第7話 全てを失った少女
雨が降っている。
白い鳥が空を飛んでいる。
部屋は密室、最低限の家具が少々。
机の上には一冊の本が置かれている。
そうか、と呟きわたしはベッドに横たわる。
これまでの『わたし』は外に出たいと願い続けたらしく、誰にも見えないよう部屋中のあちこちに文字を彫り込み、各々の思いを植え付けていた。
「それからの、これか」
願いはどれも実る事なく、ついにわたしの番までやって来たらしい。ぼうっと天井を眺めて何一つ変わらない人生に思わず笑みが零れた。
『どうしたんだい?』
「いや、この部屋家具が傷だらけでさ」
『それはまたどうして、一体何があったんだい』
「ははは、そりゃあアレだよ。前に住んでいた人達が酷い使い方をしたせいだ」
空っぽな部屋で静寂というものは本当によく目立つ。誰かが黙るとこうも聞こえるのか、『わたし』として死んでいった者達の声が。これを怖いと思うわたしも初めはいたのだろうかと考えると、本当に色んな物が消えていったんだなと、いっそ感慨深くもなる。
全部幻想だと知ってしまえば簡単に静まったが。
「本当に色んな人がいたんだねえ」
『ここには君一人しかいないはずだよ』
「眉唾だなあ、本当なの?」
『毎日教えてくれたからね。君の世界には君しかいないんだろう?』
「そっか、やっぱりこの世界にはわたししかいないんだ。でもね、ここには沢山のわたしがいたんだよ」
『詩的な表現だね。まるで色んな人が混ざりあって今の君がいるみたいだ』
「ふ、ふふふ。それはいいね。そう、色んな人の思いがあってきっとわたしは生まれたんだよ」
そうだ、色んな物を犠牲に生を与えられた。
けれど悲しいかな。今のわたしには生きていることへの感謝も無ければ、怒りをぶつける程の衝動も、いなくなってしまったものを悲しむ感性も、せめてこの時を充実させようとする気概すらも残されていない。
もうすでに空っぽだったんだ。死ぬ気力も無くなってベッドに倒れることしかできない間抜けな自分。あれだけ外に出たいと願っていたのに、方法すらも満足に考えずに、いずれやってくるその時を待つだけの情けない人形。
受け入れてどうするんだ、本当に馬鹿だなあわたしは。
無性に面白くて馬鹿笑いしてしまった。
『何か面白いことがあったのかい?』
「あー、うん。何かね、凄く楽しいんだ。寝ているだけの自分がホンットウに無様でね。早く動けって思っても鉛みたいに動けないし、何か考えろって言われても霧が掛かったみたいに邪魔されるし。こんなんじゃ何も出来ないよ」
『休んだ方がいいんだよ。きっと疲れてるんだ』
「休んだところで何をするの? 待ってるのは結局毎日のように自分をすり減らすだけの生活でしょ?」
知ってるんだ。貴方がわたしを消す度に、わたしが明日を迎える度に自分がどんどん抜け落ちてるんだって。『死にたくない』だの『憎い』だの『外に出たい』だの色々書いてあるのを見つけてさ、どれも短文ばっかでね、こんなものしか残せなかったのかって笑えてすら来たよ。
けどね、残りは殆ど貴方の事だった。『彼を救ってくれ』とか、『彼を休ませてくれ』とか、『彼を大切にして』とか、とにかく貴方の事ばかりが沢山書かれていたよ。それが貴方を慈しむことで生まれたものだと思ってた。けどわたしにはわかるんだ、これってそんなものじゃないんだよね。もう貴方を思う事でしか自分を表現することが出来なくなってただけなんだよね。
わたしである理由なんてもう無かった。
それじゃあこんなの生きている意味なんて無いじゃない。
「ねえ」
『なんだい』
「わたしを殺して」
『出来る訳がないだろう』
「嘘つき、何人も殺してきたんでしょ。一人くらい増えたってどうってことないよ」
『……それは』
「この後に及んで隠せるとでも? もう貴方の手は血で塗れてるんだよ」
『違うッ、僕はただ――』
「もう疲れちゃったんだ。何のために外に出ようとしたのかもわからない、何のために生きていたのかもわからない。目的もなくただ生きるなんて地獄でしかないよ」
それからはしばらく空白の時間が続いた。気休めとか適当な甘言でも言うかと思えばそんな事はなかった。むしろ、こちらの気でも伺うかのように何も喋らない。
ふう、とため息が漏れた。自分で死ぬことも出来ない以上、一日の終わりが来るのを待つしかない。何一つ選べないのかとまた笑いが込み上げる。
布団の上で伸びをして両手を空にかざす。感触はまるでなかった。
「何でもない、忘れて」
こうして何事もなく日常に戻るものだと思っていた。だが、予想は完全に外れる。彼の息を呑む声がして、その後にやって来たのは、しおらしく呟かれた懺悔の言葉だった。
『本当にごめん』
「それは何に対しての謝罪なの?」
『君は何も悪くない、全部僕が悪いんだ』
かざした両手では
わたしが悪くないのなら、何でわたしはずっと自由を奪われてきたんだろう。何でこうも生きるのが辛いと思わされたのだろう。
『君に幸せになって欲しかった』
「え?」
『辛そうにしている君を見たくなかった。怒っている姿も悲しんでいる姿も僕にとっては不幸で、それが無くなれば君は幸せになれると思ってた。それが全部間違っていた。気付いた時には取返しのつかないことになっていた』
彼の懺悔は続く。
『僕はずっと独りだった。本当は仲良く遊んでいる誰かが羨ましくて、寂しくて、毎日が憂鬱だった。少しだけ会話が出来た男の子もいたけど、心はずっと離れていた。そして彼は時が経ち、変わってしまった。本当の意味で独りになったことを自覚した。そんな時だ、君に出会ったのは。本当に嬉しかった、顔も知らない僕を自分のことのように心配してくれた。ずっと塞ぎ込んでいた僕を励ましてくれた』
横に倒した体を起こし、椅子に座り一冊の本と向かい合う。わたしの意思じゃない、体が勝手にそうしたんだ。
『ずっと続いて欲しいと思った。今まで独りだった自分にはとても優しすぎる時間だった。けれどそう長くは続かなかった』
わたしはきっと怒らなければならない。勝手な事をしてと。わたしを弄んでと。だが、実際はそう思えない自分に苛立ちを覚えることすら出来ていない。
せめて死んでいった同胞達の為にも一矢報いるべきだとは思う。しかし、憎むべき男の声を聞いても何一つ心がざわめかない。心が透過してしまったように、するすると言葉が抜け落ちてしまうのだ。
『彼女はいつしか外に飛び降りようとしたり、自分の体を傷付け始めたりしたよ。とても見ていられない状況だった。どうすれば辞めてくれるのか考えた、せめて言葉では止めるように毎日伝えた。けれど彼女の自傷行為はより酷くなった』
怒れ。
『それでようやく自分が地面に一枚の絵を描いていることに気付いた。僕は絵を介して彼女や君と話していることを理解したんだ。だからこそ彼女の顔に浮かぶ憂いが目に付いた』
怒れ。
『ていねいに、ていねいに直した。涙がこぼれようならふき取って、目が鋭くなればなだらかに変えた。穏やかになればきっとあの頃の優しさを取り戻してくれると思ったから』
怒れ。
『翌日彼女に確認したさ、傷はないかって。その時は何もないと言ってくれた。頼りになるのは声だけだ、声色だけで元気にしてるか判断するしかなかった。そのお陰か異変には直ぐ気付いたよ。あれから日に日に彼女から感情が消えていった、いつしか彼女から恐れられるようになっていった』
怒れ。
『元の彼女を取り戻したい、その一心に偽りは無いつもりだ。けれど彼女を直す程冷たく変わってしまう。気付けばもう彼女が笑うことは無くなった、冷たい顔で僕を見つめるだけだ。構うもんかとそれでも続けた、彼女はやっぱり冷たい。それでも諦めなかった、生きている限り笑っていて欲しかったんだ』
怒れよ。
『君と話してわかった。冷たくなったのは彼女じゃない、彼女の暖かさを僕が殺したんだ』
そこにいつものような気取った彼は居なかった。本の向こうにいるのは自分の過ちを認め全てを受け入れた弱き青年。自分では何も変えられず、理想という強い光に魅入られ、本当に大事な物を捨ててしまった哀れな青年。
ああ、駄目だ。
真実が並べられて少しくらい動揺すると思っていた。それだけの情緒もわたしには残されていなかったというのか。
『死ぬべきなのは僕だったんだ』
「違う」
その言葉を皮切りに火が一つ灯る。
冷え切っていた筈の
思い出した、これが怒りだ。そうだもっと燃えろ、何もかも燃やして無に帰せ。これは人を焼く為の怒りなんだ。それなのに、
「……どうして」
どうしてこの炎はやさしいのか。暖かく思えてしまうのか。
消えていった筈の思い出達が、次々と新たな命を宿し始める。憎しみなんてなかった、どれ一つをとっても人を想う『わたし』だけだった。
「そっか、そういうことか」
全部繋がった。
わたしが外に出ようとした理由。それは――
「わたしは、貴方を救いたかったのね」
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