遠距離家族

下東 良雄

遠距離家族

 ――都心某所・高層ビル内のオフィス


 黒いスーツをビシッと着たひとりの女性が広いオフィスを颯爽と歩いている。年の頃は三十代だろうか。黒髪ロング、美しい顔立ちで、艶のある唇が色っぽい。その堂々とした姿は役職付きであることがうかがえる。


 彼女が窓の外に目をやると、外はとてもいい天気で、街を見下ろせる程の高さの階層だ。

 オフィスを見渡せば、パーテーションで区切られたデスクがブース状になっており、ぱっと見、人の姿はない。みんな落ち着いて仕事をしているのか、あちらこちらからキーボードを叩くカタカタという音や、マウスをクリックするカチカチという音だけが聞こえる。

 オフィスの端に目を向ければ、すりガラスの向こうは会議室で、WEB会議をしているようだ。時折話し声や笑い声がかすかに漏れていた。


 『KOICHI SAKAGUCHI』


 デスク脇のパーテーションに掲示されたネームプレートを指差し確認。デスクを覗くと、男性が真面目な面持ちでキーボードを叩いていた。

 名前は『坂口さかぐち浩市こういち』。年齢は二十代後半から三十代前半くらいか。黒髪マッシュでスーツを着ており、姿勢が良く、清潔感も感じさせる。

 浩市は女性の存在には気付かず、仕事に集中していた。


 トントン


 パーテーションをノックする女性。


「坂口くん」


 女性に声をかけられ、仕事の手を止める浩市。

 座ったままイスをくるりと回し、女性と向き合った。


「三浦部長、お疲れ様です。どうされましたか?」

「今夜飲みに行くんだけど、坂口くんもたまにはどう?」


 三浦は優しい笑顔で彼を誘ったが、浩市は苦笑いを浮かべる。


「すみません、今夜はちょっと……」

「あらそう、残念だわ……まぁ、お局様に誘われても嬉しくないわよね……」


 ちょっと意地悪な笑みを浮かべた三浦。


「ち、違いますよ! 歳も大して変わらないでしょ! すごく嬉しいですよ!」

「ホント〜?」

「三浦部長、美人じゃないですか」

「あら、嬉しいわ。お世辞として受け取っておくわね。うふふ」


 三浦は嬉しそうだ。


「今夜は家族と過ごす予定でして……」


 申し訳無さそうな浩市の様子を見て、改めて優しい笑顔を浮かべる三浦。


「そっか。うん、分かった。ステキな時間を過ごして!」

「はい、部長も飲み過ぎたらダメですよ」

「ハイハイ、じゃあね」


 三浦は、手を小さく振って浩市のデスクから引き上げた。


「さて、ボクも早く仕事を終わらせなきゃ……」


 軽くノビをする浩市。

 イスをくるりを回し、またモニターに向かい直して、キーボードを叩き始めた。


 ◇ ◇ ◇


 ――その日の夜、浩市の自宅マンション


 リビングのテーブルに置かれた大きなモニターの前に浩市が座っている。モニターには若い女性の姿が映し出されていた。コミュニケーションアプリを利用しているようだ。


紗絵子さえこ、元気かい?」

『うん、こっちはボチボチよ。浩市は? ご飯ちゃんと食べてる?』

「あぁ、ちゃんと食べてるよ。元気にしてる」

『それなら良し! 元気が一番だからね』


 元気な笑顔を浮かべる浩市の妻・紗絵子。


「ホントは紗絵子の手作り料理が食べたいんだけどね」

『あら、私そんなに料理は得意じゃないけど?』

「紗絵子のヘタクソな料理、たまにすごく食べたくなるんだよね」

『あはははは、ヘタクソで悪かったわね!』


 ふたりは楽しげに笑い合った。


「ははは。でもさ、モニター越しじゃなくて、紗絵子に会いたいよ」

『まぁ、でもそっちからじゃちょっと遠いからね』

「遠距離過ぎるよな」

『そうね、遠距離恋愛ならぬ、遠距離家族だもんね』

「こんな家族関係も、もう三年か……」

『うん、そうだね……』


 訪れた静寂の時間。

 そんな寂しい気持ちを拭おうと、浩市は笑顔を紗絵子に向けた。


「優子は元気にしてるのかい?」

『もちろんよ! 優子ー、パパよー!』


 とてとてとてっと、モニターの前にやってくる小さな女の子。

 父親である浩市とお話しできるのが嬉しいのだろう。満面の笑みだ。


『パパー』

「優子、元気かい?」

『うん、元気だよー』

「今日も優子の笑顔が見れて、パパすごく嬉しいよ」

『私もー。パパ、大好きー』


 こぼれるような笑顔の優子。


「パパも優子が大好きだよ」

『ママー、パパが優子のこと大好きだってー』

『あら、優子良かったわねー』

『うん!』


 モニターの向こうで、母子笑顔で抱き締め合う紗絵子と優子。

 それを浩市は幸せそうに見つめている。


「ふたりの姿が見れて、僕も元気が充電できたよ」

『そっちはもう夜なんでしょ? 明日も早いんだから、ゆっくり休んで』

「そうだな、そうさせてもらうよ」

『じゃあね、浩市』

『パパ、おやすみー』

「ふたりともおやすみ」


 お互い手を振りながら、会話を終えた。

 モニターの電源を切った浩市は、そのままベッドに潜り込んだ。


「夢の中でなら、会えるかな……」


 浩市は、ゆっくりと眠りに落ちていった。


 ◇ ◇ ◇


 ――一週間後、オフィス・役員会議室


 広く綺麗な会議室の中央には大きな円卓が設置されており、肘掛け付きの革張りのイスが並んでいる。

 通常は役員のみが利用するこの会議室で、ふたりの男女が話し合いを行っている。ひとりは年配の男性で、ブランドもののスーツに身を包んでいることから、役員クラスの立場であることが分かる。

 もうひとりはスーツ姿の美しい女性。三浦だ。

 ふたりは円卓を挟み、話し合いを続けている。


「坂口くんはしっかり業務をまっとうしています!」


 声を上げる三浦。

 それに対して、少し困ったような様子を見せる役員。


「しかし、三浦くん。繁忙期に彼だけさっさと帰宅するのは……」

「彼にとって一番大切なのは家族なんです!」


 家族というキーワードを聞き、役員はそれを嘲笑うかのように苦笑した。


「家族ねぇ……」


 役員は、にやけ顔を浮かべる。


 バンッ


 三浦は怒りを隠さず、円卓に手を叩きつけた。

 驚く役員。


「多様性が重要な時代です! 彼の生き方を否定しないでください!」


 役員に向かって、怒りの面持ちで叫んだ三浦。

 先程のように役員は困った表情を浮かべる。


「いくら多様性が重視されるといっても、繁忙期に……その……家族を優先するのは……」

「その分、彼の業務は私が担当します! それであれば問題ないはずです!」

「うぅむ……」


 悩む役員。


「それと、この件は本人には言わないでください……お願いします……」


 役員に向かって深々と頭を下げた三浦。


「三浦くん……」

「私がすべての責任を負います」


 小さくため息をつく役員。


「わかった……」


 三浦の真剣な訴えに、役員も折れた様子だ。


 ◇ ◇ ◇


 ――さらに数週間後、オフィス・浩市のデスク


 トントン


 パーテーションをノックされた音に浩市が振り返ると、三浦が小さく手を振っていた。


「三浦部長、お疲れ様です」

「毎度のお誘いだけど……まぁ、来ないよね?」


 三浦は少し残念そうだ。


「ご一緒しても……いいですか?」


 浩市の想定外の返答に三浦は驚き、そして満面の笑みを浮かべた。


「あら! もちろんよ! 久しぶりだわ、坂口くんと飲めるの!」


 嬉しそうな三浦。


「そうですね、ボクもお酒を口にするのは久しぶりです」


 浩市も微笑みを浮かべる。


「うん! 今夜は楽しみだわ!」

「……」


 喜びをあらわにする三浦だったが、浩市はどこか寂しげな雰囲気をまとっていた。


 ◇ ◇ ◇


 ――その日の夜、浩市の自宅マンション


 カチャッ


「三浦部長、どうぞ」


 自分の部屋へ三浦を連れてきた浩市。

 飲み会の後、『奥さんに会わせろ』と酔った三浦に絡まれ、休憩がてら自分の部屋へ招いたのだ。


「あら、散らかってるかと思ったら、随分綺麗にしてるわね」

「妻がうるさいですから」

「こんな美人を部屋に連れ込んで、奥様文句言わないかしら」

「どうでしょう。まずは紹介しますね」

「坂口くんの奥様、楽しみだわ! でも、ちょっと緊張してきた……」


 ふたりはリビングのテーブルに置いてあるモニターの前に座った。

 浩市はモニターの電源を入れ、WEB会議用のマイクをテーブルに置き、キーボードを叩き始めた。マウスのクリック音がリビングに響く。


「紗絵子、いるかい?」


 モニターに笑顔の紗絵子が映し出された。


『はーい。あら、そちらは?』

「紹介するよ、ボクの上司の三浦部長」

「あ、あの、いつもお世話になっております、三浦と申しましゅ!」


 酔っているのに加え、緊張のあまり噛んでしまう三浦。

 そんな三浦に苦笑いを浮かべる浩市。


「部長、緊張し過ぎです……」


 そんな三浦の姿を見て、楽しそうに大笑いする紗絵子。


『あはははは、いつも浩市がお世話になっております』


 紗絵子は頭を下げた。


「こ、こちらこしょ!」

「噛みすぎですって……」

「だ、だって……」


 とてとてとてっとやってきた娘の優子。


『あー、キレイなお姉ちゃんだー』

「お、お姉ちゃん……? あら、やだ……」


 お姉ちゃんと言われて満更でもない三浦。


「娘の優子です。優子、パパの会社の人だよ。ご挨拶して」

『こんにちはー、優子、三歳です!』


 優子は、指を三本立ててモニターに向けた。

 今日もこぼれるような笑顔を浮かべている。


「わぁー、カワイイー! こんにちは、三浦って言います!」

『ミウちゃんだねぇー』


 娘の言動に焦る浩市。


「こ、こら、優子!」

「うふふ、ミウちゃんだよぉー」


 三浦は嬉しそうだ。


「部長、すみません……」

「ぜんぜん! 気にしないで!」

『浩市』


 少し真面目な顔をしている紗絵子。


「なんだい、紗絵子」

『この間言ったこと、考えてくれたのね』


 紗絵子の言葉に、少し焦りを見せる浩市。


「い、いや、それは……」


 そんな浩市を見て、紗絵子は優しく微笑んだ。


『私たちは大丈夫だから』

「……」

『真剣に、よく考えてちょうだい、ね?』

「……」


 何も答えられず、うつむく浩市。

 それを見て、三浦が心配そうにしている。


「坂口くん、どうしたの……?」

「いえ、何でもありません……」


 その日の夜は、四人で楽しく会話をして過ごした。


 ◇ ◇ ◇


 ――それから二年後、浩市の自宅マンション


 真剣な面持ちで浩市がモニターに向かい合っている。


「紗絵子」


 モニターに映し出される笑顔の紗絵子。


『こんばんは、どうしたの?』

「キミとの関係を終わらせたい……」


 その辛そうな表情は、浩市にとっても苦渋の決断であることをうかがわせた。

 そんな浩市の様子を見て、紗絵子は残念そうでありながらも微笑みを浮かべる。


『そう……』

「紗絵子のことは愛してる」

『うん』

「もちろん、優子のことも愛してる」

『うん』

「でも、こんな関係を続けていたらダメになる」

『そうね、もう五年だもの』

「ゴメン……」


 うなだれる浩市。


『浩市、そんな風に謝らないで。ところでお相手は三浦さん?』

「あぁ……」

『うん、あの人なら浩市をきっと幸せにしてくれるわ』

「今夜、来てもらってる」


 モニターの前に三浦もやってくる。


「紗絵子さん……」

『三浦さん、こんばんは』


 紗絵子は笑顔だ。


「私、浩市さんと……」

『大丈夫、分かってるわ。ふたりとも幸せにね』


 紗絵子の影からちょこんと顔を出した優子。


『あー、ミウちゃん泣いてるー。泣いちゃダメー』

「優子ちゃん……」


 三浦の頬には涙が伝っていた。


『優子の言う通りよ、三浦さん。さぁ、笑顔で』


 明るく振る舞う紗絵子。


「はい……」

『浩市をよろしくね』

「必ず幸せにします……」


 紗絵子は浩市に目を向けた。


『浩市』

「なんだい」

『私のことは早く忘れること。いいわね?』

「わかった……」


 リビングの時計に目をやり、慌てる三浦。


「坂口くん、もう時間が……」


 浩市はモニターを見つめ、優しく微笑んでいた。

 モニターの向こう側でも紗絵子が微笑み浮かべ、優子も満面の笑みだ。


『お別れね。でも、きっとまた会える』

「そうだね」

『パパー、またねー』

「優子、元気でな」

『浩市、愛してる』

『パパ、大好きー』


 モニターの画面がふっと暗転した。

 そして、画面には――




『故人仮想会話サービスの契約が終了いたしました』




 ただその文字を見つめている浩市。

 三浦が心配そうに声をかけた。


「坂口くん、本当に良かったの……?」

「これ以上ふたりをけがすようなことをしたくありませんので……」

けがす?」

「ふたりはもういません」

「五年前、事故で……」

「このサービスを知り、すぐに申し込みました」

「……」

「遺品の日記や写真、動画をAIに学習させました」


 ディスプレイに表示された契約終了を示すメッセージに目を向ける三浦。


「ボクは自己満足のために、ふたりの思い出を五年間もけがし続けたんです……五年を経過しても、モニターの向こうの優子は三歳のまま……」


 うなだれる浩市。


「そっか……」

「もう……もう十分です……」


 浩市はうなだれたまま続ける。


「部長にもたくさんご迷惑をおかけしました……」

「迷惑だなんて、そんな……」

「オレ、知ってます……上層部や同僚から『ままごと男』って呼ばれてるのを……『アイツはAI相手にままごとしてる』って笑われているのを……」

「坂口くん……」

「同期から聞きました……飲み会の席で、オレを笑い者にしている同僚たちに部長が怒鳴ったって……『AIが坂口くんの家族だ! それの何が悪い! 坂口くんを馬鹿にするのはやめろ!』と……」


 浩市の頭をそっと撫でた三浦。


「だって……坂口くんはとても大切にしていたじゃない、家族を」

「部長はオレを理解してくれて、いつも助けてくれて……でも、オレ……」


 三浦は浩市を優しく抱き寄せ、耳元で囁いた。


「ねぇ、坂口くん」

「はい」

「もう我慢するのやめようよ」

「……」

「泣くのは恥ずかしいことじゃないよ」


 浩市は声を震わせた。


「ボク、部長を愛しています……」

「うん」

「でも、紗絵子も愛していて……」

「うん」

「優子も……」

「そうだよね」

「ふたりの思い出を忘れることなんてできなくて……」

「うん」

「でも、部長との思い出も大切で……」

「それでいいよ」

「でも……」


 三浦は浩市を強く抱き締めた。


「坂口くん、私はあなたに約束する」

「え……」

「坂口くんと、そして紗絵子さんと優子ちゃんも同じように愛するって」


 浩市は三浦の胸を顔をうずめ、小さく嗚咽を漏らした。


「あぅぁ……」

「だから、ふたりの思い出を大切にして」

「あああああぁぁぁぁ……」


 浩市の嗚咽が大きくなっていく。


「たくさん泣いて。いつだってこうやって抱き締めてあげるから」

「うあああああぁぁ……!」

「ふたりの思い出も一緒に抱き締めてあげるからね」


 そして三浦は、泣き叫ぶ浩市を強く抱き締めながら呟いた。




「だから、生きていこう」



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