02 あなたは一度死んだのに

 火戸じいが病院に運ばれて数時間後。 


 「え、さやかさんって今あの藤浦酒造で働いてるんですか?」

「あら。あの広告の看板の指、私だって知らなかった?」

「え、えぇえっ?」

とんでもない事をさらりと言うのに、クスッと笑った茶目っ気で大体許される。さやかさんは昔からそういう人だ。


 結局、病院に運ばれた火戸じいに重要な疾患は見つからなかったらしい。俺もさすがに一度は家に帰ろうとは思ったのだが、主を追って玄関で寂しそうに鳴くイチジクを見ているといたたまれなかった。

 で、結局、さやかさんと二人でボーイスカウト時代の昔話やら近況を話している内に火戸じいはタクシーで帰ってきたのだった。


***


 「火戸じいおかえり。よかった、大したことなくて」

「周りが騒ぎすぎんだよ。転んだだけだ」

ぶっきらぼうな口調だったが、火戸じいがひどく疲れていることは明らかだった。


 「センセイ、ああよかった。台所勝手にお借りしましたからね」

キッチンから、さやかさんが顔を出した。俺は火戸じいの横顔を覗き見て、やっぱり、と思った。倒れたときほどではないにしろ、火戸じいの目には明らかに動揺が浮かんでいた。

 火戸じいは、乾いた唇をぺろりと舐めてから言った。

「勝手にやってくれ」


 俺は火戸じいの背に手をあて、居間に座らせてからその目を覗き込んだ。

「なんかさ。病気とかもあるかもしれないけど、今日の火戸じい、明らかに様子がヘンだよ」

「変な言いがかりつけんな」

やっぱり、言ってることはいつもより荒々しいぐらいだけど、とにかく声に覇気がない。俺は、思い切って尋ねた。

「許してくれ、って何?」

火戸じいはたるんだ瞼を大きく開いた。深い茶色の瞳が、ふるふると震える。そしてバツが悪そうにすぐに伏せた。

「なんでもねぇよ」

「なんでもなくはないでしょ」


 俺は、言った。

「さやかさんのこと?」


 図星だ、というのは、火戸じいの顔を見れば分かった。火戸じいの目が、硬直していた。


 「ねえ、一体何があったの?」

「……」

首を垂れる火戸じいの前に、いつの間にかやってきていたさやかさんが座った。すっ、と口を真一文字に引き結ぶ。大きな目が先生を包むように見つめる。

「センセイ。いくら私だって気づきますよ、先生に避けられてることぐらい」


 観念したように一つ、深く息を吐き。

 火戸じいは語り始めた。


***


 「朝子のことだよ」

朝子、という言葉は俺には全くピンとこなかったが、さやかさんは心当たりがあるようだった。俺の怪訝な視線を感じ取ったようで、さやかさんは言った。

「私の叔母さん」

火戸じいは頷いた。

「朝子は、町一番の美人だった」

「はー」

俺は思わずさやかさんを見て、納得したように頷いてしまう。


 「そしてこの桃をくれたのは、あの藤浦酒造の社長。坂の上に豪邸を建てたアイツだ」

「え、藤浦酒造の?」

俺は、「極楽へ誘う」と描かれたあの巨大な看板を思い起こす。街全体のそこかしこに、存在感をはりめぐらせた存在。

「じゃあ、あの桃は藤浦さんからのお見舞い?」

火戸じいは首を振る。

「当てつけだよ」


 火戸じいは大きくため息を吐いた。

「俺と藤浦は、二人そろって朝子に惚れたんだ」


***


 「俺と藤浦は元々同級生でな。朝子も同じ学年だった。惚れた理由なんて、言葉にできないもんだ。一目ぼれって奴だろ。で、俺は藤浦とはなんだろうな、友達……とは言い難かったな」

そう語る火戸じいの頬には僅かに笑みが浮かんでいる。

「どっちが先に敵視し始めたかなんて覚えてないもんだな。こっちが敵視したんだか、あっちが喧嘩売ってきたんだか。……正直、朝子のコトさえなければ、あいつとはもっとなんだろうな、飲み友達にでもなってたような気がするよ」

さやかさんが静かに頷く。

「けど、俺も藤浦もお互いに直感したんだ。こいつ、朝子のことを好きだなってさ。……それからまあ、ひどいもんだ」

火戸じいの笑みは濃くなる。その笑みは決して、愉快なものではなく、過去の自分たちを見て苦笑するような表情だった。

「藤浦は頭がキレるし、俺だって自分があんなにバカだとは思ってなかった。朝子によく見られたいんだったら、もっといろいろあっただろうと思うよ。けど、だめなんだ。朝子の前に居る藤浦を見てると、頭の中はカーッと真っ赤になって、とにかくこの男を蹴落とさなきゃだめだ、朝子をこっちに向かせなきゃやってられない、その為ならなんでもやってやるぞ、ってな」

火戸じいは首を振る。

「殆どつかみ合いの喧嘩みたいなことをすることもあれば、藤浦が俺に関するよくない噂を流してきたこともあった。そうなったら俺は逆に藤浦の根も葉もない不貞を朝子に吹き込む……って具合だ」

とつとつと、平坦な感情でつむがれていく告白。でも、その感情の薄さに、逆に真実味があるような気がした。

「そんなある日だ。妙な形で決着はついたんだよ」

火戸じいはちらりとさやかを見てから、そして意を決したように言った。

「藤浦や朝子、それに仲間連中と旅行に行った。そしてそこでキャンプをしてる内に俺は事故にあって瀕死の中生き延びたんだが――藤浦は、俺を死んだことにしたんだ」

「えっ?」


***


 火戸じいと藤浦は、同級生の仲間たちと一緒に、キャンプに行った。新鮮な桃を食べられる和気あいあいとしたツアーのはずだったらしい。

 ある意味でそれは友人たちによる、日ごろギスギスしている藤浦と火戸じいの関係をどうにか修復させようという気遣いだったのかもしれない。

 だが気遣いは裏目に出た。


 「食料を買い出しに行ったんだよ」

火戸じいは言った。

「車の免許の兼ね合いで、俺と藤浦の二人になってな。で、まあ仕方ないよな。俺と藤浦の二人なんだから、つまんねーことをきっかけにして口論になってな。……気が付けば、車は崖から落ちてた。藤浦は慎重な男だから事故なんて起こしたことがないのに、あの時ばかりは運転が荒かった」


 そして二人は乗っていた車ごと、行方不明になった。

 戻ってきたのは藤浦だけだった。

 車は転落し、燃えて火戸は助け出せなかった――と藤浦は言った。


 火戸じいは、両手を広げて肩をすくめ、おどけた。

「だが、俺は生きてる」

「じゃあ火戸じいの脚が悪いのは……」

「ああ。その時のケガだ。俺は――本当に命からがら車から逃げ出した。火傷もしてたし骨も折れた。だが、生きてた。何度か本当の死を感じながらも、人の通る道まで這いずっていったんだ。死ぬかもしれねぇって恐怖より、朝子に会いたいって思いだけで、どうにか生き延びた。幸い地元の村の人間が道を通ってな。病院で意識が戻ったのは四日後の事だった」

「でも、命は助かったんだったら――」

「俺は事故こそ生き延びたが、自分の名前さえ思い出せない状態だった」

「え」

「ずっと、ってワケじゃない。事故から一年……ぐらいだ。完全に何もかも分からなかったわけじゃないが、記憶が散らばってまとまらない、って感じだった。自分がナニモノで、何故事故にあったのか――ま、記憶がそう簡単に戻る訳もないよな。医者と看護師は俺の治療こそしてくれたが、記憶を戻す手がかりになることは何一つしてくれなかった」

「それ、ってどうして」

「藤浦だよ」

火戸じいの声に、憎しみの熱が灯る。

「俺が生き延びてた事をツテで知ると、藤浦は病院にカネを渡した。絶対に火戸を外に出すな、記憶を取り戻す手がかりなんてもっての外だ、ってな。……けど、一年かかったが俺は思い出した」

火戸じいは、ゆっくりと庭に目を向けた。

「病院の庭に、桃の木が植わってたんだ。朝子の好物だった、桃だ。桃の香りを嗅いだ瞬間、俺は――頭の中にある、ぼんやりした女の影がなんなのかを理解した。朝子だ」

火戸じいの目に光っていたのは、執念だった。

「けど、俺は暫くの間、記憶を取り戻したことは隠してた。記憶の無いフリをして、俺の事件がどうなってるかをこっそり調べた。それが、これだ」

火戸じいは足を庇いながらゆっくり立ち上がると、棚の奥から古い新聞記事を出して来た。黄ばんだそれは、「山道の事故で車が大破。乗っていた男性が死亡」と読めた。

「これ、って」

「藤浦が子飼いの記者に書かせたデタラメな記事だ」


 火戸じいは首を振った。

「けど、俺が記憶を取り戻したってことが医者にバレてな。そこからは『療養』って名目の軟禁状態だった。俺は記憶を取り戻してからもほぼ一年間、『療養施設』の一番奥の部屋に閉じ込められ続けた」

火戸じいは、重いため息を吐いた。

「その間に、朝子は――」

さやかさんが続けた。

「藤浦のおじさまと結婚されたんですね」

「そうだ」


 火戸を失った悲しみに暮れる朝子の肩を、藤浦は優しく支えたのだ。


「俺はな、どうにか隙を見つけて病院を抜け出したんだよ。院長室に忍び込んで、引き出しからカネを盗んでな」

火戸じいはくつくつ笑った。

「誰であろう藤浦が院長に渡した裏金だ。で、そのカネを使ってこの街に戻ってきた。周囲は俺が生きていたことに驚き、そして生きていてよかったと背を叩き歓迎してくれる一方気の毒そうに俺を見た。俺はとにかく、朝子に会った。そしたら――」

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