第8話 かれ想う、ゆえに

「わたしは、貴方を救いたかったのね」


 全てがストンと腑に落ちた。

『わたし』達は彼を救うために生まれた。その為だけにこの世界を与えられ、彼の理想を体言してきた。彼は現実を受け入れようとしない、だから彼は『わたし』をこの狭い部屋に閉じ込めた。仮初の世界の住人とずっと一緒にいようとした。


 どうして『わたし』は外に出たいと願ったか。

 本当に彼を思っていたんだ、これ以上危ない目に遭ってほしくない。今すぐにでも隣に行って彼を支えたい。ひとりで堕ちていく彼に対する『わたし』なりの精一杯の抵抗だったんだ。


 それはつまり、本当の意味で彼が前を向いて歩き始めたなら、『わたし』という存在は不要となる。この部屋は彼がずっとこの場所に居たいから、過去や妄想に浸っていたいから作られた。

 役目を終えればきっとこの悲劇は終わる。

『わたし』は彼の元へ行くことを望んでいない、だからこの部屋からは絶対に出られない。


「あー、すっきりした」


 ずっと付けられていた枷が外れたような解放感。

 悲しくなんてない、後は貴方を救うだけだ。


「生きなさい」

『え?』

「死にたくなる程の後悔を受け入れ、自分の罪にケジメを付けた。貴方はもうひとりで生きていける」

『それじゃあダメなんだ。だって僕は何一つ罰を受けてないのだから』

「泥水をすすっている事にも気づかず、汚い自分を認めたくが無いために汚れてしまった貴方。それでも綺麗になろうと全てを捨て、許しをうたなら、神は貴方を許してくれるでしょう」

『嫌だ。僕は汚くてもいいっ。この手が血だらけになっても、僕はずっと君と一緒にいたい。独りは嫌なんだ。ずっと独りはっ……!!』

「貴方はもう独りで生きていける。そこで本当に好きな人と出会って、好きなように生きていいの」


 天啓でも与えている気分だった。皮肉だよね、わたしは所詮人の模造品だ。誰かの為に作られた道具だ。そんなものは嫌なのに、自分というルーツがそれを否定してくれない。本当は嫌な筈なのに、わたしはそれを全うしようとしているんだ。


「生きなさい、わたしの分まで」

『そんなこと望んでない、君の為だったら僕はいくらでも汚れる。どんな身になったって君を生かす覚悟がこの僕にはある。全ての罪はこの僕に――』


 自由を求めた人もいた。

 満たされたいと願った人もいた。

 恐怖に奮えても生を追い求める人もいた。

 愛されたいと願った人もいた。

 愛そうとした人もいた。


「わたしはね、誰かを愛してみたかったの。好きな人の隣にいて、好きな人と同じ景色を見たい。欲を言えばキスをして一つになりたかった。でもそれはわたしに与えられた役割じゃなかった」

『そんな事あるもんか。僕は君を愛している、これからだって君と同じ人生を歩きたい!!』

「『誰か』を選べる自由がない、けれどそれで良かった。そんな自由が無かったとしても、大好きな人の隣に立って笑えたならそれだけで幸せだと思ったのね」

『僕が君の世界に行けばいい!! 僕が君と一緒に――』


 べしゃ、と水溜りを叩くような音がした。しゃくり上げるような声が残響となって消える。悲しいって、辛いってわかっているのに。もっと薄情だったらよかったのに。それでも『わたし』はひとりでに役目を果たそうとする。


「どれだけの人が夢破れても、どれだけの人が居なくなっても、わたしはこの世界に一人だった。全ては貴方のため、だからこの世界は貴方がいることを許しはしない」


 今もこうして雨は降り続けている。夜になってもうっすらと見える曇り空。不思議かな、まるで泣いているように見えた。泣くことも許されないわたしの代わりに泣いてくれている。

 最後の最後に彩りを取り戻してくれたのか。まるで次への後押しをしてくれているようで、ほんの少しだけこの世界を好きになりそうだ。全部遅いけどね。


 怖くなんてない、もう一度思い出せばいい。わたしは空っぽを知っているのだから。


「生きなさい」

『嫌だ、もう嫌なんだぼくは』

「生きなさい」

『独りになりたくない、もう誰かに指を差されて、誰かに腰抜け呼ばわりされて、生きる価値がないと馬鹿にされ続けるのは嫌なんだッ』

「貴方は数えきれない程の命を殺した。二度と腕が動かなくなっても、足が動かなくなっても、あらゆる手段を全て使って、貴方はこの物語を終わらせる義務がある」


 わたしを殺すことが彼の使命なのだ。これ以上の犠牲を生まない為にも、彼が彼を傷付けない為にも、在るべき場所に魂が宿る為にも、一刻も早くこの世界を終わらさなければならない。

 だって、苦しくないのがずっと苦しいから。


「貴方がこうして現実を否定し続ける限り、新しい命が宿り、その度に燃え尽きるでしょう。そうやって何も知らず、ただ運命に身を委ねるだけの犠牲をまだ増やしたいの?」


 もっと早く気づいていれば、もっと早く今の貴方に出会えたら、いくつものたらればが頭によぎっては消えていく。そんなもの幻想だ、結局誰かの夢の中でしか生きられないわたしには不要な長物だ。この痛みもきっと幻だ、だから――


「は、はは。何で、何でこんな時に限って」

『……泣いているのかい?』

「そんな訳ない。わたしは貴方が嫌い、二度と会えなくなってせいせいするんだ。わたし達を殺した殺人鬼なんだ。ああ、だから早く前に進めって言ってよわたし。どうして、どうしてこの期に及んで――」


 生きたいと願ってしまうのか。


「お願い、早く殺して」

『駄目だ。君は死ぬべき人間じゃない』

「お願い、もう誰かを憎むのは、自分が嫌いになるのは嫌なの」

『僕だって同じだ、もう誰かが目の前で犠牲になるなんてこりごりだ。これ以上、自分を嫌いになりたくない』

「もう嫌なの、自分が自分じゃ無くなるみたいで。怖いの」

『わかってる、わかってるよ。そんなの僕だって同じだ――だから』


 わたしは所詮幻想、いらなくなったら消える。そういう運命だと『わたし』は割り切っていたじゃないか。


 それなのに。

 ああ、どうしてわたしは。


「消えたくない、消えたくないよ」

『僕が迎えに行く。どんな手を使ってでも』


 ありもしない希望を求めてしまうのか。


『散々僕は君の命を奪ってきた、当然償いになるとは思わない。けどこれから先、君がずっとひとりで悲しい思いをする必要なんてない。僕が君を生んだんだ、僕には君を幸せにする義務がある。だから僕が必ず迎えに行く。たとえ君が僕を憎んだとしても、手を振り払ったとしても、必ず君の見た事ない景色を見せてあげる』


 所詮言葉だ。どれだけ綺麗な言葉を並べた所で気が変われば只のゴミだ。

 理性は問う、散々『わたし』を殺した彼を信じても良いのか。

 理性は問う、散々『わたし』から逃げた彼を信じても良いのか。

 理性は問う、散々『わたし』が愛した彼を信じても良いのか。


 わたしは応える。


「……信じるよ。いつか貴方の世界を見させてね」


 頬を伝う涙はとても暖かった。それが知れただけでもう満足だった。たとえそれが偽物でも、嘘みたいな誰かの夢だったとしても。



 人間とは本当に愚かな生き物だ。

 どれだけ叡智を得ても、正論を説いても、ほんの僅かの不完全かんじょうに惑わされ、目の前のまやかしに飛びつく。仮にそれが失敗だったとしても、間違いを認めず正解だと何度も言い聞かせては自分を慰め続ける。

 どう取り繕った所で現実は変わらない。それを無駄だと否定するのは簡単だ、しかし、人はそうして来なかった。


 人間は常に奇跡を求めている。最初から無いかもしれないのに、より良い何かが手に入ると信じて。その為なら既に得た幸せを捨ててでも、何度でも多くの幸せを求め続ける。

 男もその一人だった。現実に戻り、たとえこの身に穴が空こうと、血反吐を吐こうと、幾度と同じ苦しみを味わおうと、何度でも、何度でも立ち上がる。魂をすり減らしてでも、たった一つの約束を果たす為に。


 人間とは本当に愚かな生き物だ。

 だからこそ、人間は想像もしなかった奇跡を手繰り寄せるのかもしれない。


 その日、雨は止んだ。

 そして時が経ち、春がやって来た。

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