第8話

 庭のどこからか、鈴虫や蟋蟀こおろぎの声が聞こえてくる。すっかり秋だな、ととりとめのないことを思いながら、市之進は夕餉の膳に箸をつけた。このところ秋めいてきて、昼間はともかく、朝晩はやや肌寒さを覚えるくらいだった。

「笠間様。御酒をつけましょうか」

 紋四郎の言葉に、市之進は首を振った。皆の景気づけに、という気遣いは有り難いが、いつ西軍が攻めてくるかわからない状況で、酒気は禁物だった。戦いの効率が著しく落ちるのは勿論だが、酔って騒がれては困る。

「見張りの者らにも、できるだけ物音を立てさせるな」

 市之進の言葉に、紋四郎が頭を下げた。

 だが、篝火のパチパチと爆ぜる音と虫のすだく声が混じり合った音は、とろとろと心地よい眠気を誘った。どうも、緊張続きで疲労が溜まっているようである。

 屋敷のある小山の眼下には田畑の闇が広がるばかりだが、それらを窓の隙間から眺めているうちに、浅い眠りに入っていたらしい。

 夢の中で、ターン、ターンと銃声を聞いた気がした。その銃声に、はっと目覚めて目を見開く。

(夢の中においてまで、戦か)

 そう自嘲した刹那、馬の嘶きが聞こえた。がばりと身を起こし、音を立てて雨戸を開けた。そこには使者らしき男が片膝を立てて、市之進らを待っていた。

「申し上げます!二ツ橋、三春より襲撃されました」

 庭先で大声で報告しているのは、見慣れぬ若者だった。

「まことか」

 傍らで応じている栗生の声に、緊張が走った。

「詳しく申せ」

「はっ!」

 若者は、横田伊織の家人だった。聞くところによると、松沢の三瓶金十郎が胡乱の者を目に止めて誰何したところ、返答がなかった。そのため、金十郎は指示通りにこの者を斬り捨てたところ、斬られた者は今際いまわの断末魔を上げ、それが合図だったかのように、一斉に二ツ橋が銃撃されたというのである。先程の銃声は、市之進の夢の中での出来事ではなく、半里ほど離れたこの土地まで聞こえてきた、現実だったのだ。

「戦死者は」

「松沢の三瓶金十郎と、長屋の菅野すげの甚之丞じんのじょう。他に、負傷者数名」

 皆、先日まで農兵として市之進が鍛え上げていた者たちだった。思わず、唇を噛む。

「敵を確かめたか」

「どうも、薩摩兵と土佐兵が中心のようです」

「わかった」

 先程までの眠気はすっかり吹き飛び、市之進も意味もなく身につけたままの具足を締め直した。まだ外は宵闇が広がっている。時刻は日付が変わったくらいではないか。

「二ツ橋から来ましたな」

 栗生が、居間の合議用の机に広げられたままの糠沢組の地図を、睨みつけた。真夜中ではあるが、外で焚かれている篝火のために、室内は思いの外明るい。

「いや、まだこれで終わりではなかろう」

 市之進も、荒々しく息をつきながら答えた。その指は、丹伊田にいだに置かれている。

「三春城下からは、こちらから向かってくる方がこの塩之崎には近い。道もこちらの方が整っているしな」

 その道を行き来していたのはつい最近のことだったと、市之進は皮肉な笑みを浮かべた。

「二ツ橋からは南北両道を西進し、さらに三春から二本松への街道を一気に駆けてくる、と」

 小野にいた与兵衛隊が破れたと報告が入ったのが、今朝の話だ。そこからわずかに息をついただけで、西軍はあっという間に二本松の喉輪まで迫った。真夜中の襲撃など、どう考えても三春の嚮導きょうどう役、それも土地の人間がいなければ無理である。地理的に考えて、七草木や御祭の農民らが嚮導役を勤めたのだろう。それほどに、入り組んだ目立たない道を選んで、西軍は進軍してきた。

(三春め……)

 憎悪の感情が膨れ上がるのは、どうにも抑えられなかった。

「申し上げます!」

 今度は、西の方から別の伝令が根本家の敷地に駆け込んできた。

「城之内番所、西軍数百名にて襲撃され、三十戸余りが焼かれた由!」

 市之進の顔に、つと血が上った。慌てて外に出て二本松方面の様子を伺うと、確かに真夜中にも関わらず、西の方の空が真っ赤に焼けている。樽井隊は、それなりに防戦の準備は整えていた。だが、真夜中の襲撃を防ぎきれなかったのは、どうしたわけか。隣人への情を捨てきれなかったのか、油断があったのか。事情は定かではないが、とにかく三番組本隊も壊滅したのは間違いなかった。

「どうされる、市之進殿」

 栗生はじっと市之進を見つめた。恐らく樽井は、残存兵力を建て直すために二本松へ引き返すだろう。二ツ橋の横田も、もしかしたら二本松へ報告するために馬を飛ばしたかもしれない。だが、市之進は違う。

「糠沢組の代官が糠沢の民を見捨てたら、末代までの恥。西の賊共に、二本松の意地を見せてもよかろう」

 市之進はそう言って、笑ってみせた。

「承知。拙者も付き合おう」

 栗生も笑った。

 やがて七つ時(午前四時)、早暁の曙光の中で薩摩十字と三つ葉柏の旗印が、ちらほらと見え始めた。

 恐怖に耐えかねたのだろう。市之進が指令を下す前に、誰かが火縄銃の引き金に指をかけ、ダアンという音が鳴り響いた。それを待っていたかのように、嶽山の向こうから、西軍が吶喊とっかんしてくる。その数は、こちらの数十倍はあるのではないか。たちまち、辺りは銃弾が飛び交い始め、阿鼻叫喚の地獄絵の様相を呈し始めた。市之進も予め支給されていた最新式のミニエー銃を手にして、搠杖さくじょうを使って手早く銃口から弾を押し込めつつ、撃ち返した。常州騒乱で銃撃戦を経験して以来、市之進の中では銃も立派な武器である。引き金を引くと、いくつかの黒い陰が慌てて木陰に身を隠すのが、見えた。

 だが、いくらこちらが農兵を訓練したとはいえ、とても西軍の正規兵に叶うものではない。

 一体日頃からどのような訓練をしているのかと呆れるほどに、西軍の銃撃は正確だった。おまけに戦闘開始から一刻ほどもすると、市之進が危惧したように、丹伊田方面からも新手の兵が姿を見せた。

「どうにも、まどろっこしいな」

 忌々し気に、栗生が舌打ちした。その手にはもはや銃ではなく、刀が握られている。手は銃身の熱で真っ赤になっており、手持ちの弾の残りも尽きようとしているようだった。

「御先に参る」

 一言告げると、栗生はすっと目を細めて、丘の下へ駆け出した。朝日を浴びて、白刃がきらきらと光る。まるで獣のような白刃が、駆け抜けざまに西軍兵の胴を払うのを、市之進は確かに見た。

(一つ、二つ……)

 剣術師範の腕を持つ市之進ですら惚れ惚れするような、見事な居合である。だが、それも三つまで数えたところで、栗生の体に銃弾がめり込み、栗生が倒れるのが見えた。

 市之進の頭上でも、絶え間なく銃弾が飛んでいる。自分もあわよくばあの土佐兵の中に斬り込んでいきたいが、雨霰の如く銃弾が飛んでくる状況の中で、顔を上げることすらできない。

 思い切って天を見上げると、皮肉なことに、青空が見え始めている。今日も秋晴れの、天気の良い一日となりそうだった。きっと妙は、褒治の汚してきた泥だらけの着物を洗濯盥に入れて力いっぱい洗うのだろう。妙の側には珠がいて、庭の草むらに隠れている飛蝗ばった蜻蛉とんぼにちょっかいを出して遊ぶに違いない。そして、その珠をまたしても褒治が追いかけ回す。そんな場違いの光景を想像して、ふっと心が和んだ。

「笠間様。何が可笑しいので?」

 不審そうに、林右衛門がその顔を覗き込んだ。

「笑っていたか?」

「はい」

 明け方からの激戦に、刹那、緊張が緩んだのだろうか。市之進は慌てて顔を引き締めた。

 そこへ、屋敷の裏手から一人の女が両手に大荷物を抱えてやってきた。どうやら、陣中に昼餉となる握り飯を差し入れにきたようである。

「わき、こっちだ」

 林右衛門が、思わず、というようにその右手を上げた途端、林右衛門の体が弾かれた。野良着の胸から鮮血が吹き出し、そのまま地面を朱に染めた。

「あんた!」

 わきが握り飯を放り出し、こちらへ駆けてくる。

「馬鹿!来るな!」

 市之進が怒鳴りつけると同時に、わきの体にも銃弾の雨が降り注いだ。二本松藩唯一の女性の戦死者として、彼女の名は後世に伝えられることになる。

 目の前で絶命したわきが、それまで冷静に戦況を見極めようとしていた市之進の理性を狂わせた。咄嗟に右手に刀を握り、抜身を引っ下げて市之進は駆け出した。銃弾の雨の中を掻い潜り、土佐藩の陣営に接近する。耳元でヒュウヒュウと銃弾の飛ぶ音が鳴っており、背後では誰かが叫んでいる。だが、構わなかった。

 不意に、顎の辺りに熱い衝撃が走った。口の中一杯に、鉄臭い味が広がる。思わずよろけたその体に、更にに衝撃がまた一つ、二つと襲いかかる。

 地面にもんどり打って、ようやく自分の顎が撃ち砕かれ、さらに止めの銃弾を打ち込まれたのだと気付いた。

 急激に体から生気が抜けていくのが分かるのが、自分でも不思議だった。先程、目の前で死んだ女は、他人の妻だ。だが、それでも市之進の目には、わきが妙の姿に重なったのだった。

(妙……)

 たとえ妙がどのような姿になっても、自分は妙と再び巡り合うまで、あの世で待ち続けよう。それが、今生の別れで妙が口にした願いだったのだから。

 もはや、目を開けている力すら残されていない。市之進は無意識のうちに、静かに目を閉じた。


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