春の涙
翌日、優は風邪をひいた。いいや、大して重症でもないが学校を休むくらいには熱も高く、咳もひどかった。
母親に学校へ欠席の連絡を入れて欲しいと伝えてから、自室のベッドに潜り込んだ。
はぁ……ついたため息はいつもより重く、鉛でも含んでいるのではと優はさらにその気分を一層落ち込ませていく。理由は紛れもなく、彼だ。
本当は、風邪をひけて心底ホッとしていた。今日学校で凪と会えば、どんな顔をしたらいいのか分からなかったからだ。優は二、三回ほど咳き込むと、大げさに布団をかぶり、朝の光の中に微睡んでいった。
「男のくせにメソメソして、気持ち悪いんだよお前」
憂鬱な時によく見る夢。今日もまた、その光景。
「返してよ……」
言いたいことも、喉が震えて声がうまく出てこない。その様子がいっそう目の前の男子たちを煽るのだろうことは、当時まだ幼かった優にも分かっていることだった。
「おい、お前ら優に何してんだよっ……!」
読んでいた本を数人の男子に取り上げられて教室の隅で泣いていた優のところへ、少年が駆けつけてきた。その時はまだ優より背も小さく、同い年のガタイのいい男子に比べれば骨としか形容できないような、小柄な少年。
「んだよ、凪。引っ込んでろ!」
「その本を返せ……! それは優の本だぞ!」
凪は細い腕で、本を取り上げた男子に掴みかかる。優はその様子を見て、ただ黙っていることしかできなかった。
──あんなに体が小さいのに。あんなに細いのに。助けなきゃ。でも、自分に何ができる?
凪は自分よりも体の大きな男子に跳ね除けられてはまた立ち向かい、本を返せと叫び続けた。そしていじめっ子たちは観念したのか呆れたのか、本を床に投げ捨ててその場を後にした。
「凪くんっ……!!」
優は泣きそうな声で、かろうじて立っている凪のところへ駆け寄った。
「凪くんごめん、俺何もできなくて……、怖くて、自分が怪我したらどうしようとかそんなことばっかり考えて……!」
「なんで謝るの?」
その時から。優の世界は、変わっていた。
「ありがとう、だろ。なんで謝るんだよ」
凪は傷だらけの顔でニヤリと笑うと、拾った本を優に手渡した。
「……ありが、とう」
涙ながらに優はつぶやいた。思えばその時から。優の世界は、それ以前よりも圧倒的な色彩を持って輝いていた。
「起きた?」
自分の部屋に、いつもと違う匂いが漂っていることに気がついて優は目を覚ました。この匂いは、もう、知っている。
「凪……!? なんで?」
「親友の家にお見舞いに来ちゃ悪いかよ」
「あ……」
壁掛け時計は四時をさしていた。いつの間に朝から夕方まで眠りこけていたことに、優はかなり驚いた。だが、風邪特有の気だるさは薄れているように感じた。
「思ったより元気そうだな。にしてもお前、昨日は『明日から学校に残って勉強する』とか言ってたくせに、ダセェよ」
その渇いた笑い声も、笑った時にできるエクボも、本当は弱いくせに強いふりをして見栄を張るところも、全部。
「──好きだった」
「ん?」
「ごめん……、」
涙が出てきた。優の目からポロポロと、音もなく涙が流れた。
「……なんで、謝るんだよ」
凪は優の頭に手を置いた。
「俺たち同じ気持ちなのに、なんで謝るんだよ」
「え?」
優ははっと凪の目を見た。優しい、優しい、猫みたいに細められた目。その目が好きだって、ずっと言い出せなかった。
「俺も同じだったよ。でも言えなかった。俺、転校するんだ、三月。来年からはもう、別の学校」
「な……なんで……」
「親の転勤」
唐突な言葉に、優は思わず意識を遠ざけてしまいそうだった。そうか、それじゃあもう、一緒にいられない。
「あと一ヶ月しか一緒にいられないのにさ。好きだなんて、そんなのワガママだろ。だから言えなかった。優の気持ち知ってて、気づかないフリをしてた。謝るのは俺の方。ごめんな」
「なぎ……なんで……っ」
涙が止まらない。もう抑えられなかった。同じ気持ちだったなんて。なんだ。もっと早く、自分の気持ちを伝えていれば。
「ごめん……、」
「謝んなよ。俺は嬉しかったよ。だから謝んな。別れの時くらいちゃんと笑えって」
その日凪が帰るまで、優はずっと泣き続けた。
三月某日。優は凪の家に来ていた。
「もうこれでお別れか」
「寂しくなるな、優」
「凪……いつか必ず、」
続く言葉が、思うように出てこない。その意思を汲み取ったのか、凪は優の背中に手を回した。
「帰ってくる。会いにくる」
優の目から涙が溢れた。その涙には、早咲きの桜の香りが飽和していた。
実在論 夜海ルネ @yoru_hoshizaki
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