幸せなふたりは踊る
(いつまで経っても、恥ずかしい、かしら……?)
クラウスを見上げる首の角度は、もうすっかり身体に馴染んだ。宵子が声を取り戻したことで、互いの国の言葉の上達もますます早くなって、会話にも不自由しなくなってきている。
それでもなお、彼の端正な顔を間近に見ると、そして、彼に見つめられているのを意識してしまうと、宵子の頬は熱くなってしまう。
真っ赤な
「貴女の顔を、隠さないで欲しい。婚約者なのだから」
「は、はい」
両頬を彼の手で包まれて、顔を上向かせられる。
クラウスの指や掌の温もり。少し硬い感触。
青い目が間近に覗き込んで──形良い唇が微笑む時に漏らした吐息が、宵子の産毛をくすぐる。
(やっぱり、駄目……っ)
宵子は、ふるふると首を振ってクラウスから逃れた。一歩、二歩、後ずさって、整い過ぎた顔と距離を取る。
「す、少し離れてくださいっ。まだ、慣れなくて……!」
「……では、これは? 指輪を並べて見せて欲しい」
幸いに、クラウスは気を悪くした様子はなかった。
でも、だからといって宵子を解放してくれる訳でもなくて。熱い頬を押さえる宵子の手が、そっと取られて彼の掌に包まれる。
クラウスが言った通り──彼の長い指と、宵子の細いそれには、お揃いの金の指輪が輝いていた。
(これが、婚約の証……)
指輪を飾る小さな青い宝石は、クラウスの目の色でもあり、陽が沈んですぐ、昼の色をまだ残した空の色──
夫婦となるふたりが、指輪を交換する。
そう、宵子はクラウスに求婚されて、それを受けたのだ。
女に爵位を継ぐことはできないから、
宵子も、
でも、クラウスはこう言ってくれた。
『俺は──この血を恥ずべきものだと思ったこともある』
『そんな……』
あんなに綺麗な毛皮で、風のように駆けられるのは素敵なことだと思うのに。クラウスの卑屈なもの言いは、宵子を驚かせた。
『だが、あの犬神の言葉を聞いて考えが変わったんだ』
そんなことはない、と言おうとした宵子を遮って、クラウスは軽く笑った。そして、彼女の左手を捕らえて、薬指に素早く指輪を通したのだ。
ずっと傍にいてくれる、と言われたのが、単なる友人という意味ではなかったことに、宵子はその瞬間まで気付いていなかった。思えばずいぶん大胆なこともしたけれど、外国の流儀はそういうものだと思っていた──あるいは、そのように思い込もうとしていたのかもしれない。
『少なくとも、狼の血のお陰で宵子を助けられた。俺の先祖も、獣の姿で民を守ってきたそうだ。真上家も、本来はそうだったんだろう。……古くから伝えられる思いまで絶えさせることはない。共に繋げていくことはできないか……?』
クラウスの熱を帯びた声と眼差しは、宵子の思い違いを根底からひっくり返した。ふたりの将来を真摯に語ってくれたのだと分かった。だから──宵子は一も二もなく頷いたのだ。
──その時の記憶を噛み締めていたから、宵子がクラウスにずっと手を握られていることに気付いたのは、彼がくすくすという声を聞いてからやっと、だった。
「今度は逃げないんだな。良かった」
「お、思い出させないでください。意識すると、恥ずかしいから……」
「では、このまま少し話そうか」
宵子の頬の熱は、いつまでたっても冷めてくれない。しかもクラウスは手を握ったまま離す気配もなく、広々とした応接間を見渡すのだ。
「ずいぶん綺麗に片付いたな。……これだけ広いと、
「え、ええ。そうですね……?」
訳が分からないまま頷くと、クラウスは嬉しそうに微笑んだ。そして、右手を宵子の背に回す。舞踏の時に、男女で組む格好だ。
「最初に会った時のように、踊らないか」
「構いません、けれど……音楽もないのに、ですか?」
首を傾げながらも、宵子は右手を掲げてクラウスの左手を握る。すると、金の滑らかさが指に感じられた。
(クラウス様も、指輪……)
お揃いなのだ、夫婦になるから。
ときめきに燃える宵子の胸に、クラウスはさらに蕩けるような囁きで油を注ぐ。
「貴女の手を離したくないんだ。握り続ける口実なんだ、実のところ」
「……っ、は、はい! 喜んで……!」
全身に火のついた思いで答えながら、宵子は左手をクラウスの二の腕に添えた。
口で拍子を数えながら、ふたりして踊る。
さすがに舞踏室よりは狭い室内だから、多少、控えめな動きではあるけれど──だからこそ、踊りながら言葉を交わす余裕もあった。
くるくると回りながら、宵子はさりげなく切り出した。
「クラウス様。また、狼の姿も見せてくださいね。クラウス様はいつも素敵で、
ゆるやかな波のような
(あの耳……毛並み……尻尾……!)
わくわくとした期待が、触れ合った手や身体から伝わったのだろうか。宵子をリードして、スカートの裾をふわりと舞わせながら、クラウスは苦笑した。
「そして、撫でてくれるのか? 可愛い姿でも中身は俺だが……それは、良いのか?」
彼に身体をゆだねて、美しく首と背をしならせる
彼女の視界に映るのは、彫刻のように整った容貌の、麗しくも凛々しい貴公子。でも──白磁や磨いた大理石もかくやの白皙の頬が、今は赤く染まっている。
(……まさか?)
甘い言葉で赤面させられるのは、いつも宵子のほうなのに。
「もしかして、クラウス様も恥ずかしいのですか?」
思い切って尋ねてみると、ぼそりと
「好きな人に触れられたら、恥ずかしいし嬉しいに決まっている」
次に踏み出した彼の足幅は大きく、回転は早く。宵子の軽い身体は動きの波に乗ってぐるんと回った。その速さに壁紙の模様が溶けて混ざって、宵子は歓声を上げて笑う。
「クラウス様……速い、です!」
風に舞う花びらや雪片の思いで、宵子はしばし浮遊感を楽しんだ。
クラウスと手を取り合って、彼の回転に身を任せることで、宵子はほとんど力を入れなくてもくるくると回ることができる。まるで、空を飛んでいるかのように。
人生は、きっと舞踏のように楽しいだけのものではない。でも、ふたりで共に進むならきっと大丈夫。
(だって、こんなにも息が合って、心が通じ合っているんだもの……!)
観客も音楽もない、ささやかな舞踏会だった。でも、楽しくて満たされる。
このひと時は、宵子にクラウスと歩む未来の美しさと幸せさを確信させてくれた。
そして回転が止まった時──
「──宵子。愛している」
「はい。私も」
思ったことをそのまま相手に伝えられるのは、なんて幸せで大切なことなのだろう。胸に込み上げる温かな想いを、宵子は大きく息を吸って、吐いて味わった。そして、そっと目を閉じる。──クラウスの整った顔が近づいて来るのをじっと見つめるのは、あまりに恥ずかしくて耐えられそうにない。
(物語なら、めでたしめでたし、で終わるところね……?)
クラウスの腕に力がこもるのを感じながら、宵子は夢のようなことをふと思う。
宵子の呪いはもう解けたけれど、愛も口づけも不思議な力があるのは間違いない。
唇に温かく柔らかな感覚が触れるだけで、こんなにも幸せな気分に浸れるのだから。
* * *
今話にて完結です。最後までお読みいただきありがとうございました。
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呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》 悠井すみれ @Veilchen
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