恋心の葬列
石田空
1
勉強は苦手だった。
暗記は全然覚えられないし、数字の羅列にはなんの意味があるのかわからないし。
私があまりに勉強ができないものだから、周りは頭が悪いんだと思って匙を投げたものの、母が見かねて読んできた家庭教師の宏さんだけは様子が違った。
「つまり、なずちゃんはこれがどうしてこうなるのか納得できないから、覚えられないんだね?」
宏さんは、私があまりに出来が悪いのを、小テストを何種類かさせてみせて気付いたのだ。
私は国語や日本史だと成績がそこまで悪くなく、暗記もできていることに。そこをつついて、私の興味を広げてくれた。
化学記号を覚えきれない私に、その化学記号を考案した人の伝記やエピソードを見せてくれて、それとセットで覚えるようにさせてくれたり。
数学の計算ができると便利な例を、製図や採寸で見せてくれたり。
宏さんがしたことは、一見すると全然意味がないように見えたかもしれないけれど、私の中では革命だった。
どの勉強にもなにかしらの意味があるとわかったら自然と覚えられるようになり、勉強もできるようになってくる。なによりも勉強ができるようになると、物事の意図が見えるようになってきたのが面白かった。
私が高校受験に成功した頃、宏さんはにっこりと笑った。
「よかった。なずちゃんが合格できて。これで俺も安心して家庭教師辞められるね」
そう言われて、私は思わず「ええ?」と言った。
宏さんは私の反応に、困ったように笑った。
「俺、もうすぐ就職活動するんだ」
私にとって大学生活ってものすごく長くて自由だと思っていたので、衝撃が走った。
今思うと当たり前だった、大学を卒業したあとは、働かなくてはいけないと、中学を卒業する間際の小娘には気付きようがなかったのだ。
そしてその衝撃で、私は気付いた。
私、宏さんのことが好きだったのだと。
それでも、それを言う勇気はこれっぽっちもなかった。
中学生と大学生だし。頭が悪いと思い込んでいた時期が長過ぎて、最後の試験で学年一位になったときでも、長年培ってきたコンプレックスが早々に払拭できる訳もなく、頭の悪い中学生に付きまとわれる大学生は可哀想だと、そのときは思ってしまったのだ。
付きまとえばよかった。迷惑な中学生として粘着質に付きまとえば、最悪な形で自分の恋の葬式に参加せずに済んだのにと、今は後悔している。
****
私が高校三年生になった頃、私はどうにか大学の推薦入学を決めた。過酷な受験勉強を思えば、どうにか落ち着いた最後の高校生活を送れると思っていたら、突然お姉ちゃんの食事会に招待された。
就職で家を出ていたお姉ちゃん主催の食事会に、気のせいかお母さんはそわそわし、お父さんはむっつりと黙り込んでいた。
内容自体は詳しくは聞かなかったけれど、これはお姉ちゃんの婚約が決まったんだろうと察することができた。
「お姉ちゃんもまさかすぐに結婚が決まるなんて思わなかったけどねえ」
「ふーん」
一番いいワンピースを用意して、私は両親と一緒に食事会に行く。お姉ちゃんはいつになく綺麗な格好をしていた。そして、そこでスーツ姿で立っていた人に目が留まる。
私の顔を発見したその人は、ふっと笑った。
「やあ、久しぶり、なずちゃん」
「……宏先生」
思わず息を飲んでいたら、お母さんとお姉ちゃんが結婚の話題に花が咲く。
「あらぁ、すずなの婚約者は宏先生でしたかぁ」
「まさか驚いたのよ、なずの家庭教師していたのが宏さんだったなんて」
ふたりの会話を聞きながらも、宏さんは私に懐かし気に話しかけてくる。
「そういえばなずちゃんはそろそろ大学受験の季節だったと思うけど、食事会に来て大丈夫だった?」
「いえ……私、もう推薦入学で大学受験終えたんで」
「よかった。勉強楽しいみたいで」
「はい……」
それから先、食事会で今まで行ったこともないフランス料理の店に出かけ、食べたことのないような料理をたくさん出された。
大人連中はワインを出されて上機嫌に酔っぱらっていたけれど、多分高いものなんだろうけれど、私ひとりが醒めきってしまっておいしく食べることができなかった。
食事会が終わり、別れる前にお母さんとお姉ちゃんがトイレに行っている間、待たされていた私は宏さんに話しかけた。
「お姉ちゃんとはどこで会ったの?」
「すずなさん? 俺の職場の取引先の人。一緒に仕事することが増えて、そこでだなあ。まさかすずなさんがなずちゃんのお姉さんとは思わなかったけど」
「ふーん……おめでとう」
ここで駄々をこねたら。ここで告白をしたら。
お姉ちゃんの婚約をぶち壊すことができる。宏さんを取られなくって済む。
どこかでそういう気持ちが揺れ動くけれど、いくらなんでもそれは駄目だよなあと思いとどまる。
宏さんからしてみたら、私はバイト先の元教え子で、婚約者の妹。それだけの関係。なんの気持ちも沸かないから、これだけ普通に接することができるんだ。なにかひとつでもなにかあるんだったら、距離を取っているはず。
私のほうが先に好きだったのに。
もっと子供だったら、駄々をこねてちゃぶ台返しをしていたかもしれないけれど。私にはそれができなかった。
お姉ちゃんの結婚式は来年。それに参加してから、家を出よう。
誰にも言えないままで、私は静かに自分の恋心に薪をくべた。
こんな恋、言える訳がない。
はじまる前に、終わっていた。
<了>
恋心の葬列 石田空 @soraisida
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