11/30 雲壌/天地
僕が奈々子さんの家に出入りするようになったのは、冬の初めの頃だった。
奈々子さんは人形作家だ。以前から僕の勤務先のギャラリーに作品を納めてくれていたのだが、左手を怪我したとかでしばらく休業するという。それで社長が僕を見舞いにやったのだ。
まだ若く、綺麗な人だった。彼女自身が作る人形に面差しがよく似ていた。社長によれば親の遺産が相当あるのだそうで、人形作家もほとんど道楽でやっているのだという。彼女が住まう古くて大きな屋敷の庭には温室まで備えられており、これといったとりえのない安月給の僕とは雲壌の差、さながら月とスッポンだった。アールヌーヴォー風の装飾とステンドグラスで飾られた広い邸宅に、今はたった一人で住んでいるのだそうだ。
怪我をして何かと不便だというので、僕は度々奈々子さんの家に通うようになった。買い物をしたり、重いものを運んだりするのだ。完全に業務外だが、僕は喜んで雑用を引き受け、定期的に彼女を訪ねた。お屋敷に続く坂道を下っているとき、僕の足取りは飛ぶように軽かった。
「大体姉がモデルなんですよね、わたしの人形って」
奈々子さんがそう教えてくれたのは、彼女の家に通い始めて一月ほど経った頃だったと思う。
「じゃあよっぽど綺麗な方だったんでしょうね」
思わずそう言ってしまってから不躾だったろうかと心配したが、奈々子さんは「そうね」と答えて少し微笑んだ。
「……見ます? 写真」
そう言って、彼女は一枚の写真を僕に見せた。ぎょっとした。それから冗談だろうかと思った。人形作家の彼女なら、こういうものを作ることもできるだろう。
でも奈々子さんはにこりともせず、写真に視線を落としたまま言った。「これ、生きているの」
写真には、天鵞絨を張った大きな椅子に腰かける奈々子さんが写っている。その膝の上に女の生首があった。彼女と、彼女の作る人形によく似た美しい首だった。
「わたしの家ね、時々首になるひとがいるんです。『頭の底がぐらぐらする』って言い始めたら、遠からず首になる合図ね」
奈々子さんの大きな瞳が、僕の眼を捉えた。形のいい唇が動いて、奇妙な物語を紡ぎ始めた。
奈々子さんの家の中には、いくつもの遺品があった。父親のギター、母親のワンピース、従弟のものだという腕時計に、その妹が遺した椿の髪飾り。首だけになった後、彼女の姉がよく使っていたというクッション。
「叔母がいるんですけど、今長旅に出ているの。遠くへ行きたくなったみたい。わたしにも外に出ろって言ってたわ。若い娘らしく流行りの服を着て、賑やかな街中を歩いてみればっていうの」
そんなこと到底できる気がしない、と彼女は呟いた。
「みんないなくなって、わたしだけ置き去りにされちゃった」
冬が深まっていた。左手の傷が痛むというので、僕はますます彼女の家に日参するようになった。いっしょに食事をしたり、庭を散歩したりもするようになった。ひとつ年上の僕のことを、「なんだか兄さんができたみたい」と言って喜んでくれた。
奈々子さんは警戒心があるのかないのか、知り合ったばかりの僕に家の合鍵をぽんと預けた。いちいち出迎えるのが面倒だから、用事があるときはこれで入ってほしいという。
あるとき、声をかけても返事がなかったので、僕はその合鍵を使って家に入った。頼まれていた買い物と、クリーニング店から回収してきた洗濯物を置いて、すぐに帰るつもりだった。寝室に飾ってある絵の額縁を替えたいとも言われていたが、それは今度にしようと思った。
ところがキッチンに向かう途中、ふと声が聞こえた。
僕は立ち止まった。どうやら奈々子さんは二階にいるらしい。このときちゃんと声をかけたってよかったのに、こっそりと近づいたのはなぜだったろう。
奈々子さんは、二階の廊下の端に立っていた。
「――だから、この家にかずみちゃんはいないの。叔母さんの頼んだひとがどこかに埋めてしまって、わたしも場所は知らないんだってば……あっ」
そう言ってこちらを振り向く。「ごめんなさい、気づかなくて」
「……奈々子さん、お客さんがいるんですか?」
「従弟」
すでに亡くなったと聞いた人物の名前を、彼女は告げた。「今朝玄関を開けて換気してたら、家の中に入ってきちゃった」
そう言って、いたずらっぽく笑った。
ついさっきまで彼女が向かい合っていた場所には、誰もいなかった。
鶺鴒だろうか、窓の外を小鳥が飛ぶのが見えた。直後に雪が降り始めた。
その晩、初めて彼女の家に泊まった。冷たい色の満月が空に浮かんでいた。
「――姉がいなくなって全部変わっちゃった。あの飾り棚の中でほとんど一日中眠っていただけなのに、それでもいるのといないのとでは、天地ほどに差があるの」
ふたりがけのソファに座ってそんな話を聞かされた。電灯に照らされた彼女の白い頬に、長い睫毛が影を落としていた。
奈々子さんの姉さんの首は、どこかに埋められてしまったらしい。
首になった家族はいずれそうするものなのだという。人間ではないものに変質して、愛しいものを襲うようになるから、その前に土中に埋めるか、もしくは深い水の中に沈める。首は暗く静かな場所で、少しずつ時間をかけて眠るように死ぬのだという。
「姉さんをいつまでも手元に置いておきたかったけど、駄目だった」
奈々子さんは灯りに左手をかざした。華奢な手の端を食いちぎったのは、その姉さんだという。怪我はかなりよくなったが、そこだけつぎはぎしたように皮膚の色が違う。
「でもわたし、まだ姉さんのことばっかり考えてる。庭で野良猫を見かけたら姉さんに教えたくなるし、大きな月が出ていたら姉さんに見せたくなる。未だに姉さんが『なぁ子ちゃん』って話しかけてくる幻聴を聞くし、夢の中では姉さんを膝に載せながら二人でむかしばなしをしてるの。『そんなことあったっけ』なんて言いながら目を覚ますのよ」
奈々子さんは溜息をついた。それから、あなたが来てくれて嬉しい、と呟いた。いつでも来ますと言って、僕は彼女の手を握った。
その晩、僕たちは眠りにつくまでずっと話をしていた。ふと目を覚ますとまだ日は昇りきっておらず、奈々子さんの顔がかわたれどきの薄明りにほんのりと浮かんで見えた。本当に人形のようだと思った。
僕は奈々子さんのことを、とっくに好きになっていた。
秘密の呪文を唱えるみたいにぽつぽつと話す声も、何か考えているときのだんまりの顔も、ティーカップを持つ手つきも、家の中を歩きまわる小さな足音も何もかもが好きで、愛おしかった。
彼女はほとんど家から出ないけれど、それでも一度、いつか僕の故郷を見てみたいと言ってくれたことがある。だから本当にいつかそういう日が来ればと、僕は願っていた。
「――時々、湖に落ちる夢を見るの」
ある日、奈々子さんがぽつりと言った。
夢の中では彼女は生首になっているという。誰かわからないが男に抱えられて、大きな湖の畔にいる。さざ波が岸辺をたぷたぷと叩く。男は大切に抱えていたはずの奈々子さんを、突然湖に放り投げる。ぼちゃんと音がして、彼女は水中に沈む。耳の中に冷たい水が入り込む。視線の先で水面がきらきらと輝く。まるで現実のような手触りの夢だという。
「わたし、それをかずみちゃんの夢なんだと思っていたの。夢の中でわたしはかずみちゃんになっていて、薫くんがわたしを投げたんだって。薫くんは湖の畔で亡くなったんだし、ふたりの間で本当にそういうことがあったのかもって思ってた」
でも違うかも、という。
「だってかずみちゃんは、結局湖に沈んでなんかいなかったんだもの。姉さんの首といっしょに持っていかれて、どこかに埋められたって叔母が言っていたの。だから夢とつじつまが合わないのよ。まぁ、夢ってそういうものかもしれないけど――でもわたし、最近あれは予知夢じゃないかと思うようになった。いつか首になったわたしを、誰かが湖に連れていって沈めるの。そういうときが来るのよ、ねぇ」
そう言いながら、奈々子さんは僕の手をぎゅっとにぎりしめる。
「最近、頭の底がぐらぐらするの」
姉さんと暮らす 尾八原ジュージ @zi-yon
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