うにとインテリ

和田島イサキ

疲れたおじさんが悩める女子高生と出会って人生観を語って無双するお話

 おしることアイスを同時に買う自由を当然の権利と信じて疑わない顔だ。


 冬が来る。あるいは来た。レジカウンターを隔てて向こう側、俺からは一等遠い世界の住人たる女子高生の、その細っこい首の白さが目に刺さって「ああもうそんな季節か」と気づいた。顔は見えない。ぼんやりとしか。コンビニのレジ打ちってのは不思議もので、正面に立つ誰かを人でなく〝フワッとした属性の塊〟に丸めちゃうところがある。それが一体どこからくるのか、それを考えるのも面倒だと感じる程度には俺も歳を取った。

 アイスにおしるこ。俺なら食えてどっちか片一方の甘味。いいなあお前らは甘いもん食い放題でと、そう思った瞬間「あーっ!?」と怒鳴られたっていうか急に降ってきた。肌が白くて背が小さくて、真っ黒いロングヘアをふたつに括った、見知らぬ女子高生のガチ説教が。


「最悪」


 侮蔑と嫌悪を隠そうともしない態度。そんな怒るほどのことかと一瞬思ったものの、でもその一秒後に「まあ怒るよね普通」と思い直した。

 あつあつのおしることアイスを同じ袋に入れたらどうなるか、その程度のことも想像できない程度の知能しかない事実上のチンパンジーがレジで金銭を取り扱っているこの国の平和ボケ加減にはほとほと感心します——と、そう言われては返す言葉もないけどなんでそこまで棘のある言い方すんのこの人って思う。

 怖い。こいつは平和を、己が身の安全を社会が保障してくれることを、つまり「人はみな必ず法律を守って行動するはずだ」という無根拠な見込みを、まるで物理法則か何かのような絶対の前提として信奉している。例えばいま目の前にいる男が、人生に疲れ果てたちょいのおっさんが、おしることアイスを同じ袋に入れちゃう程度の脳みそしかない最底辺の〝持たざる者〟が、お前のその態度に何を感じ胸のうちの天秤をどう傾けて、

「これっぽっちの刑罰で尊厳を買い戻せるなら全然お買い得」

 と判断してそれを実行に移すか、つまりいま体の脇で固く握られているかもしれないこの握り拳が、レジカウンター越しに真っ直ぐ飛んだ場合の着弾地点は果たしてどこと予測されるか、そういう方向の想像力はあんまり働かないタイプなのかな——と、まさにその着弾地点たるそれをいま初めてまじまじと見る。

 白い肌。小ぶりな鼻。怖い物知らずの大きな瞳が、臆することなく真っ直ぐ俺を刺す。

 それはおしることアイスを同時に食べても壊れることのない体を、当然の権利として微塵も疑っていない顔だ。


「でもおじさん、しませんよね。そんなこと。〝そんなことをしている自分〟をいちいち言葉にしないと想像できないタイプの人間は、結局いざってときに振るうべき暴力も振るえず、そんなだから守るべき矜持だって守れなくって、それでこんな田舎のコンビニでアイスとおしるこ一緒に袋詰めしてひと回り以上小さい子供に説教される程度の人生しか送れなくなるんですよ。無いんです。失くしたんじゃなくて、最初はなからあなたに尊厳なんて。よわむし」


 ぐうの音も出ない。仮に出たところでより手という局面、しかし事ここに至ってはそれも遅い。

 一手損。それを出すならさっきの段階でそうしておくべきで、被害が拡大してからの方針転換は悪手の典型だ。初志貫徹が常に正着とは限らないものの、しかし心の芯がブレたぶんだけ金星は遠のく。

 そういう意味でこいつはずいぶん肝が据わっていると言える。声の抑揚は実に淡々としたもの、表情なんかずっと冷たいままで、なのにくたびれたおっさんの心の弱い部分にスッと届いて早く効く、そんな暴言の嵐を即興かつこの精度でというのは大したものだ。心がない。たぶん「おっさん」という生き物を何か別の種として認識している。なるほどインターネットでクソみたいな動画を浴びて「はい論破」とか言って育った世代はみんなこうなんだろうな——と、まさしくこれこそ〝ぐうの音〟の好例。言って惨めになるだけの遠吠えなら言わないに限る。受けの一手だ。


「まあね。確かに俺は暴力は振るわない。インテリだからな、こう見えて」


「そうですか。自称インテリがアイスとおしるこを同じ袋に」


 くどい。いややっちゃった側の俺がくどいだのしつこいだの言えた筋じゃないってのはそうだが、でも実際、もうとっくに済んでいたの話だ。現に俺の、

「じゃあそれ俺が買い取るからいいだろ」

 という提案に、でも、

「は? 一番だめです」

 と謎の全面拒否を見せて、いつまでも解決を拒んでずるずる戦争を長引かせているのは、明らかにこいつの方だと思うのだが。


「自称インテリさんはわかっていないようなので言っておきますけど、私、この店舗のオーナーの娘なので」


 なるほど。つまりこいつは自分の親の権力を傘に着て、果たしてクビか季節商品のノルマ増かは知らんがとにかく俺を脅して、本当に「なんだこの攻撃性の塊」以外の感想がない。怖い。こんななのいまどきの若者って。言葉の棘だけならまだしもいま持ち出されたのは「親の権力」という明確かつ具体的な〝力〟、そうなるとこちらもこの場で服従か剣かの決断をしなくちゃいけなくなるんですけど——と。

 それはどうやら早合点というか、俺の思い違いだったのだがぶっちゃけそんな紛らわしい言い方する方が悪い。


「勤務中のちょっとしたミスです。あなた個人に賠償させるのはまずいですし、といってお店に弁償させたところで、それって結局うちの家のお金じゃないですか。わかります?〝詰み〟なんですよ。あなたのバカみたいな失着のせいで大損です」


 レジすぐそばのイートインスペース、微妙に溶けちゃったアイスをもぐもぐやりながらの文句。あるいは説教。よかった。他に客のいない半端な時間帯で本当に。こんなやつに説教されながら他の客のレジ打ちとか地獄もいいとこで、でもどうだろう、逆に人目があったらこいつもとっとと退散してくれてたのかもしれない。

 要は暇なのだ。小人が閑居して無力なコンビニバイトの四十代男性をいじめている。平日の昼間、曲がりなりにも県内随一の進学校の制服着てんだから学校にいろよと、そう言ってやってもいいけどやめておく。所詮は子供だ。どんなに棘だらけのウニみたいな女でも、その時点でおじさんの絶対的不利は揺るがない。


「言わないんですね。学校行けって。こんなとこで何ふらふらサボってんだって。そんなだから可愛い顔とは裏腹に性格ばっかりどんどん捻じ曲がるんだぞって。大人のくせに」


 ほれきた。いや思ってたのとちょっと違うのがきたけど(可愛い顔?)でも大まかなところは俺の読み筋の通りだ。

 そんなに構って欲しかったら先に謝るか親に言って俺の時給あげるかしろ——と、さすがに普段だったらそんなことは言わない。つまり言った。だって今は普段どころか非常事態、俺は今日までの人生でここまで言葉の棘で全身穴だらけにされたことはない。

 結局、俺もこいつと似たようなものだ。今の時代、暴力なんてどこまで行っても他人事の絵空事でしかないんだと、その現代人に特有の甘い認識を突然盤外から飛び込んできて木っ端微塵にしてくれたウニ界の暴走殺人ブルドーザーを相手に、俺からくれてやれる〝配慮〟はいま手駒に一枚もない。ここだ。もし俺に、何か「反撃の好機」とでもいうべきものがあるとするならば。


「ほーれ出た。そうやってわかりやすい『私いま感情ありません』みたいな仏頂面ぶら下げて、わかりやすく特に用もないコンビニうろうろしてどうせ何聞かれたって後腐れのない見知らぬおっさんにウザ絡みして、要らん言葉の棘で八つ当たり気味に『いま私とってもツラいんです』アピールして都合のいいときだけ〝子供〟を振り翳して大人に甘えるのはお前の勝手だがまずは覚えろ。加減を。学校じゃまず教えてくれんだろうが、加減をしないと人は死ぬ。特におっさん、いい歳してコンビニバイトくらいしか仕事のない死んだ目の無精髭の男は特にヤバい。脆い。実は立っているだけでももうギリギリで、ぶっちゃけ真面目に透析一歩手前で、おかげで最近はもう未来のある若いやつ見るだけでも胸のこの辺がギューってなっちゃってな、だからお前はそんなおっさん相手に自分が何やったか知」


「私、昨日、ヤクザに喧嘩売ってきたんです」


 突然の告白。詳しくは聞かない。聞きたくもないし何より彼女自身が言おうとしない。ただ大事な友達のためだと、それは身の安全もそうだけど彼女の栄誉と尊厳の問題でもあるから絶対明かせないのだと、別に聞いてもないことをベラベラ一方的に話した。

 俺は迷う。大人として、俺がいまこいつにしてやれる説教は何か? 人が話している最中に被せて自分語りをじ込むのは最悪で、反社のかたにそういう物騒なものを買わせるのはその次くらいに悪い。俺が困る。このウニがさっき俺にしたのと同じ調子でヤクザを穴だらけにしたと仮定した場合、報復の対象になるのはこいつ自身でなくまずその親からで、そしてその親ってのはこの店のオーナーであるからしてつまりこの店が危ない。みせしめの嫌がらせ先としてこんなにちょうどいいものは他になくて、つまりこいつの若気の至りのおかげで俺の身の安全がかなり現実的な意味でやばい。


「なるほど。じゃ、俺、辞めますね。オーナーさんによろしくお伝えください」


 信じていた。いつの間にか、心のどこかで、本物の暴力なんか他人事でしかないと。人なんて殴ったことないくせにというのはまさにこいつの言った通りで、実際インテリというのは文字通りの意味だ。こんなヤンキー生え放題の田舎じゃ俺みたいなヘタレの腰抜けは命がいくつあっても足んなくて、そのため死に物狂いで頑張った。お勉強を。

 なんのことはない、俺もこいつと一緒っていうかむしろ俺が先輩であり先達でありOB、制服のデザインが当時のままなのがあの頃を思い出させて胸にグサグサ刺さるくらいで、なのにこのウニはずっと自分の話ばっかでもうちょっと目上に対する敬意ってもんがあってもいいんじゃないのって思うがそれは言わない。

 十代は最強だ。世界が自分に投げかけるあらゆる「自分にとって好ましくない現実」を、全部自分への「理不尽な加害」に転換できる身勝手さと傲慢さと鼻持ちならない貴族主義とを無自覚に備えて、だからそれを叱ってわからせてやるのが世間の大人の役目だ——と、そりゃ教科書通りの綺麗事ではそうなるだろうが、実際そんなんじゃ世の中は回っていかないのだから仕方がない。

 必要だ。

 子供が猶予期間モラトリアムの殻から出るまでの間、誰かしら、手を汚して、巡り巡った鬼札ババを引き受ける役目は。

 子供自身にそれをさせない、そのために長々生きながらえているのだ、我々おっさんは。


「……おじさん」


 初めて聞くしおらしい声。そりゃそうだ。今時の若いもんは場の空気だけは読むというか、それらしい場面でそれらしい一手を外すことだけは決してない。俺がかけてやったのは優しい言葉ではなく、それまで着ていた上着——具体的にはこのコンビニの制服、それを無言のまま彼女の肩にかけて、そしてひとこと。


「長い間! くそお世話になりました!」


「おじさん?」


 辞める。さっき言った通り、いま世界で一番危険と思われるこのコンビニを。ついでにコーラとバナナとおじやだけ買ってそのまま店外に出て、自慢の愛車に乗り込んで急発進させる。

 三十六計なんとやら。バックミラーの中、おそらくは本気の罵詈雑言を喚き立てているであろうウニの、その姿がみるみる小さくなってゆくのに俺は安堵する。よかった。なに喚いてるか知んないけど、その内容が聞こえちゃわなくて本当に。おじさんの命は儚いのだ。現に健康診断とかバリバリ引っかかって、毎年同じ説明を聞かされる羽目になる。


「ちょうどいいじゃないですか。逆に、そんな壊れかけの命なら、私の身代わりに使うのに」


 ちょっと後、ウニの漏らした感想がそれだ。すげえなこいつ。確かにさっき「十代は最強」と言ったし実際その通りの傍若無人ぶりだが、しかしそこに「走って車に追いつく」の意を含んだつもりはない。きみ今からでも陸上部にでも転向したほうがいいんじゃないのと、その俺の薦めに彼女は答える。


「あのお店からここまで、せいぜい二百メートルくらいじゃないですか。そこに車停まってたら嫌でもわかります。ていうか、なんでこの喫茶店だってわかって——ていうか、陸上部ですけど。現に」


「じゃあサボんな。この時期にそんな生っ白い足晒して陸上もないよな。兼部はやめて一本に絞るといい。少なくとも向いてると思うよ、将棋よりは」


 将棋。その言葉に、どうしてそれを、という顔で固まるウニ。簡単なこと、さっきこいつは「失着」って言った。そんなの日常会話で聞いたことないから——ということにした。さすがに言えない。どうやら本気でわかってないらしい彼女に対して、まさか、

「お前ヘアゴムから鞄にぶら下げたマスコットから全部将棋グッズじゃねえか」

 なんて。ていうかどこで売ってんだそのクソでかい飛車のヘアゴム。


「調子乗らないでください。将棋はそういう、なんかシャーロックホームズのやるアレみたいなチートでどうこうできるような浅いものじゃないんです。日々の弛まぬ努力と研究、それと体力持久力根性に一瞬の閃き、なにより顔の可愛さといざというときの瞬足がものをいう厳しい世界で」


 そうやって最後に自分の絶対勝てる分野を入れて保険にする、その慎重さが悪口以外にも働けばこうはならなかった。どうしてこの喫茶店だとわかったか? 実に初歩的なことで、田舎の世間の広さなんてたかが知れてる。この辺でヤクザと言ったらまあ決まっていて、そこの大親分たる佐島の爺さんはほとんど毎日ここで縁台将棋に興じている。無類の将棋好きで、よく麻雀漫画にあるような賭け勝負を、将棋で本当にやっちゃうラブリーな爺さんだ。


「それがいよいよこんな小娘に手を出したとか、いよいよボケちゃったのかなあって。大丈夫?」


「バカタレ。お前よりはまだ全然ピンシャンしとるわ。この娘っ子は、友人のしでかしたことの責任を肩代わりするというんでな」


 しでかしたって何したの、と聞いたらなんと「わしの財布から金抜いた」とのこと。どうしよう。十割こっちが悪いやつだった。

「なあウニ。じゃあ、詰めよっか。指」

 その俺の提案に、でもしばらくキョロキョロした後、

「待って。ウニって誰。ていうか、なんでウニ」

 と彼女。すごい。思っていた以上に神経が太い。ウニの由来に不満は述べても、指詰めに関してはもう前提みたいな態度だ。


「バカタレ。さすがにこんな子供にそんなこたさせん。なぁに、ただ今から一局、わしの代わりに〝代指し〟してもらおうと思っただけでの」


 それがなかなか来んからわしもう終わったかと思った——とよく見れば涙目の爺さん。店内最奥の席、綺麗に駒の並べられた将棋盤の、その向かいにしかし対局相手の姿はない。はてな、と首を傾げるうちに店内入口付近、お手洗いの方から水洗の音が響いて、やがてそこから姿を現したのは——。


「お待たせしました。すみません、急にお腹が下って——それでは、始めましょうか」


 俺と同じく四十路前後、仕立ての良い三揃い姿も眩しい、苦味走ったいぶし銀の美形——。


「ありません。参りました」


 その場に土下座するウニ。おいバカやめろみっともないと引き起こそうとする俺に、でもウニは怒気っていうか殺意を剥き出しにして俺に食ってかかる。


「おじさん、目見えてます? 目の前の相手を誰だと思ってるんですか。ですよ。かじわら七段、最高でB級1組に在籍、一時はタイトルまで手の届きかけた〝最強〟の棋士」


「うん。プロな。確かにこの世代じゃ最強と言われてたが、それが私生活でいろいろ持ち崩してボコスカ負けまくって、今じゃヤクザの代指しなんだから世の中わか」


 パァン、と俺の頬を張るのが定跡の場面、そこで体重の乗った鋭い右ローを入れてくるんだから今時の若者は怖い。


「見損ないました。いくら役立たずのクズのキショい中年コンビニバイトでも、プロへの敬意くらいは持っていると思ったのに」


 本気の怒りと軽蔑。オイお前はどっちの味方なんだと、あとプロ棋士への畏敬の念ってそんな人口に膾炙した観念だったっけと思うが、まあわかる。

 実際すごい。プロ棋士というのは、例え〝元〟だろうと十分に。あの地獄の三段リーグ——と言っても俺は知らんので想像でしかないが——を突破したという事実は、その壁を超えられなかった数多の天才たちの存在を思えば、もうそれだけで尊敬を受けるに十分なものだがそれはそれとしてこのウニのそれはただのミーハーじゃんとも思う。


「あのねえ。将棋の世界ってのは結局勝ち負けがすべてでさ。どんな尊敬すべき相手だろうと、こうして敵として前に立っている以上、決着がつくまではァァァッ痛ったァァァなあダメだコレ全然痛み引かないんだけど何きみ空手とかもやってンアアアダメだ痛ァい!」


 引かない激痛に床をのたうち回る。惨めに足を引き摺って歩くのは、でもよくよく考えたら元々のことだから気にしない。爺さんに代わって席に着くと、梶原元七段に向けて「よろしく」と告げる。

 ちょうどよかった。金とかメンツとかの問題だったらそれこそ〝詰み〟だったけど、プロ棋士ひとりシバくだけで済むなら全然安い買い物だ。


「まあB級までならギリ捻れる。よかったー、A級常連のやばいトッププロじゃなくて」


 それも〝世代最強〟、暗黒時代と呼ばれた不作の年代の——ひどい言いようだけど実際そう言われてるのを実力で跳ね除けられない以上は仕方ない——つまり俺たちの世代の代表であり唯一の希望だった男だ。死ぬまでにいっぺん負かしておかなきゃと思ってた相手だと、その挑発に眉ひとつ動かさないのはなるほど腐ってもプロだ。たとえ私生活がガタガタでも将棋盤の前では別、格下のふっかける安い盤外戦術ケンカなど歯牙にも掛けないのだと、そのプロらしい高潔な姿勢を彼女もぜひ見習ってキックと罵倒の嵐をやめてほしい。


「なあウニ、そんなに元気ならまだ走れるよな。頼むわ、さすがにプロが相手となるとだけじゃ厳しい。もっと即効性のあるやつがいい。そうだな、バケツいっぱいの砂糖水——なんてもんはさすがにないから」


 アイスとおしるこ、ありったけお願い——そうウニをパシらせる傍ら口火を切る。☗7六歩。なんの捻りもないよく見る初手。おじやの器にバナナを放り込んでかき混ぜ、それを炭酸抜きのコーラで流し込む。染みる。ガリガリの体に糖分が。もう長らく摂ってなかった甘いものが、もうボロボロで朽ちかけの老いた脳細胞の奥、まだ希望に満ち溢れていたあの日の思い出を呼び覚ます。

 一日二十四時間ずっと将棋盤の前にいた頃。あの頃はなんでもやれた。誰でも倒せた。振り飛車で人を斬り殺すことだってできたと、壊れた脳みその見せる〝思い出〟には整合性がない。


 おじさん、とちょっと驚いたような声。気持ちはわかる。急にキャラ変わりすぎって言いたいのも。とはいえ質疑応答は後回しだ、どうあれ対局が始まってしまった以上、余計なことに費やす脳の容量はない。


「おやつ、お願いね。お金はそこのお財布から勝手に抜いていいから」


 趣味の悪い金ピカの長財布を指す。誰のか知らないけどパンパンに膨れ上がっているから、多少抜いたところでまあ大丈夫だろう。そんなことより問題は——眼前の敵。


「すでにご存知のご様子ですが、梶原と申します。あなたのお名前は」


ます。言っとくけど本名だからな。あと友達からはよく『チト田』って呼ばれる。あっそうだ後でサインちょうだ」


「そうですか。やはり聞き覚えがありません。あとお顔に見覚えも」


 淡々と進む序盤の駒組み。その最中、解せない、といった表情で首を捻る七段。そりゃそうだ。将棋の世界ってのはそう広くない。元プロに大見得切れるくらいの棋力の持ち主なら、まして同年代とくれば、顔見知りでないはずがない。

 答えは簡単で、でもまともに説明すると面倒で、だから「いろいろあったの」で済ます。

 家庭の事情でデカい大会には出なかった。代わりに中学くらいの頃、一足飛びに弟子入りと奨励会入りを決めたあたりで、ドカンと重めの病気をやった。不治の病だ。別に直接脳をやられたわけじゃないが、でも付き合っているうちにじわじわ脳にきたりすることもある病気だ。趣味で将棋続けるくらいはなんの問題もないけど、本気の対局となるとまあヤバい。コントロールできない。対局観戦の定番にして名物、おやつタイムで投入されるアホみたいな量の糖を。


「それで陸上一本に絞ったんだだけどさ、今じゃ足ももげちゃってこの有様よ。なあ七段、俺の人生ほんとにウンコよ? あんたは、俺らの世代の希望だったんだ。かっこよくってさ、ぶっちぎりの最強でさ、それに美人の嫁さんなんかもらっちゃって……まあ逃げられちゃったって聞いたけど。いま調停中だっけ」


「なんというか、わかりにくい人ですね。わざと煽ってるやら素なのやら」


「ごめんね。まだエネルギーが脳まで回ってなくって……ああちょうどいい、ウニも戻ってきたみたいだし、そろそろいけるよ。お待たせしました」


 息せき切って駆け込んでくるウニ。一番でかいレジ袋、ぎゅうぎゅう詰めにされた俺のガソリン。おいバカなんで全部同じ袋に入れちゃうんだ溶けちゃうだろアホかと、その苦情もどこ吹く風で盤面に食いつく。「どうなってます!?」と爺さんに尋ねるその表情。いい根性だ。思いのほか見込みがあるというか、思った以上の好きものと見える。


「まだ序盤の駒組みが終わったとこかの。ここまでは予定調和みたいなもの……らしいの。よくわからんが、ふたりを見るに」


「横歩取り……」


 そう。わりとややこしい乱戦になりがちな戦型。この梶原という男、涼しげな甘いマスクと落ち着き払った性格に似合わず、泥臭い殴り合いの類にすこぶる強い。そういうところも好きだった。四十くらいなら棋士としてはまだ全然若いし、アイドル的に売り出せばきっと普及に一役買えたはずの男が、でもよりにもよって最もスキャンダラスな形で引退しちゃって、わりと真面目に「なんでだよおおお」と枕を濡らしたのは俺だけでなくなんとウニもだって聞いた。やっぱミーハーじゃないか。わかる。かっこいいもんな梶原。


「だがその梶原最強伝説も今日で終わりだ。なあ七段、あんたもこんなとこまで落ちた身だ。まさか今更、ルール無用のヤクザの代指しで、すわ卑怯ぞとは言うまいな?」


「何がです。盤外戦術、というか、言葉の棘による揺さぶりがですか」


「ドーピング」


 ハンドポーチから取り出したペン型の注射器。実はわりと最近新調したもんで見せびらかしたくて、「見て見てこれBluetoothでスマホと連携できるの。マイニューギア」と自慢したものの反応は薄い。まあ仕方ない。スマホ連携といっても出来るのは投薬量を記録する程度、AIとかが「俺の脳のぶっ壊れる瀬戸際の投薬料」を見極めてくれるわけじゃない。


「面倒なのよ。ちょっとでも多ければ脳がイカれる、逆に足りなきゃ足がもげて目が潰れる。こんなに食ったらもう適量なんかわかるわけなくてさ、でもまあ、逆にシンプルでしょ? 要はコレ、打てば打つだけ回んのよ。エンジンに、ガソリンが」


 それを打たずにバナナおじやコーラなんか食っちゃったもんだから、いま俺の全身の血液、行き場をなくした糖でもうパンパンだ。細工は流々、過剰な糖が全身の毛細血管をゴリゴリ削って、末梢神経や眼底が滅茶苦茶に破壊にされるのを感じる。そこに、流し込む。糖を受け渡すための継ぎ手たる薬を、最大の30単位Unitほどいっぺんに。


 さあ来た来た来た——なんて露骨にテンション上がるような危ない薬じゃないけど、でもわかる。

 動き出す。静かに、でも普段とは比較にならない速度で、盤面に起こりうるこの先の未来、その筋道が無限に枝分かれするのが視える。そのすべてが、一手一手の有利と不利が、くっきり明瞭な像を伴って脳内に立ち上がってくる。この感覚。もはや薄ぼやけてろくに見えない盤上の、しかしそこで繰り広げられる無限の攻防が、まるですべて俺の手中にあるかのように感じられるこの状態はアレだ、


「やっべ打ちすぎた。あっダメ震え止まんない、ごめんウニしるこ取って早く死んじゃう」


 震える手でぬるいしるこをがぶ飲み、溶けたアイスを袋から啜る。あめえ。美味うめえ。いわゆる「お袋の味」がなぜ美味いかっていうと、それが多くの人にとって幸せな子供時代の記憶と結びついているからだ。俺はコレだ。糖の甘み。俺のエンジンがフルスロットルで走れていた頃。誰とも戦え、誰でも倒せて、文字通り〝最強〟を実感できていた頃。

 並び立つものは誰もいない。〝最も強い〟。その玉座に収まることができるのは、ただひとり。

 ——俺か、お前か。


「やっぱさあ、やめらんねえんだよなあ。医者は怒るけど、これだけは——将棋コレだけは」


 さあろうや、といよいよ切り開く戦端。ちょっとつまんない話をしちゃうんだけど、実はこのときすでに勝負はついていた。

 ここまでが仕込みだ。全身汗だくにして、震える指先で差し進められる一手。棋士ってのは文字通り命を削って一手一手を指すものだが、それがここまで即座にかつ明瞭に可視化されたことが、果たしてこれまでの彼の人生にあったろうか?


 人生で初めて遭遇するもの。すなわち新手。その程度で動揺するプロではないが、反面、それは確実に相手の思考の容量リソースを削る。脳が勝手に検討のための容量を割いてしまう。得体の知れぬ闇を目の前にしたとき、ついその中身を想像してしまうのが人の知能だ。抱え込ませた重石は、俺の命でできている。振りほどけない。どんなにもがこうと、なりふり構わず足掻こうと、もう遅い。遅すぎた。ここまで落ちてしまったお前は、あとはただひたすら沈んでいくのみ。


 この忌まわしい八十一の升目の中、声もなく静かに沈んでいった、数多の天才と同じように。


「……ありません。参りました」


 投了。意外と早かったな、と思う。もう少し粘るかと思った。確かに詰みはもう見えていたけど、しかし俺がそこに見落としをしていないだろうと、彼がそう判断するのはもう少し先かと思った。


「光栄だなあ。プロに認めてもらえたようなもんだ。オイやったぞウニ。見たか。俺が最強だ」


 やーい羨ましいか、と自慢するも、でもなんか全然聞いてないウニ。まだ盤面に釘付けで、「いいから感想戦」とめちゃ怖い声で俺にせっつく。額にうっすら汗まで浮かべて曰く、「何が何だか全然わかんなかった」とのこと。

 そりゃそうだ。解説もないし、パソコンでも持ち込んでなきゃ厳しいだろうなと、それをやった当人である俺が言うのはなんか嫌味な気がしたのでやめる。


「升田さん。あなたは、本当に強かった。それがどうして、本当にもったいない」


 俺だって思う。もったいねえなあって。甘い夢物語を承知で言うなら、もし奨励会に入れていれば、三段リーグを突破できていれば、あるいは〝最強〟の称号は俺のものだったかしれない。

 が、そうはならなかった。どうあれ俺はこの田舎の片隅でひとり、未練たらしく趣味で観戦と研究を続けながら、脳と体を壊しつつずるずる生き永らえている。あるいは、死に損なっている。そんなもんだ。それが俺自身の選んだ人生であれば、それを今更どうこう言っても仕方ない。


「これしかないのよ。公式戦で毎回こんなことしてたらとっくに死んでる。となりゃ結局、ここぞと決めたところで、これぞというプロを辻斬りするくらいしか」


 格好つけて嘘をつく、この見栄っ張りな性分もあるいは原因のひとつか。そんな上等なものじゃない。実際指そうと思えばこうして指せるわけだし、もしかしたら同じ病気を抱えてなお諦めてない奴だって——単に公表してないだけで——いるんじゃないかって思う。

 が、俺には無理だった。〝投薬の結果によっては脳にダメージが来る〟、その事実ひとつがまだ青かった俺の心をポッキリ折って、失ったそれは棋士として何より欠くべからざるもの。

 闘志。

 皮肉な話だ。ボロボロの半端な人生を送って、二度と浮き上がれない奈落の底にまで落ちて、それでようやく「逆にこんな命や脳みそならなんも惜くないじゃん」と居直れたんだから。


「でもさあ、こんなこと言ったら絶対怒られるとは思うんだけど。もったいない度合いで言ったら、七段、あんた人のこと言えなくない?」


 怒られた。いや別に間違ったことは言っておらず、実際「元プロが今はこれ」ってだけでももったいない界最強の男には違いないのだけれど、でも仕方ない。

 たとえ事実だろうと、でも事情も知らん他人が言っちゃいけないことってのはある。どんな人生にもその人なりの悩みや苦しみってのがあって、だからそれを安易に羨むようなこと言うのは、いわゆるデリカシーの欠如ってやつだ。


「でもよかった。あんたの人生ボロボロで、それでもなお捨てられなかった将棋でもこんななんだかわからん病気の死に損ないに負けて、もうあんたの人生なんもないな! 命以外」


 生きてるだけで儲けもん、全部失くしたらあとは得るだけだ——という意味のつもりだったし実際俺は大体そんな感じで生きてきたのだけれど、でも七段にはデカい借金があって返すあてもなくて、でも俺と違って売れる臓器はいっぱいあったのだと後で知った。最悪だ。こんなのノンデリカシー界最強の男と言われても仕方がなくて、でも七段は笑っていた。そうかもしれませんね、と爽やかに。だから大丈夫だと思いたい。

 俺は知ってる。今の時代、平和と安全でガッチガチに固められたこの社会、頓死ひとつするのもそう簡単にはいかないのだ。生きちゃう。もうおしまいでいいのにと思っても。実際、俺がこうして無駄に生き永らえているように、彼だってそう簡単には死ねないだろう。

 終盤の展開。圧倒的な不利を跳ね返そうとする、あの死に物狂いの粘り腰には舌を巻いた。彼の公式戦の棋譜は全部頭に叩き込んであって、でもここまでしぶといタイプって印象はまるでなかった。あるいは落ちて沈んで得たものだろうか? 死地にあってなお楽には死ねない性分。まあ当然だ、あんなケダモノ同然の闘争心を裡に抱えていればそうなる。


「存外、ウニも似たタイプかもしれんね。知らんけど。だいたい俺きみがどの程度の棋力なのかも知らんし」


 ただあの過剰な攻撃性はちょうどいいリハーサルだったな、と今にして思う。ウニの棘で穴だらけにされた死に体の心に、もはや怖いものは何もない。実際おっさんにはプロ棋士なんかより女子高生の方がずっと怖い。何考えてんのかわかんないし、妙に怖い顔でずっとこっちを睨んでるのも怖い。なんかしたっけ俺。


「最強、って言ってましたよね。それじゃあ、やっぱり証明したかったんですか。梶原七段を下して、本当は俺が最強だって」


 いや別に、というかもともと最強云々言い出したのきみじゃないっけと思うが、しかし言われてみれば嫌いな響きではない。最強。最も強いってのはつまり最も強いってことで、並び立つものがないというのがいい。名人と同じだ。ただ名人の称号は畏れ多いっていうか名人以外で勝手に名乗っていいのは高橋・橋下・毛利くらいだけれど、最強なら別に肩書きでもないし気軽で気安い。


 最強を証明したかったかどうか。そうかも、と答える。そうじゃの、となぜか爺さんまで同意する。そうですね、ともしまだ七段が帰ってなかったらそう共感してくれてたかもしれない。そうですか、と何か考え込むような仕草のウニは、それから急に思い当たったような顔で訊く。


「おじさん。名前は」


「だから升田だって。信じてくれよ、本名だし結構気に入ってるのよ」


「じゃなくて。下の。ファーストネーム」


 ああそれ。そういえば七段にも名乗ってなかった。こっちはあんまり好きじゃないから、特に聞かれでもしない限り自分からは名乗らないのだが——。


とらろう。言っとくけどこれも本名で、ずっと『いいだろ男らしくて』って見栄張ってきたけど……わりぃ、やっぱつれぇわ」


「そうですか。寅次郎。ますだ、とらじろう」


 そのまま沈黙、そして長考。たっぷり一分くらいは考えたのち、いよいよ繰り出されたその一手は——。

 やっぱり、わからん。若者の言動ほんと怖い。さっき適当に「十代は最強」って言った気がするが、もしかしたら普通に真実かもしれない。


「最強の虎、ってことですね。じゃあこうします。この私、十条高校将棋部のエースことたつおう、最強の肩書きは今日をもって返上して——」


 無敵の龍。それで文句ありませんね——とウニ。

 何が。というか、どうした急に。俺はお前が最強を名乗ってたのも知らなかったし、ギリギリ母校の後輩らしいのとミーハーな将棋ファンなのはわかっていたけど、でも何言ってんのウニのくせにと思う。

 聞いたことがない。寡聞にして、ウニが龍に成るなんて話は。


「そんなこと言ったらそもそも虎なんて駒はありません」


 さすが無敵。はなから人を駒としてしか見ていない。店舗経営者の娘らしい帝王学ってやつなのかもしれないが、問題はその結果下された結論だ。

 律儀にも今まで羽織りっぱなしだったコンビニの制服、もともと俺が肩にかけてやったそれを、再び俺へと突き返す。そして告げる。何やかやお世話にはなりましたから、時給については親に掛け合ってみます——と。

 そして。


「その代わり、辞めるのはナシです。ちょいちょい遊びに行くのでよろしくお願いします。本来並び立つもののない〝最強〟の隣、〝無敵〟なら文句ないでしょう?」


 教えてあげます。一から、一般的な社会常識、例えば温かいおしること冷たいアイスを同じ袋に入れることの不合理などを——気持ちはありがたいがそれはさっき学んだ。というか俺の後追いでそれをやったお前からそれ教わんなきゃなの俺って思う。その言葉にでも「何がです?」とウニ。すごい。こいつ自分がやったという事実そのものに気づいていない。

 十代は無敵だ。あらゆる「自分にとって好ましくない現実」を、全部自分への「理不尽な加害」に転換する以前にそも認識すらせず、ただ綺麗で優しいものだけ選んで詰め込んだキラキラ眩しいお弁当箱みたいな世界に、持てるケダモノの闘争心全部燃やして生きている。


 ——それでいいと思う。というか、ただ純粋に羨ましい。


 全速力で駆け抜けること。思い切り、好きなだけ脳と体をぶん回せること。それは青春を生きるものの特権だ。その権利を失って久しいボロボロのこの身に、怖いもの知らずのその命はただ眩しく輝いて見えた。これが光か。これが命か。俺は知らない。こいつの他に、実質ヤクザの根城でこんな楽しげにふんぞり返る子供を。言葉の棘で人を穴だらけにしといて、でもここまで綺麗に「まあいっか、終わりよければすべてそれで」の枠に、自分をするりと捩じ込むことのできる女を。


 ——面白い。こんな無茶苦茶な人間が、一体どんな将棋を指すのか。

 いつもそう。思えば、その興味だけで死に損なってきた。いまや足の指も詰めたし目はほとんど見えない、頭の方もどこまで無事か知らんが、でもよかった。死んでいない。いなかった。〝誰かに興味が湧く〟というその感覚だけはまだ。

 残された時間はごくわずかか、それともずるずる苦しみながらもうちょい続くのか。いずれにせよ人生のにあたるその道に、何かちょっかいかけてくるやつがいるというのは、きっとこれ以上ないくらい嬉しくありがたい話だ。


 改めて見る。視力の有無に関係なく、最初はまるで見えなかったその顔を。

 自分で可愛いというだけあって、なるほどそう悪くない自信満々の彼女の顔を。


 若さゆえの無謀こそ、最強の武器でありまた無敵の特権。


 それは最強と無敵をひとところに置く、その無謀を当然の権利と信じて疑わない顔だ。




〈うにとインテリ 了〉



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うにとインテリ 和田島イサキ @wdzm

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