あなたの化けの皮、甘い

二八 鯉市(にはち りいち)

01 あなたはハツラツ老教師

 「極楽へ誘う、唯一の味」

 しなやかな指が、白地の猪口を持っている。そんな写真が印象的な看板広告。


 あの看板はこの街に、いくつも点在している。ビルの上、駅の巨大広告。

 全国的に有名な酒造メーカー、「藤浦酒造」の創業者がこの街の出身だから――ということらしいけど。


 俺は、足元で雑草の匂いを嗅いでいる、柴犬のイチジクに話しかけた。

「楽園の味ってどんなんだろうな。分かるか? イチジク」

「ワンッ」


 その酒は、全国のコンクールで金賞をとったとか。

 創業者の藤浦がこのたび名誉あるナントカ賞を受賞したとか、この街を見下ろす一番の高台に豪邸を構えていて、その家の建設費用がウン十億だとかだとかだとか……。


 「ま、俺みたいな下戸には関係ないし、イチジクにも関係ないな」

「ワウッ」

「よーし、家まで走るか!」


***


 とはいえ、イチジクは俺の犬じゃない。

 俺の実家の近所のじいさん――火戸 明彦ひど あきひこさんが飼っている犬だ。


「まずは足拭きな」

わんっ、と大きく返事をするイチジクの頭をわしわしと撫で、俺は足拭き用の雑巾を手に取った。

その時、居間に続く引き戸がガラリと開く音が聞こえた。

「おう、悪いないつも」


 火戸じいは、昔は高校の教師をしていたらしい。不良の集会に単身乗り込んでその場の全員を更生させただとか、あまりに教え子が多すぎて町の大半の人間は頭が上がらない、だとか。

 どうも、真偽のよくわからない逸話が多いけど妙に元気なじいさんだ。

 けど、色々あったらしく生涯独身。今は柴犬のイチジクと二人で暮らしてる。昔に比べて背中はちょっと曲がったけど、意志の強そうな眉毛と目は変わらない。


 「茶、飲んでくか」

「あ、うんありがとう」

雑巾を畳み、洗面所を借りて手を洗って居間に入った。ず、ず、と足をひきずる火戸じいの独特の足音が台所に向かう。火戸じいは若い頃から片足が悪いらしい。教師として現役だったころはまだ大丈夫だったそうだけど、近頃は歩く事自体が億劫になってるとか。

「いつも悪いな。イチ坊はよく暴れるだろ」

「アハハ。大丈夫だよ、ウォーキングは元々日課だし」


 気丈な火戸じいは決して直接口にはしないけど、ご近所の噂では最近、足の痛みの悪化に加えて心臓の方もあまり調子がよくないらしい。

 で、夏休みに実家に帰ってきた俺が、火戸じいの愛犬のイチジクの散歩を引き受けているというワケだ。

 俺が小学生の頃、陰湿ないじめっこから助けてもらった恩が火戸じいにはある。犬の散歩ぐらい、大したことじゃない。


 古い柱に、飲み薬を入れておくポケット付きのカレンダーがかかっている。

「火戸じい、薬結構多いんだな」

「メシより薬の方が多いぐらいだ」

切子グラスにペットボトルの麦茶を注ぐと、火戸じいも自分の分を注いで一息に飲んだ。太い喉がグッグッと上下するのを見ながら、何ともいえない寂しさを感じた。


 あんな元気だったじいさんも、病気で弱っていくのか。


 そんなことを思いながら麦茶を一口飲むと、

「いでっ」

すこん、と音を立て、じいさんから脳天に軽い手刀を食らった。

「いたた……なんだよ」

「俺が病気で弱っていくのかぁなんてしみじみしてたろ」

「エッ心読めんの? こっわ」

「何年教師やってたと思ってんだ」

じいさんは空のグラスにもう一杯麦茶を注ぐと、からからと笑った。

「たまに遊びに来る昔の教え子なんかもそうだ。『先生こんなに年とっちゃってぇ』って涙ぐむ女子なんかもいる。バカヤロウって話だよ。ちょっと心臓悪くしただけなのに、大げさなんだ」

「いや確かに死にそうにないな」

「なんだと」

もう一度チョップを落とす真似をされて、俺は大げさに避けて笑う。


 よかった、と思い、俺はなんとなく安堵のため息をつく。「アンタ最近ね火戸先生、心臓が悪いんだって」と母から聞いたときは正直ヒヤヒヤしていたからだ。

「いやー、でも火戸じいが元気そうで何より」

ワンッ、と庭でイチジクが鳴いた。つられて、庭に目をむける。火戸じいの家の庭はよく手入れされた質素な庭で、木が一本だけ生えている。

「なあ火戸じい。あの木って何の木?」

火戸じいは「ン」と庭に目を向けると、静かに言った。

「あれか、あれは――」


――ぴんぽん


 俺の言葉を遮って、インターフォンが鳴った。

「はぁい」

火戸じいが立ち上がり、玄関へ向かう。

「ごめんください」

夏の暑さを鋭い切っ先でさらりと切り裂くような、美しくて涼やかな声。

「あれ、もしかして」

俺は立ち上がり、玄関へ向かった。声の主を知っている。あれは。

「あっ、やっぱりさやかさん」

「あら、藍ちゃん。帰ってたの? お久しぶり」

若草色のワンピースに、腰まで伸ばした長い黒髪。ぱっちりとした目元。幼い頃、近所のボーイスカウト・ガールスカウトのアイドル、いや少年たちにとっての女神だったお姉さん。


「こんにちは、火戸センセイ」

木目 さやかさんは、火戸じいに向かって美しく微笑んだ。


 俺はふと、妙な事に気が付いた。

 火戸じいは玄関前で、さやかさんを前にして立ち止まっている。だが、ただ立ち止まっているだけに見えないのだ。なにか、スイッチを切られたロボットのように固まっているようにさえ見える。呼吸、しているだろうか?

「火戸じい?」

俺が傍によると、火戸じいはハッとした様子でさやかさんを見た。


 「あ、ああ……木目くんか。何の、用だ」

俺はまた違和感を覚える。火戸じいがこんなによそよそしく、言葉の歯切れが悪いのを初めて見た。

「センセイ、今年もおじさまの桃が実ったんですって」

さやかさんは、薄紅色の綺麗な形の唇を弧にして、微笑む。

「おすそ分けです」

さやかさんが持ち上げた小さな木の箱の中には、魅惑的な桃が入っていた。玄関の日差しを受け、桃の表面の産毛は白く光り輝いている。内側から弾けそうなほどの生命力に満ちたそれは、見ているだけなのに、口の中に瑞々しさを感じる。

「うわーうまそう」

思わず呟いて、あ、と口を塞ぐ俺に、さやかさんは笑う。

「藍ちゃん、小学生の頃からちっとも変ってない」

「へへ、いやそのォ」

昔も今も、俺はとにかく、さやかさんに頭が上がらなかった。

「ねえセンセイ、今年の桃も美味しいそうですよ。どうぞ、召し上がってくださいな」


 その瞬間。

 ひゅう、と火戸じいの喉がイヤな音を立てるのを聞いた。


 ぐらり、と火戸じいの身体が傾く。俺がその身体を咄嗟に支えられたのは、殆ど直感と言ってよかった。

「うわ、わっ」

受け身はとれたものの、じいさんの身体ごと床に倒れ込む。

「大変っ」

さやかさんが桃を玄関の棚に置き、白いサンダルを脱いで上がり框に膝をついた。

「藍ちゃん、救急車」

「は、はいっ」

俺は急いでスマホを取りに居間へ戻った。何かを察知したイチジクがそわそわと落ち着かない。そんなイチジクの頭を撫でてやりながら、俺は慣れない手つきで救急車を呼んだ。


 「救急車、数分で来るそうです」

「よかった。先生、大丈夫ですか。息、できますか」

さやかさんに肩を叩かれながら、火戸じいは呻いた。


 うめき声の中に、まるで一瞬だけノイズがクリアになるように、言葉が聞き取れた。

「――許してくれ」


 「え?」

俺は思わず駆け寄る。

「火戸じい、何?」

火戸じいは目を開けた。俺はその目を見て、ゾッとした。


 火戸じいの眼は開いている。だが、その仄暗い目には俺達は映っていなかった。何を見ているのか分からない、深い海の底のような瞳に色を無くしたまま、火戸じいは呻いた。


「俺が悪かった、許してくれぇ」


 蝉が甲高く鳴き叫ぶ。断末魔のような絶叫の合間に、救急車の音が近づいてきた。

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