

 糠沢と同じように、二本松城下でも秋晴れの青空が広がり始めていた。どこからか鶏が啼く声が聞こえてきて、とても西軍が迫りつつあるとは思えない、長閑のどかな日常の始まりだった。

 妙は洗濯盥を庭先に出して、いつも通り洗濯の準備に取り掛かった。

「褒治。汚れ物を持っていらっしゃい。いつ二本松を出るかわからないのですから、今のうちに身綺麗にしておかなければなりませんよ」

 言いながら、ちくりと胸が痛んだ。夫が糠沢に向かった後間もなく、池ノ入東側に住む竹村藤兵衛がやってきた。長国公の姉君である麗性院様の御用聞きを勤めている男だったが、竹村によると、公の家族の避難が決まったという。そこで藩士の妻子もそれに同行させ、城下から退避させようというのだ。出発は明日明朝の予定。急な話だが、避難の心づもりをしておくように。避難が決まったら、合図の半鐘を打ち鳴らす。それだけを伝えると、竹村は慌ただしく姿を消した。

 だが、妙はこの後に及んでまだ迷いがあった。褒治を連れて逃げなければ、と思いつつ、米沢にだけは行きたくない。夫の願いを無碍にした、米沢だけは。

「母上。水を持ってきました」

 よろよろと、褒治が手桶を手にしてこちらへ歩いてくる。夫に似て、母思いの優しい息子なのだ。

「まあ。井戸は危ないから近寄ってはなりませんと、いつも申しているでしょうに」

 井戸の蓋は半開きにしかしていないとは言え、幼い息子が井戸に落ちたらひとたまりもない。だが、叱りつつも、内心は優しい息子が誇らしくて仕方がないのだ。

「仕方ないですね」

 やれやれと、息子が汲んできてくれた手桶の水を、ざばあっと洗濯盥に空けてそちらへ目をやった途端、妙は息を呑んだ。

 

 秋の碧天を背にして、夫の顔が映っている。その顔は、武士としての険しい顔ではなく、妙がよく知る、穏やかで優しげな男の顔だった。


 腰の力が抜けて、妙はへなへなとその場に座り込んだ。夫が死んだ。もう、妙も褒治も、二度とあの力強く優しい腕に抱かれることはない。

「母上……?」

 異変を察して恐る恐る近寄ってきた褒治を、妙は力一杯抱き締めた。腕の中の褒治の目元や口元は、夫にそっくりである。

「……これからは、そなたが笠間家の当主として頑張っていかなければなりませんよ」

 震える声で告げる母の声に、褒治も身を震わせた。

「父上は……?」

 幼い息子に告げるには、残酷な言葉だ。だが、誤魔化すことはできない。

「……父上は、糠沢で二本松の武士としてお亡くなりになりました」

 それを口にした途端、止めどもなく涙が溢れた。褒治も、弾けるように「わああ」と大声を上げて泣き出した。もしかしたら、この情勢では市之進の亡骸さえ二人の元に戻らないかもしれない。だが、二人は笠間の家の人間だ。どのような形であれ、笠間家の命脈をつないでいかなければならない。


 市之進が白岩塩之崎で戦死した翌々日、二本松は落城した。その前日、妙は褒治を連れて領外へ退避する一行に加わり、福島藩との境にある水原みずはらまで来たところで、背後の二本松の街が黒煙を上げているのを見た。

 城下に残った男たちの多くが戦死し、また、一部の者は各地に散って捲土重来を期したが、叶わなかった。白岩村の外れにある二ツ橋を守っていた横田伊織も、城下の総力戦で死んだ。

 水原では、多くの者らが悲嘆に暮れ、嘆き悲しみ、その場で腹を切って命を絶った者もいた。だが、水原で世話役の上役らが皆を励まし、「米沢へ向かう」と決めたのを聞いた瞬間、妙は心を決めた。

「私と息子は、米沢へは参りません」

「何を馬鹿な。女と幼子だけで、生き延びられると思うのか」

 世話役の老人が、苛立たし気に妙を叱った。逃避行の最中だというのに、二人の揉めている気配に、周りが好奇の眼差しを向ける。

「どうにかしてみせましょう。私も、二本松武士の妻ですから」

 その言葉に、老人が押し黙った。何か事情があると、察したらしい。

「……そなたの夫の名は?」

「笠間市之進でございます」

 凛とした声で、妙は答えた。その答えに、老人は「そうか」と呟いたのみだった。

 女である妙は、当然二本松の上役の顔は知らない。だが、老人は市之進に米沢への出張を命じた張本人、日野源太左衛門だった。

「こちらは、ご子息かな?」

 褒治の目の高さに腰を屈め、源太左衛門はじっとその顔を見つめた。子供には重いだろうに、褒治の両腕には、市之進の形見となった鷹山公伝来の刀が抱えられている。

「笠間褒治と申します」

 たどたどしくも、上役を相手に立派に返答してみせた息子に、妙は満足感を覚えた。息子も、父を喪った悲しみを乗り越えようとしているのだ。母たる自分も、もう泣き言は言うまい。


 きっと、貴方様の息子を一人前に育て上げてみせますから。それまでしばしお待ちくださいませ、褒様。


 心の中で亡き夫に呼びかけると、自然と口元に笑みが浮かんだ。その笑みを見て、源太左衛門も、妙を説得するのは無駄だと悟ったらしい。

「良い御子だ。大切に育てられよ」 

「畏まりまして、候」

 男のような返事をして、妙は源太左衛門に頭を下げた。この老人と会うことは、二度とないだろう。

 二人を取り囲む者たちの中には、城下の近所に住んでいた細君も多く含まれていた。まだ夫の行方が知れない者も、大勢いる。皆と一緒に米沢に避難する方が安全には違いなかったが、口々に二人を引き止める女や男たちを、妙は笑顔でいなし続けた。そして最後に「皆様、どうかお達者で」と告げると、くるりと一同に背を向けた。

 うろ覚えではあるが、確か福島町には笠間家の親戚がいたはずだ。まずは、そこを訪ねてみよう。

 何年も前に、夫と二人の寝床で寝物語に聞いた話を思い出しながら、妙は息子と共に、米沢とは逆方向にある福島町を目指して歩き始めた――。


 ――その後、妙と褒治は福島に移り住んだ。暦が明治に変わって領内外に避難していた人々が城下に戻り、風花が舞い始めた頃、妙と褒治は家財道具を取りに来るために、ひっそりと二本松を訪れた。

 案の定、笠間家の家財道具は暴徒の略奪に遭い、鍵付きの家財箪笥は鍵を壊されて、中の物が無くなっていた。だが、妙はその箪笥を福島町に持ち帰ることに決めていた。少しでも、市之進の面影が感じられるものを、手元に置きたい。それが今の妙と褒治の願いだった。

 福島から運んできた大八車に壊れた箪笥を乗せ、手伝いの車夫を宥めすかしていると、どこからともなく、なあ、と鳴き声を上げて猫が擦り寄ってきた。

「珠!」

 褒治が、ぱっと笑った。

「どこに行っていたんだよう。お前はいつも気紛れなんだから」

 珠も突然姿を消した主らに、不安を感じていたのだろうか。褒治が抱き上げても嫌がろうとせず、それどころか、ざりざりとした舌で犬のように褒治の頬を舐め続けている。

 あれから褒治は子供らしく笑うこともなく、ずっと強張った顔をして過ごし、焼いたかぼちゃばかりという粗末な食事も、黙って口に運んでいた。だが、久しぶりに年相応の笑顔を作った息子を見て、妙の口元も緩んだ。

「その猫も、連れて行くんですかい?」

 車夫が、呆れたように妙に問いかけた。

「ええ。亡き主人も、大層可愛がっていた子ですから」

 やれやれと、車夫が肩を竦めた。

「まあ、畜生の分のお車代までは取りませんよ」

 ふふっと、妙は笑った。きっと、市之進が生きていても、珠を連れていくことに賛成しただろう。人間は勿論のこと、猫やその辺りの生き物に対しても情の深い夫だったから。


 ――時代が下り、笠間家に伝えられた鷹山公伝来の大小は、惜しいことに、大東亜戦争の金属供出に出されてしまったという。だが、妙が二本松から持ち帰った箪笥は、令和になった現在でも、福島市で大切に保管されているとのことである。

 戊辰戦後の混乱を経て、二本松藩の悲劇をおおっぴらに語るのが憚られたのは、地元では広く知られるところである。そのためか、笠間市之進が白沢村(現本宮市)の金礼寺に埋葬されているのを子孫が知ったのは、間もなく平成も終わろうという時代のことだった。

 長い年月を経て、市之進と妙が福島市の某寺院でようやく一緒になれたのは、ごく近年のことであるという。

 笠間かさま市之進いちのしんひろし、慶応四年七月二十七日没。享年四十二歳。戒名、賢教院明誉義秀居士。


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白露~或る二本松藩士の物語 篠川翠 @K_Maru027

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