実在論

夜海ルネ

冬の雨

 傘が泣いている。灰に澱んだ曇り空が流す涙を受け止めきれないことが悲しくて、自分もまた泣いてしまうのだ。


 早乙女さおとめゆうは、そういう男だった。隣で誰かが泣けば自分もつられて泣いてしまうような、そういう男だった。


「寒い?」


「いや」


「鼻赤い。マフラーは?」


 優に話しかける青年は、自分が首に巻いていたマフラーをしなやかな手つきで脱ごうとする。


「いい、いいってなぎ! 寒くないって」


 優は小学校からの幼馴染である清水しみず凪の手を必死に制した。本当は二月の雨に心まで凍えていたが、親友に風邪をひかれてほしくないというのと、他にも理由やら障害があって、とてもマフラーを受け取る気にはなれなかったのだ。


「そう? 寒かったら言えよ」


 俺に優しくするな、優は心の中で毒づいた。優しくされたら、とても自分の気持ちを抑えられる気がしない。この気持ちは一生、墓場まで持っていくと決めたのだ。封印しなければいけないのだ。


「傘、泣いてる」


 凪のつぶやきに、優は歩きながら首を傾げた。


「雨の日、傘をさしてるといっつも思うんだよな。ポツポツって音、まるで傘が泣いてるみたいだ」


 あるいはそのセリフは、優の心象そのものなのかも知れなかった。本当の心というのはとても重く、辛く、苦しい。隠そうと思えば思うほどに心の中に雨が降る。


 だけどその雨は決して、優の心を綺麗さっぱり洗い流してくれたりはしない。醜い泥で必死に守りを固めた心は、最終的にさらに醜い、大きな感情の塊を顕現させる。


 それだけはどうしても避けたかった。だから優は、凪と距離を置きたかった。


 凪はというと、クラスでは活発で明るい性格ゆえに友達も多く、内気で引っ込み思案な優とは対称な青年だった。しかし、優の思惑とは裏腹に、凪は決まって優と一緒に帰ることを選んだ。


 二人で高校の校門を出て、他愛ない話をしながら歩く。優にはその時間が救いであり、呪いだった。優は、少し先を歩く凪の背中を見据えた。


「なぁ、凪」


「ん?」


 錆びついた唇を無理やりこじ開けて親友の名を呼ぶ。凪はさらっと、微風が吹くみたいな音で応える。


「俺たち、もう一緒に帰んなくたっていいだろ」


「なんで?」


 優の言葉の最後に音が重なった。凪は表面上、それこそ凪いだ水面のような穏やかさを保っていた。だけど優には分かるのだ。彼の腹の中に、どんな感情が眠っているのか。


「俺ら……来年から受験生じゃん。勉強しなきゃ。俺の志望大学、けっこう偏差値高くてギリギリなんだ。今から勉強しないと合格できない。だから、学校に残って勉強しようと思ってる」


「あ……そ。頑張れよ」


 凪が二つ返事で優の意見を飲み込んだことに、優は内心、かなり驚いていた。なんだ。こいつは案外、俺にしていなかったんだな。優はほんの少しだけホッと胸を撫で下ろし、凪と肩を並べて岐路を辿った。

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