最終話 われ想う、ゆえに

 窓の向こうには自由があった。

 打ち付ける雨の中、誰にも縛られることなく曇天の空を舞う一羽の白い鳥。あの鳥は一体何を目指しているのか。そうしなければいけない理由があるのか、それともそうありたいのか。


 飛んでいく自由を追いかける。

 邪魔するものはもういない。


◇ ◇ ◇


 目が覚めると、窓から差し込む陽の光がうつろな目を刺すように照り付け、おぼろげな視界がさらにぼんやりと滲んだ。目を擦って見通しが良くなるのを待っていると、下の方からわたしを呼ぶ声がして、その後直ぐに部屋の扉が開かれた。

 開いた扉の先には、ぶすっとした顔で仁王立ちするわたしに似た大人びた女性の姿が。お姉ちゃんだ、パリッとしたスーツを着こなして既に仕事へ行く準備は終えているようだった。


「朝だよ、早く起きないと遅刻――って、アンタ珍しいわね。もう起きてるなんて」

「え、うんごめんお姉ちゃん。ちょっと――」

「さ、さっさと準備しなさい。言って始業式まであと二時間もないんだから」


 そう言われて自分の状況を確かめる。よれたパジャマで髪もボサボサ、とても人様の前に立てるような容姿はしていない。これはマズいと思って机の上に載せた鏡とにらめっこしながら肩まで伸びた髪に櫛を通す。高校生活初日にしてズボラ扱いなんてされたくない、化粧だってこの日の為に猛勉強してきたのだから。


「ちょっと、大丈夫ぅ? ぼうっとしてたら置いていくわよ」

「ごめん、もうちょっと待って!!」


 急いでパジャマを脱いで制服に袖を通す。セーラー服と紺のスカート、無難ながらも野暮ったくもないのでちょうどいい可愛らしさ。やっと着れると嬉しさを噛みしめながら身支度を整えて、そのまま二階の自室から飛び出した。

 急かされるように慌てて家を出ようとすると、リビングでお父さんとお母さんが団らんしている姿が映った。


「おはよう!」

「おはよう。似合ってるわね」

「大きくなったな」

「ずっと、いっしょにいるでしょ?」

「そうだけど、そう思うんだよ。な?」

「ええ」


 二人とも似合ってると言ってくれた。それがとても誇らしかった。


「行くわよ」

「うん」


 新調したローファーを履いて、お姉ちゃんが開けてくれた玄関を通り抜ける。その先には、水色と白の絵の具で塗りつぶしたような青い空が広がっていた。カラカラとした空気が妙に心地よくて浮足立つわたしに、隣でお姉ちゃんが「子供ね」と言って、くつくつと笑っていた。


 ここから始まるんだ。何かはわからないけど、そんな気がしたんだ。

 閑静な住宅街に住んでいるせいか、通学中に人と出会うこともなく、ツカツカとハイヒールが地面を叩く音がこだまする。それが大人っぽくて羨ましかったので、ローファーのかかとで地面を蹴ってみると、ガスって音しか出なくてお姉ちゃんから白い目で見られた。まだ大人になるには早いらしい。

 とはいえ、子供っぽさが全面に出るのも恥ずかしい。それを取り繕うために、お姉ちゃんにある話題を振ってみた。


「なんかねえ、夢を見たんだ」

「へえ、どんな?」

「狭い部屋に閉じ込められてさ、外に出る方法もなかったからずっと窓から雨模様を眺めてるの。それが毎日毎日続いて」

「何よそれ、メチャクチャつまんなそう」

「うん、もの凄くつまんなかった。早く外に出たくてしょうがなかったもの」

「そっか。それが今の有頂天と何か関係があるの?」

「え?」

「アンタ、さっきまで鼻歌歌ってたわよ」


 いたずらが成功したみたくしたり顔なお姉ちゃん。そう言われて顔が熱くなったわたしは恥ずかしさを紛らわすように歩くペースを上げた。この十字路を抜ければ学校が見えてくる、あそこまで行けば浮ついた子供心も落ち着く気がしたんだ。


「危ないわよ、そんな急いじゃ」

「大丈夫だって。もう子供じゃないんだから」

「ちょっと、前見て前!!」

「え?」


 我ながら不注意だと思った時には、もう体は道路に飛び出していた。

 死角から現れた一台のトラックが、ゆっくりとこちらに迫ってくる。後ろに下がろうとしたけれど自分の体だけスローモーションになったみたいで、少しずつ目の前がトラックでいっぱいになる。色々な思い出が頭に過っては消えるのに、死ぬという恐怖だけはより鮮明になった。


 ごめんお姉ちゃん、わたしやっぱりまだ子供みたい。


 もうだめだ。頭の中がそれでいっぱいになった時、何かがわたしを後ろに突き飛ばした。直後、クラクションの甲高い音が耳を貫いて、すぐに男の人の怒鳴り声を出して来た。それをお姉ちゃんが謝罪で取りなすと、すぐにわたしの元に駆け寄って抱きしめた。


「何てことするの!!」

「ご、ごめん……」


 目の前の情報で頭がいっぱいになる中、誰かがわたしの目線を覗き込むようにしゃがんで来た。


「大丈夫ですか?」

「え?」


 その人は男の人だった。わたしとお姉ちゃんを道路際の歩道まで誘導して、お姉ちゃんと一緒に放心していたわたしを介抱してくれた。そのお陰で自我をとりもどしたはいいものの、腹の底から沸いて来た死への恐怖に耐えきれずぽろぽろと涙が零れた。


「もう大丈夫だから」諭されるように彼に都度そう言われたおかげか、恐怖も少しずつゆっくりと取り払われていった。体の芯が暖まるような不思議な気持ちだった。


 しばらくして、わたしも安定を取り戻したので改めて男の人にお礼を言った。どうやらわたしと同じ学校の制服を着ているようだ。外国から来たのだろうか、雪のように白い肌とシュッとした鼻筋、くっきりした目元が凄く印象的だった。

 彼は立ち上がると、よかったら一緒に行ってもいいですかとお姉ちゃんとわたしに頼んできた。わたし達は二つ返事で彼のお願いに承諾した。


「僕、最近ここに越してきたばかりなんですよ」


 どうやら彼は先月までヨーロッパのとある国に住んでいたが、家族の転勤の都合で日本に来ることになっていたらしい。日本語お上手ですね、と言うと照れくさそうに笑って子供の頃住んでいたんですと教えてくれた。

 彼はそれからいくつか身の上話をしてくれた。元々日本に住んでいたが家族の転勤で一度ヨーロッパに離れたこと、この付近に住んでいたこともあって今回が二回目になること、久しぶりの日本生活に緊張していること。おそらく少しでもさっきの出来事からわたし達を解放したかったのだろう。自分だって危なかったというのに本当に出来た人だと思った。


 震えている彼の手が目に入るまでは。


「え」

「無理しないでください」


 両手で彼の手を包み込むと、彼は目を見開いてすぐ観念したように笑みを浮かべた。


「かっこつけたかったんですけどね」

「大丈夫です、十分格好良かったです」


 隣でお姉ちゃんがニヤニヤしているがどうでも良かった。とにかくこの命の恩人が気を楽にしてくれればそれでよかった。そしてもう一つ大事なことに気付く。


「あ、学校」


 スマホで時刻を確かめる。もう九時半、入学式はとっくに始まっている時間。はあ、と溜息がこぼれ男の人にすみませんと頭を何度も下げた。しまらないわたしにがっかりしていると、男の人は慌てたように顔を上げてくださいと言いながら自分よりも取り乱していた。

 そんな彼の姿と助けてくれた時のギャップが面白くて、つい腹を抱えて笑ってしまった。


「あ、あの?」

「いえ、すみません。ちょっと何だかかわいいなあって」


 バツが悪そうに頭をかくわたしよりもずっと背の高い彼。自分よりもずっと大人っぽいのにどうしてかかわいく見えて仕方がなかった。


「あらあらまあまあ」

「どうしたの、お姉ちゃん? そんなニヤニヤして」

「若いって、良いですなあ」


 ひょうひょうとしながら先を歩くお姉ちゃんに、わたしと彼は意味が分からずお互いに首を傾ける。それがシンクロしたように同じタイミングでそうしたもんだから、また面白くなって笑いが込み上げてしまった。それにつられたのか、彼も同じようにくつくつと笑って体を震わせた。


 お互いに笑って、笑い疲れて、わたしは彼の横に立つ。そして、前を向く。


「綺麗ですね、この景色」

「僕もそう思います」


 快晴の下に広がるのは、一本道を囲うように伸びた桜の木々たちが風になびく姿。わたし達を歓迎するようにたくさんの花びらが風に乗って宙の上で踊っていた。その景色に見惚れていると、彼はバッグから一冊の本を取り出した。


「それは?」

「絵日記みたいなものです。綺麗だなって思った景色をこうして本に書き込んでいるんです。色とかは家に帰って塗ってるんですけどね」


 さらっと書き上げると、また本を懐にしまおうとしたので、慌てて見せてくださいと頼み込む。困惑したように断る素振りを見せたが「お願いします!!」と深く頭を下げると、観念したようにどうぞと言って本を手渡してくれた。


「絵、凄く綺麗ですね!!」

「そんなことないですよ、まだ修行中の身で」

「そんな謙遜しなくてもいいじゃないですか、やっぱ綺麗ですって!!」


 また照れくさそうにするので、本当だのにと思いながらページを次々と捲る。そして、手を止めてしまった。そこには一枚の女性の姿が描かれていた。


「これは?」

「あー、それは……その」


 髪を肩まで伸ばしたセーラー服の少女。見返り際にこちらへ振り向き満面の笑みを浮かべている、そんな視点を描き止めたようなモノクロの一枚。


「綺麗な人ですね」

「あ、ありがとうございます」


 いいなあ、羨ましいなあ。とか子供染みた考えが頭に過って、いやいやと頭を振ってかき消してみる。が、やっぱり駄目なものは駄目で。


「わたしも描いてくれます?」

「え?」

「わたしも描いて欲しいです!!」

「は、はい。わかりました」

「この人よりもずっと綺麗に描いてくださいっ。あ、あと!!」

「は、はいなんでしょう?」

「名前、教えてもらえますか?」

「え?」

「わたし、我妻あがつま あいって言います。貴方の名前は!?」


 そう口走ってまた我に返る。本当に何をやってるんだと思った。しかし、彼はほんの少し動揺を見せた後、やさしく笑みを浮かべて答えてくれた。


「トマス、トマス・ヴァーミリオンと申します。宜しくお願いします」


 終

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われ想う、ゆえに 木戸陣之助 @bokuninjin

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