03 あなたの化けの皮

 俺は想像する。

 身も心もボロボロになって、執念だけで生き延びてこの街まで帰り着いた火戸じいと、火戸じいを亡くした悲しみの中で唯一縋れるものに縋った、左手の薬指に指輪をした朝子さんの姿。

 朝子さんの姿を知らない俺の中の想像の中では、朝子さんの顔立ちはさやかさんそのものだった。


 その後、朝子さんは呆気なく亡くなった。まるで、花がしおれていくように生きていく気力を無くし、亡くなったのだという。

 藤浦と朝子さんの間に子どもは無かった。残されたのは、朝子さんが手ずから庭に植え毎日大事に世話をしていた桃だけだった。


 遠い日の記憶のかげろうを見たように、火戸じいは庭に目を向ける。その先にある黒々とした木を見て、俺はハッと勘付いた。

「あの木ってもしかして」

「病院から抜け出して、一度だけ朝子に会った。その時、朝子からもらった桃だよ。けどな――実をつけないんだ」

「え?」

「実りはする。けど、すぐに落ちる。食べられたもんじゃない。でも、花は咲いて次の年も実をつける。だがすぐに死ぬ。あれはそういう木だ。俺はまだ、あの木になった桃を食べたことがない」

さやかさんが静かに言った。

「同じ枝なのに」

「……だからだろうなぁ」

「え?」

「藤浦が、俺に桃を贈ってくる理由だよ。なんであいつが、あんな高いところに家を建てたかわかるか? 俺を見張るためだよ」

「え?」

さすがに、乾いた笑いが口の端からこぼれる。

「いやいや、それは流石に考えすぎじゃ」

「前にな。たまたま町で会った時にあいつに開口一番言われたんだ」


――毎日ラジオ体操ご苦労さん。

――何故分かる。

――見えるんだよ、俺の家からお前の家は。


火戸じいはため息をついた。

「あいつの、ニタァって笑った顔ったらなァ」

「でもどうしてそんな、監視するなんてよっぽどの事がない限り」

「許してないんだろうよ、俺の事を」

「許してない、ってどうして?」

「……朝子を追い詰めたのは俺だからだ」

「え?」

「藤浦の家に行って、朝子に会った時――あと二年、待っていてくれたら、とそう言った。朝子は……ごめんなさい、と一言だけ言って、俺に桃の枝を渡した。それだけだ。けど、その後食欲も何もかも無くなって死んだ。じゃあ、俺が原因だろうよ」

 俺は火戸じいの濁った目を見て、ぼんやりと思った。きっと、火戸じいの胸の中にも、自責の念があるのだろう。長くため込み続けて、厚い泥のように重なった自責の念。きっと火戸じいは毎日桃の木を見る度に、そうやって自分を責めて――


 くつくつ。

 くつくつくつ。


 それは――火戸じいが喉を鳴らして笑う声だった。

「え? ど、どうしたの火戸じい」

「俺はな、そういう意味では藤浦に勝ったんだよ」

「か、った?」

「ああ。だってそうだろう」


 火戸じいはひどく咳き込む。全身をくの字に折り曲げ、大砲のような咳をしながら、それでもおかしくてたまらないというように、喉を肩を瞼を震わせて笑う。


「最期の最期の瞬間。朝子は俺の事を気に病みながら死んだ。藤浦の事じゃあない。俺を想いながら朝子は死んでいったんだ」

火戸じいは唇を曲げて笑みを刻み、庭の桃の木を指した。

「あの桃の木は実をつけない。そうさ、俺は朝子をさいなめた。だからきっと、朝子に恨まれてもいる。だが朝子から向けられるものなら俺はなんだって愛しい。はは、ハハッ、藤浦には到底手の届かないコトなんだよなぁ、これは」


 本当に、火戸じいか?

 明るくてハツラツとしていて、教え子たちからの人気者。

 そんな火戸じいが、一人の女の最期の気を引けたとほくそ笑む表情を、俺は信じられない思いで見ていた。目の前で起きていることなのに、映画の一シーンのように縁遠い。


 いや、もしかして――俺は火戸じいの一面しか、知らなかっただけなのか?


***


 火戸じいの告白は、嵐のようだった。

 相当な体力を使ったのだろう。何年も年を取ったような困憊した様子で、火戸じいは寝室に向かった。


 扇風機を回してから、そっと火戸じいの部屋を出る。

「なあ、藍」

「なに?」

薄暗い部屋の中、火戸じいの声だけがした。

「俺は後悔してねぇよ。なんにも、後悔しちゃいねェよ」

俺は、薄暗い部屋から目を背け、蛍光灯に照らされた廊下を見て、言った。

「でも火戸じいは、許してくれって言ったじゃん」

部屋の奥から聞こえた息をのむ音は、ごまかせないようだった。

「おやすみ、火戸じい」

これ以上ここにいると、何か恐ろしい生き物に飲み込まれる気がする。そんな気がして、俺はそっと戸を閉めた。


 居間に戻ると、さやかさんが卓に向かい、静かに桃を剥いていた。銀色のナイフが、蛍光灯の光を受けて水底のガラスのようにきらきら光っている。


 俺はため息交じりに言った。

「藤浦さんは、朝子さんが育てていた桃を火戸じいに贈ることであてつけていた。ってことは、さやかさんを復讐の道具として利用していたんですね。なんてひどい」

さやかさんにはもう、こんなことに巻き込まれないでほしい。そんな思いでいっぱいだった。


 だが、さやかさんはさらりと言った。

「私ね。全部、知ってたよ」

「えっ?」

「知ってたけど、センセイの言葉で聞きたかった。だからよかった。今日、やっとセンセイの口から聞けた」

「全部知ってた……? え、知っているのに、なんで桃を届けるんですか?」

さやかさんは、手慣れた様子で桃を剥きながら答えた。

「私ね、高校三年間、ずっと先生から避けられてた。センセイは私だけ、絶対に目を合わせてくれなかった。周りの子と明らかに扱いが違った。だからこそずっと先生が気になってた仕方なかった」

さやかさんは小首をかしげた。

「なんだろうな、謂われなく嫌われるのは分かるんだ。人間の相性ってあるし、嫌われることって、仕方ないから。でも、先生の目は違ってた。先生はあたしに嫌悪とか嫉妬とかの目を向けるんじゃなくて、あたしからとにかく目を逸らしてた。それがね、あたしには、怯えに見えた」

「怯え……」

今日の話を聞く限り、さやかさんのその直感はきっと当たっているんだろうと俺は思った。さやかさんの指から透明な果汁がしたたり落ちる。

「それがね、不思議だった。あんな怖い物ナシで通ってる先生に、なんであたし怯えられてるんだろう、って。ずっと分からなかった。でも、高校を出て、大学を出て、そして親戚から――あたしが藤浦のおじさまの会社に入社したことを知った親戚から、事の顛末を聞いてね。それで……藤浦のおじさまと会社の中でお話していた時に、庭の桃が実ったっていうから。今までは宅配便で火戸センセイに送り付けてたってことを知ってたから、あたし言ったの」


――よかったらあたしが持って行きましょうか。


 「さやかさんが、自分で……?」

「そう」

ぱらり、と剥き終わった桃の皮が落ちる。


 「だって火戸センセイをあんなに怯えさせられるの、この世にあたしだけなんだ、って思ったら……楽しくて」


 さやかさんはそう言ってころりと微笑んだ。

「はい、あーん」

何が起こったか分からない。目の前の光景、言われた言葉、すべてが他人事で平面になって俺の周りを通り過ぎていく合間に、ぷちゅ、と唇に冷たい物が当てられる。


 剥かれた白い桃の一切れが、俺の唇に押し付けられる。ぞっとするほど冷たく、甘い。さやかさんの細い指が桃を押し込むし、それは口の中でつるつる滑るから抗えない。さやかさんの黒い瞳は、笑ったまま俺を見ていた。


 咀嚼しなければならなかった。

 吐き出すことは許されなかった。

 絶望的に甘い。痛いほど冷たい。逃げ場のない透明感。

 木のうろのように黒い瞳に見つめられながら果肉を噛んでいる内、緊張して頬肉を噛んでしまった。痛みを感じる心の余裕は無い。口の中に溢れる果汁に、鉄っぽい血の味が混ざる。


 何回噛み砕いただろう。口の中でぬるくなった果肉を、無理やり、押し込めるように飲み込んだ。

 真っ黒なさやかさんの双眸が、桃を咀嚼して飲み込む俺をじっと見つめていた。


 俺は目が離せなかった。


 「藍ちゃん」

研がれた刀の切っ先のような、きらめいて涼しい声が俺を呼ぶ。

「桃、美味しかった?」


 俺は静かに頷いた。

 遠くでぬるい夜風が吹き、場違いな風鈴が鳴る。

 さやかさんは微笑んだ。細い指が、またもう一切れをつまむ。


 「もっと、食べたい?」




<終>

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あなたの化けの皮、甘い 二八 鯉市(にはち りいち) @mentanpin-ippatutsumo

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