約束

染井雪乃

約束

 俺は呆れ果てて、弟に声をかけた。

「約束、覚えてるよな? 五時には帰るって言ったのに、今何時だよ」

 時計も読めないのか、と出そうになった悪態を飲みこんで、侮蔑の視線を代わりとした。

 とうに六時を回って、人の顔も判別しにくい時間帯。人によってはこれは夜だろう。

 ブランコを漕いでいる弟が、俺から目を逸らした。

 苛立ちが増して、つい言葉はきつくなった。

「母さんに頼まれて、迎えに来てやってるんだから、手間かけさせるなよ。反抗期か何か知らないが、俺に迷惑かけないところでやれ。帰らないなら置いていくぞ」

 そもそも、俺は公園があまり好きじゃない。子どもの声も無駄にカラフルな遊具も、公園にいる人間も、全部。

 存在するのは許してやるから、俺に関わらないでほしい。

 有言実行とばかりに、俺は公園の出口に向かって歩いていく。

 この公園は、小さな池があるくらいには設備が充実している。俺の嫌いな類のものだ。

 弟は、幼児の頃から大人を舐め腐っているきらいがある。

 大人の言う「置いていくぞ」が脅しに過ぎないと思っているのだ。

 俺は違う。

 あいつに甘い両親と違って、本当に置いていくし、意味不明な駄々にも、付き合いはしない。

 後ろで、弟の涙声がしても、俺は足を止めなかった。

 小学三年生にもなって、親の気を引きたいなんて、幼い。

 帰ったら母に散々文句を言ってやらねば気がすまない。弟がこうなのは、甘やかしたからだろ、と。黙って聞きつつ、それでも態度を改めない母には呆れるが、それなら愚痴くらいは聞いてもらおう。

 後ろの慌てた声に、水音が混じって、俺は慌てて振り返った。

 急いだあまりに足を滑らせたのか、弟が池で溺れていた。

 俺の名を呼んで、助けを求めている。

 助けなければ、いけないのだろうか。

 気が重くなる。

 俺の無表情に、弟はようやく絶望を見せる。

 助けるかを迷っていることが伝わったのだろう。

 こんなときになって、ようやく俺に嫌われていると気づくなんて、憐れなやつ。

 でも、助けなければ、せめてその素振りをした痕跡くらいは残さなければ、俺が責められるのではないか。

 最悪だ、と呟いて俺は池の端に立つ。

 何か、掴まれるものはないかと周囲を見回したそのとき、ざあっと風が吹いた。

 木に腰かけている少年がいた。

「助けたくないのなら、見殺しにすればいいのに」

 どこか浮世離れした美しさの少年は、俺の本心を見透かしたように言った。

「そうだな、宿も欲しいし、この状況を使わせてもらおう」

 しゅっと木から着地して、俺の手を取って、少年は宣言した。

「僕は吸血鬼。血を貰うけど、あなたを殺さない。あなたのよき弟になろう。どうかな?」

 混乱して、俺はわずかに後ずさる。

 少年は、とどめとばかりに、魅力的な言葉を囁いた。

「吸血鬼はね、人間と違って、約束が重い。最悪の場合、灰になって死ぬんだよ」

 ドク、と心臓が波打った。

 約束を破れば死ぬ。その上でこの少年は俺に約束を提示した。

 今まで厄介に思っていた弟とは見比べるべくもない。

 俺は頷いて、少年の手を握り返した。

「よろしく、共犯者」

 ”弟だったもの”が溺れていくのを確認して、俺は少年と手を繋ぎ、すっかり暗くなった道を歩いて帰った。

 今までなら、弟と手をつなぐなんて身の毛もよだつこと、絶対にしないのに、少年となら、手をつなぐのも不快ではなかった。

「そうだ、名前は? 俺は神戸かのとれん

「僕はかなで。名前負けしてるから、あんまり好きじゃないんだけど、名付けって抗えなくてさ」

 俺は奏の言う、名前負けの意味がわからなかった。きれいな顔立ちだし、いい名前だと思うが。


 家に帰ってみれば、父も母も奏を次男として認識していた。

 玄関であからさまにほっとした様子の俺に、奏が囁いた。

「だから、大丈夫だって言ったでしょう」

 これも吸血鬼の能力らしい。

 そんな便利な能力があるなら、わざわざ俺に手を貸さなくとも宿くらい手に入るのではないか。

「あのね、多機能だからって、万能とは限らないんだよ」

 やれやれ、とでも言いたげな顔で言うものだから、俺はおかしくて笑ってしまった。

 そんな様子を見て、母が笑う。

「何だか”最近”、仲良くなったのね。よかったわ」

 書き換えられていく。

 不快なあの子どもではなく、奏が弟として存在し始めた。

 俺は不快感が消え去ったことが嬉しくて、気分が上がっていた。


 奏は完璧に弟をやっていた。

 学校でも、家でも、俺の前でも。

 吸血鬼といえば、日光が苦手だろうと思っていたけれど、そこは何とかなるらしかった。

 年下の子どもが大嫌いだった俺も、奏のことは好ましく思っていた。

 奏も、甘えたり我儘を言ったりすることがないでもない。

 けれど、”あれ”に抱く不快さはやってこない。

 むしろ、奏のそれは愛おしくさえ感じる。

 何かしらの能力を使われていても、気分は悪くないし、いいか、と思う。

 

「蓮君、テストおつかれ。ゲームしようよ」

 テスト前だからと我慢していたゲームを用意して、奏は微笑んだ。

「テスト勉強してる間に、僕上手くなったから、見てて」

 たしかに奏のプレイ技術は上昇していた。

 元が目も当てられない状況だったのが、今やコントローラーを危なげもなく握って操作しているのだから、上達の速度はめざましい。

「へえ、うまくなったじゃん」

 褒めてやれば、嬉しそうに頬を緩ませる。

「次、蓮君のやつ見せて」

 敵を倒したりマップを探索したりして冒険するゲームにハマる吸血鬼、と思えばちょっとおもしろい。

「どこ行こうか」

「あの強いやつ。何とか回廊の」

「ああ、あそこか」

 俺がプレイしている間、わっとか、ひゃあとか、声を上げつつ、奏は横で観戦を楽しんでいた。

 奏と一緒に遊ぶのも、悪くない。


 そして、両親が寝静まった夜。

 奏の本当の食事の時間だ。

「本当に栄養がたくさん含まれている血液は首筋じゃないらしいよ」

 そう伝えると、奏は笑った。

「僕らの欲しい栄養、人間の言う栄養と違うから、首筋からでいいの。それにさあ、いくら人間の科学で言う栄養があっても、恥ずかしいよ」

 太腿から血を飲む弟を想像すると、たしかに俺が気にしなくても、奏は嫌がりそうなのも予想できた。

「それじゃあ、いただきます」

 奏の牙が突き立てられる。

 その瞬間は痛いが、すぐに甘く痺れる感覚に変わる。

 ゴク、ゴク、と血が飲まれていく音を耳にしつつ、俺は奏の髪に指を通していた。つやっとした黒髪で、シャンプーのCMに出ている人よりずっときれいだ。

「……ごちそうさま。そうだ、これ」

 鉄分と大きく書かれた飲むヨーグルトを渡された。

「蓮君、時々貧血してるから、吸われた後はちゃんと気をつけないと。あと、テストの疲れ溜まってるから休みなよ」

 奏の手で、ベッドに寝かされて、俺はベッドに座った奏を見上げる格好になる。

 吸血後に俺の健康を気遣うことも忘れない。まあ、俺の健康が損なわれると、奏は俺が死ぬまでまずい血で生きるしかなくなってしまうらしいので、奏にとっては死活問題でもある。

 それでも、気遣いが嬉しくないなんてことはない。

 あの夜、池のある公園で、奏と出会って、本当によかった。

「奏は、この生活、楽しいか?」

 俺ばかりが得をしているのではないか。

 そんな不安が時折よぎる。

 あの頃には思いもしなかったことだ。

「楽しいよ。あ、でもちょっと不満はある。蓮君が僕を置いて死んじゃうこと」

「それ、は」

 俺の死は奏にとって解放だと思っていた。

 約束で縛られなくなり、またどこへでも行ける。

 それは、奏にとっていいことだと思っていた。

 俺の思っていることを感じ取った奏は不満げに頬を膨らませた。

「僕、そこまで薄情じゃないもん。蓮君のこと好きじゃなかったらあんなことしない」

「ごめん、悪かった」

「別にいい。蓮君なりの気遣いなのもわかるし。でもそれ、失礼だからね。僕は蓮君のこと好きだし、ずっと一緒にいたいし。でも、それはダメだから……」

「ダメってことは、方法はあるのか」

 俺の問いに、奏はうっと詰まる。

「ある、けど。それは……」

「別に、俺は奏と楽しく暮らしていられるなら、多少のことは気にしないけど」

 沈黙が部屋を支配する。

 お互い何を言うでもないのに、妙に情報の濃密な時間が流れた。

「多少、かどうかは、蓮君が決めることだけど……あの、そんな、すぐに決めなくていいんじゃない? 今は何とかなるんだし、さ!」

 沈黙を破って、奏が空元気そのものの口調で言った。

 俺は奏の心を読めないが、奏は俺の心を読める。

 とはいえ、今の返答が奏の本心でないことは火を見るより明らかだった。

 成り行きで始まった兄弟関係だけど、俺は奏のことを存外大切に思っている。

「それに、血抜いた後はゆっくり寝ないとだよ。おやすみ」

 本心を押しこめている奏をベッドから見送って、俺は奏の言う通り、眠気に身を任せた。


 夜を生きる吸血鬼。

 一人の人間から命の終わりまで血を貰う約束をすること自体、珍しい話なのだと奏は言う。

「そもそも珍しいとか珍しくないとか言うほど、吸血鬼のこと知らないけどねえ」

 奏は自分のことしか知らないのだった。

 一人で生きていけるのだから、まとまる必要もない。それも当然か、と俺は納得した。

 奏自身、自分にできることは自然と理解しているので、教えを請うこともない。

 奏と二人、兄弟として年を重ねて、三十年になっていた。両親ももうこの世にはいない。

「吸血鬼と番うのは、本当におすすめしない」

 奏ははっきり口にした。

「でも、僕はさあ、蓮君と一緒にいたい。最後まで一緒って約束が欲しい」

 奏は口にしてから気まずそうにした。らしくもない。

「……それは僕に巻きこむことなんだよ。そんなの、よくない……」

 弱々しく言葉にした奏に俺は驚いた。

 あの夜になりかけの公園で、俺に話しかけてきたときとは大違いの自信のなさ。

「それを言うなら、俺だって、あのときおまえを巻きこんだ」

「でもそれは、両方に利益のある約束でしょ。僕は定期的に血が飲めて、雨風しのげる。蓮君はあれのいない人生を歩める。……だけど、番うのは、僕にしか利益がない話だから……」

 なるほど、奏は実用的なメリットとデメリットを天秤にかけ、相手にもそうさせ、約束を交わすことはできても、自分にしかメリットがないように見える約束は怖いのだ。

 人を巻きこむ覚悟ができていないから。

 これまでの生にそんなものは必要なかっただろうし。

「俺にとって、奏と一緒にいる日々が続くことは利益なんだけど、それでも考えは変わらないか?」

 奏との生活は共犯から始まった。

 だが、俺達は秘密を共有しているだけではない居心地の良さを相手に感じるようになった。

 そのことは奏も認めるところだし、俺の心も奏はわかっているだろう。

 俺と同じ高さにある瞳を見つめれば、奏は深くため息をついた。

「……負けた」


 奏の血が喉を焼く。

 熱く焼けるようだ。

 しかし、喉を焼いたのは最初のグラス二杯分ほどで、残りを飲み干す頃には俺は酩酊していた。

 酒には強い方なので、味わったことのない強い酔いに困惑する。

「もう十分かな。疲れているだろうし、おやすみ」

 奏の声が遠くなる。

 起きたとき、俺は奏と永遠を生きられる者になっているだろう。

 それが嬉しくて、自然と唇が弧を描く。


「……蓮君の馬鹿」

 愛おしそうに、眠りに落ちた蓮にふとんをかけて、奏は夜空を眺めた。

 一生をかけた約束をしてくれた大事な人の目覚めを待つ。楽しい時間になりそうだ。

 夜が明け蓮が目を覚ます、そのときを思って、奏は微笑んだ。

 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

約束 染井雪乃 @yukino_somei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ