るり子さん

九重ツクモ

るり子さん

 じりじりじり。


 短い命を焼き尽くすかのように蝉が鳴き喚いている。

 命の声の洪水を、俺は重たい荷物と体を引きって歩いていく。

 顳顬こめかみからあごへと汗が伝い、ポロシャツの背中はすっかり色が変わっていることだろう。


 よりによって、グレーなんて着るんじゃなかった。


 内心後悔しながらも、鉛のような体に鞭を打ち、一歩一歩、歩を進めた。



 左右に広がる田畑。

 雲ひとつない空。

 遠くに見える山並み。

 まるでその山々を背後に守るかのように、どっしりと鎮座した古い日本家屋。

 俺の実家だ。



 上京して三年。

 この家に帰ってくるのは、これが初めてになる。

 広いばかりで仄かに黴臭かびくささの漂うこの家も、そこかしこに熟成された田舎臭さが漂っているこの村も、何もかもが嫌だった。

 本家の長男だからと大切にされては来たけれど、だからと言って俺に何を期待すると言うのか。

 俺は本家の長男じゃない。俺は俺だ。

 子供の頃から鬱屈うっくつとしたわだかまりが腹に溜まり続け、大学進学を理由に、逃げるようにこの村を後にした。

「このままここで農業をやるのだから大学なんて」と引き留める父母を振り切ってきた手前、コンビニと家庭教師のバイトを掛け持ちして奨学金を貰いながら、自分一人でどうにかやっている。

 忙しさを理由に実家からは自然と足が遠退き、今に至る。



 じりじりじり。

 このままでは蝉の声に溺れてしまいそうだ。

 汗がぽたぽたと地面に染みを作る。

 道が舗装されていないから、スーツケースなんて代物は使えない。一週間分の荷物を詰め込んだリュックサックの紐が、肩にずっしりと食い込んで、腕がげるのではないかとさえ思う。


 何故こんなにも不快な思いをしながら、三年ぶりに実家に帰らなければならないか。

 それは、母さんの葬式があるからだ。



 如何いかにも「農家の嫁」を絵に描いたような母さんは、とても強い人だった。

 元は隣町の良いところのお嬢さんだったらしい母さんが、こんな田舎の本家の嫁になるだなんて、かなり苦労をしたに違いない。

 けれど、母さんは一度だって弱音を吐いたことがなかった。

 俺は遅くに生まれた子で、兄弟はいない。結婚してからなかなか子どもが生まれなかったことで、親戚連中からは色々と言われたらしい。けれどそんなこと、母さんはおくびにも出さなかった。


 母さんは、一昨日の昼前、農作業中に脳梗塞で倒れて、そのまま夜に息を引き取った。

 親父から何度も電話が来ていたけれど、バイト中で出られず、その日は疲れて折り返しもせず眠ってしまった。

 翌日も遅刻気味に起きたから慌ててバイトに飛び出して、やっと電話を折り返した頃には、葬式の段取りも何もかもが終わった後だった。



 後悔、というのは、こういう時の為の言葉だろう。

 バイトの休憩時間に電話が来ていたことには気付いたけれど、親父からの電話を「面倒くさい」と後回しにしたのは、間違いない。

 もしもあの時電話を取って、バイトを早退していれば、母さんの死目には会えたはずだった。



 蝉の声をくぐり抜けて、ようやく実家の玄関に辿り着く。

 無駄にどっしりと豪華なしつらえにいささ辟易へきえきとしつつ、ガラスの引き戸に手をかけた。


「……ただいま」


 玄関の板の間の先には、両端を廊下で挟まれる形で、二つの部屋がある。

 左には床の間のある和室。右には縦長の広い座敷。

 座敷の襖は開け放たれ、中はたくさんの黒い服でひしめきあっていた。


「あれたかしくん! 誠一せいいち! 隆くん帰ってきたよぉ!」


 俺の声に気付いて親父を呼ぶ妙子たえこおばさんの耳障りな声に、内心げんなりしながら適当な返事をして、リュックサックを下ろした。

 肩からずっしりとした重さが消え、板の間に腰掛けてふうと息を吐きだす。


「隆、帰ったんか」

「うん。母さんは? あっち?」

「ああ」


 三年ぶりに会った親子とは思えない会話だけれど、親父と俺はいつもこんな感じだ。

 昔気質の口数の少ない頑固親父。この時代にどんな遺物だよといつもうんざりする。

 親父を半ば視界から追い出すように靴を脱いで板の間に上がると、座敷の衆客しゅうかくの元に行って軽く頭を下げた。


「どうも、遅なってすんません」


 何十もの瞳が一気に俺に向けられる。

 みな一様に黒い服を着ているからか、妙に圧倒されてしまう。


「ほんまにもう、何時やと思てるんよ。こんなんじゃ美代子みよこさんも不憫やわ」


 妙子おばさんが俺を非難するような目で横に睨んだ。

「遅くなった」はただの社交辞令だ。

 母さんの死を知った時にはもう、時間的に新幹線がなくなっていた。朝一の新幹線に乗って、ローカル電車を二回乗り継ぎ、更にバスで数十分。そこから更に徒歩。

 どう頑張っても、この時間にしか辿り着けない。

 かといってそんなことを言っても、言い訳だなんだとけなされるのがオチだ。

 実際、知るのが遅かったのは間違いない。


 妙子おばさんは、親父の姉。

 本家の長は親父だが、長子ちょうしだけあって親戚の中ではかなり地位が高いのだ。

 本家の跡取りの俺にここまで言えるのは妙子おばさんくらいだろう。

 現に、座って指示を飛ばすだけで本人はろくに動いていない。

 母さんのことを不憫だなどと言いつつ、母さんを一番き使っていたのは、他でもない妙子おばさんだった。



 ああ、とか、まあ、とか、適当な相槌を打って和室の襖を開けると、ひんやりとした空気が頬に当たった。クーラーを効かせているらしい。

 8畳の部屋にぽつんと、綺麗に敷かれた布団の上に、母さんが寝かされていた。

 顔には白い布が掛かられている。

 恐る恐る、その布を捲ると、真っ白な母さんの顔が現れた。

 まるで粘土で出来ているような、明らかに生者とは異なる肌。緩やかに閉じられているまぶた。微かに開いている唇は、ぴくりとも動かない。

 布をめくる時に触れた頬が、氷のように冷たい。

 ここに母さんはいない。ただ肉の器だけが残っている。

 そんな気がした。


「畑で倒れてすぐに救急車呼んだけどなかなか来やんで。やっと病院着いたら、もうその日ぃ峠や言われてん。病院着いてすぐ、隆に電話したんやけど……」

「……ごめん。バイト中で気付かなんだ。着替えてくる」


 親父に責められている気がして、俺はそそくさと立ち上がった。

 実際グレーのポロシャツは黒と見紛うほどの色になっているし、髪も顔もべたべただ。もちろん喪服にも着替えなければならない。

 ここを去るに足る理由を並べながら、板の間の荷物を取りにいく。


 去り際にちらりと、何だか違和感を覚えた。

 けれど、その正体を掴めないまま、逃げるように座敷を後にした。




 ◇◇



 風呂で汗を流して、離れにある自分の部屋で喪服に着替える。庭に簡単に建てられた小屋を、中学から自室に使っているのだ。

 煙草を一本吸おうとして、やめた。

 つい先月別れたばかりの彼女に「煙草なんて、今時ださ」ときっぱり言われたのを思い出す。

 まるで田舎者だと馬鹿にされたような気がした。彼女は東京生まれの東京育ちだったから、余計。

 結局一月も経たずに別れた。

 それ以来、煙草はただ持ち歩くだけだ。



「お待たせした」

「隆、ここ座りなさい。美代子さん残念やったね。ご愁傷様」


 酒で真っ赤になった顔を向けて手招きするのは弘幸ひろゆきおじさん。妙子おばさんの旦那さんだ。

 通夜の前で女性陣が慌ただしく動く中、昼食にかこつけてもう飲んでいるらしい。

 右手には吸いかけの煙草。この人集りもお構いなしに吸っている。

 こういう所が、「煙草はださい」と言われる所以なのかもしれない。


「おいやん、だいぶ飲んでますなぁ」

「誰かが死んだらそりゃそうや。葬式っちゅうのはそういうもんよ」


 俺が隣に座ると弘幸おじさんはそう言って、またビールを煽り、煙草を咥えた。


「悲しみは酒と煙草で慰めるもんや」


 悲しみなんて感じているのか?

 ついそう言いたくなるような不遜な態度で、おじさんは煙を吐き出す。

 一本どうだ? と煙草を差し出すおじさんの手を、払いのけたくなるような嫌悪感を抑えて遠慮した。



「隆くん、大変やったわねえ」


 不意に、この場に不釣り合いなほどあでやかな声が耳朶じだを打った。

 見上げると、ハッとする程の美人がビール瓶を持って立っている。


「ああるり子さん、気ぃ利くなぁ。一杯貰うよ」


 明らかに俺の為に持って来たというのに、弘幸おじさんがさも当然のように割り込んだ。

 飲む気がなかったとは言え、少しかんさわる。


「弘幸さんは飲み過ぎですよ。ほどほどにしやんと」

「厳しいなぁるり子さんは。ええやないか」

「じゃあこれで最後ね」


 トクトクトクといい音を立てて、弘幸おじさんのグラスにビールが注がれる。

 ただお酌をしただけなのに、所作の一つ一つが美しい。黒い着物に似合う真っ黒な髪を一つに結い上げ、この辺りでは珍しいような色白。うなじに掛かる後毛が、せ返るような色気を漂わせていた。


「私も小さい時はおばやんによう遊んでもろてん。寂しいわ」


 弘幸おじさんにお酌をしながら、やや吊り目がちな瞳をちらりとに向けながら話しかけてくる。

 先程までぼんやりとしていた記憶が、急にかちりとまる音がした。

 そうだ。るり子さんは母方の親戚だ。

 確か、母さんの父方の従姉妹いとこの子ども、だったか。つまりは俺の再従姉妹はとことか、確かそんな感じだ。

 俺よりも十は年上だと思うけれど、随分若々しく、けれど落ち着いていて、まさに「大人の女性」の魅力を感じる人だった。


 ふと見渡すと、母方の親族は女性ばかり数人居るようだ。

 確かに通夜にはまだ時間があるし、葬式の手伝いに女性陣だけ先に駆けつけてくれたのだろう。

 るり子さんもその一人に違いない。


 記憶の中のるり子さんを思い出す。

 すっかり忘れていたけれど、子どもの頃から秀でて美しかったのを覚えている。

 不思議だ。こんなにも印象的な人なのに、なぜ今まで忘れていたのか。


「隆くんは今も昔もあまり変わらんねぇ。あっ、でも都会に行ってやり垢抜けたかな。かっこええもん」

「そ、そうですかね……」


 どうにも反応に困ってしまう。

 こんな美人にそんなことを言われて、嫌な気分になる男は居ないだろう。

 なんとも気恥ずかしい思いを紛らわせるように、近くにあった麦茶のジャグを手に取る。

 すると、すっ、とグラスの上に白く美しい手が差し出される。

 顔を上げると、るり子さんがビール瓶を顔の横に掲げてにこりと笑っていた。


「隆くんも一杯飲み?」


 彼女の笑顔の前に、何も言葉が出て来なかった。

 理性ではまだ酒は飲むべきじゃないと思うのに、からくり人形よろしく自然とグラスを持ち上げ、るり子さんに向かって傾けた。

 ちらりと、視線だけでるり子さんの顔を覗いて胸が跳ね上がる。

 その表情の、驚くほどのあでやかさに。



「隆! ちょっと」


 今まさにるり子さんがビールを注ごうとしたその時、親父が廊下の方から俺を呼んだ。

 舌打ちしそうな衝動を抑えて、「すんません」とるり子さんと弘幸おじさんに断って席を立った。


「電話でも言うたけど、今日は十七時から通夜や。おまんはわしの隣で皆さんに挨拶するんやで。あと今晩は寝ずの番や。今日は座敷に寝るんやで。わしが先に眠るさけ、おまんは後から寝なさい」

「分かった」


 親父の言葉に頷きながら、視界の端でるり子さんが動くのが見えた。

 妙子おばさんにお酌をしている。

 おばさんも酒好きだから、何だかんだと文句を言いながら、ちゃっかりグラスに口を付けた。

 先ほどまで女性陣の働き振りが悪いとぶつぶつ言っていたのはどの口か。


「隆、聞いてるんか」


 どこか非難めいた口調に顔を上げると、眉間に皺を寄せた親父と目が合う。


「聞いてんで」

「おまんは跡取り息子なんやさけ、もっとしゃんとしろ。母さんにまだ線香もあげてないやろ」

「弘幸おいやんに呼ばれたさけ座ってただけや。これからあげるわ」


 半ば吐き捨てるようにそう言うと、廊下から板の間に回って、母さんの居る和室に入る。

 寒気がするほどにひんやりとした空気が、再び頬をかすめた。


 母さんの遺体の横に置かれた焼香台の前に正座して、線香に火を灯す。


 後ろでじっと親父が俺の背中を見ているのを感じる。

 が、しばらくして、部屋を出て行った音がした。


「……母さん、遅なってごめん」


 カラカラに乾いた喉が、かさついた音を立てた。

 やはりさっきビールを一杯もらっておけば良かったと、ちらりと考える。

 けれどすぐに、どうでも良くなった。


 胸の中が渦を巻いていて、感情が上手く定まらない。

 涙が出るかと言えば、そんなこともない。

 ただ只管ひたすらに、実感が伴うのを待っているような気分だった。



 定刻になり、しめやかに通夜は行われた。

 この辺りでは通夜振る舞いはあまり行わない。

 昼間はあんなに賑やかだった集団も、通夜が終われば三々五々に帰って行った。


 誰もいなくなった座敷で、親父と布団を並べる。

 襖を開け、座敷からも母さんの姿が見えるようにした。

 当初の約束通り、親父が先に寝て、俺が後から寝るように交代して火の番をする。

 俺も親父もほとんど言葉を発せず、ただ黙々と事務的に作業をこなした。

 準備が整い一息つくと、座敷と和室の間の柱にもたれ掛かり、母さんをなんとはなしに眺めた。


「せや。あれおまんに渡そう思てたんだ」


 沈黙が重々しく横たわる中、不意に親父の声がした。

 先程まで布団の上にごろりと寝そべっていた親父が起き上がり、部屋を出ていく。

 しばらくして、親父は何か白い封筒のようなものを手にして戻ってきた。


「これ。母さんがおまんの為に用意してたんや」


 親父から手渡された封筒の中を覗くと、赤い御守りが入っていた。


「母さんな、おまんがちゃんと食べてるか、元気してるか、いつも心配してたんだど。ご利益りやくがあるっちゅう神社まで行って、毎年こんな厄除け守り買うてきてんで。『こんなん送ったら嫌がられるかな』言うて、結局一度も送らなんだけどな」


 上京する時、母さんは同じように俺に御守りを持たせようとした。けれど俺は断ったのだ。この時代に神頼みだなんて、田舎臭いと思ったから。結局、東京に行ってみれば、東京も変わらないことが分かったけれど。

 きっとあの時のことを気にしていたのだろう。


「ちゃんと持っとき。母さんの愛やで」


 御守りを持つ手が、震えているのが分かる。

 視界がにじんでいるのに気付いた。

 母さんが死んで初めて、涙が頬を伝う。


 遅くにやっと生まれた一人息子は、全ての責任を放棄して東京に逃げ去った。

 きっと、この因習に縛られた田舎で、母さんはまた色々と言われただろう。

 分かっていた。

 帰省の足を最も遠ざけたのは、全てを見て見ぬふりして振り払ったことへの罪悪感だったのだ。


 つまらない意地で実家を遠ざけた結果が、これだ。

 俺がベッドで寝ていた時、やる気なくコンビニのレジ打ちをしていた時、母さんはもう死んでいたのに。


 母さん、すまん。

 ごめんな。ごめんな。


 後から後から、涙が溢れ出す。

 御守りをぎゅっと握りしめて、声を押し殺して泣いた。

 そんな俺に気を遣ってか、親父は俺に背中を向けて、再び布団に寝転んだ。

 無口な父親を、この時ばかりは有り難く思った。



 ◇◇



 親父と寝ずの番を交代しても、碌に眠ることが出来ずに夜が明けた。

 もうそこからは流れ作業のようなものだ。葬祭の仕来しきたりに則って、やるべきことをやっていくだけ。

 昨日と同じように喪服に着替えて、弔問客をもてなす。

 通夜ほどではないけれど、告別式もかなり人が多い。狭い社会では多くの人が顔馴染みで、親戚付き合いも血の濃さとは関係なく密なものになるからだろう。


「妙子おばやんたち、まだ来てないなぁ」


 不意に聞こえた言葉に目を向けると、従兄弟いとこ隼人はやと兄さんが立っていた。


「確かに、まだ来てないなぁ。あれ、雅樹まさきさんも来てないやん。いつもなら真っ先に来るのに」


 雅樹とは、妙子おばさんと弘幸おじさんの息子だ。

 隣町で教師をしており、まだ独身。

 もう一人娘がいるけれど、彼女は現在アメリカに留学中らしい。

 散々俺の東京行きを擦っていたくせに、自分たちの子どもには好き勝手にさせている。


「ま、その方がええけどな。あの人たちおるとうるさいし。えらい偉そうに口出してるだけやん」

「そうやんな」


 俺は苦笑いで隼人兄さんの言葉に頷き返した。


 隼人兄さんは親父の弟の子供で、俺より5つ年上だ。畑をやっているのは周りと一緒だけれど、積極的に新しい野菜や栽培方法を取り入れ、今はITを活用して野菜の栽培から輸送まで一括管理するという新しい農業を模索しているという。この田舎の中で暮らしながら、唯一と言っていいほど革新的な人物だ。

 俺は幼い頃から周りと関わるのが苦手だったけれど、隼人兄さんには懐いていたのを覚えている。背が高く器量もいいため、子供心に憧憬しょうけいを抱いていた。

 俺が親族の中で唯一、親しく話せる人物でもある。


「にしても昨日の弘幸おいやん酷かったなぁ。酒と煙草が臭うてたまらなんだわ」

「おいやんは酒が入ると歯止めが効かんさけね」


 もう告別式が始まる時間だ。

 さすがに遅刻するようなことはないだろうと思っていたが、何かあったのだろうか。



 結局三人は時間になっても現れず、仕方なく告別式は始まった。


 葬式というのは良く出来ていると思う。読経どきょうが始まり、気付けばどんどんと行程が進んでいく。まるで葬式自体が大きな動物となって歩を進めているかのようだと思った。

 式が終わり、流れるようにバスに乗り込んで、霊柩車の後ろについて火葬場へと移動する。

 母さんを釜に入れた所で、一度火葬場の外に出た。とにかく外の空気が吸いたかった。

 山の上の方だからか、この辺りは幾分涼しい。蝉の声を聞きながら入り口の柱の基礎に腰を落とした。

 煙草が吸いたいと、思わずポケットに手を伸ばした所で、腹が鳴る。もうすぐ昼だ。

 どんな状況でも腹は空く。人間とは不思議なものだ。

 煙草に伸ばした手をいつもの通り引っ込めて、ただ真っ青な空を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていた。



 どれくらいそうしていたのか。

 暫くして、火葬場から隼人兄さんが駆け出してくるのが見えた。もう火葬が終わったのだろうか。

 それにしては、やけに慌てているように見える。


「隆、大変や! 妙子おばやんと弘幸おいやんが亡くなったって!」


 聞いた言葉の意味が理解ができず、俺はしばし、そのまま固まった。



 ◇◇



 妙子おばさんと弘幸おじさんは、通夜の帰り道、交通事故で亡くなったそうだ。

 今朝、一緒に告別式に行こうとしていた雅樹さんが、約束の時間になっても両親が迎えに来ないことを不審に思いタクシーで実家に帰った所、家のすぐ前の畑に横転している車を発見したのだ。

 病院に運ばれたが、既に事切れた後だった。

 警察の取り調べも行われ、二人とも酒を飲んでいたこと、他の車の痕跡がなかったことで、運転を誤ったのではないかとのことだった。

 朝からずっとそのことにかかり切りだった雅樹さんから、今になってようやく連絡が入ったのだ。


 火葬場に戻ると、親族たちは皆騒然としていた。「まさかあの二人が」「こんなに続くなんて」と口々に話している。


「親父、今の話ほんまなん!?」

「ほんまや。雅樹の声も、震えとったわ。あいつら、そやさけわしが送るて言うたのに……」


 妻に続いて姉まで失った親父は、あまりにも悲痛な面持ちだった。ぐっと奥歯に力を入れて、まるで何かを堪えているように見える。

 先ほどまで二人のことを腐していた隼人兄さんも、ばつの悪い顔をしている。

 俺もただ、口を閉ざすしかなかった。



 騒然とした状況のまま、火葬が終わり、母さんを骨壷に移した。

 本来なら厳粛な筈の儀式はどこか浮き足だっていて、落ち着かない。

 ずっと小さくなってしまった母さんを抱えて家に帰り、精進落しょうじんおとしの食事が始まると、その様子は加速していった。


「なんでこんなんに」


 膳の前で胡座あぐらをかいた親父が、隣でポツリと呟いた。


 雅樹さんから連絡が入り、二人の通夜は三日後に決まったという。

 アメリカにいる娘さんが帰国してから行われるそうだ。

 人はこんなにも簡単に死ぬものだったのか?

 母さんにしても、妙子おばさんたちにしても、あまりにも急すぎる。

 自分が今悲しいかと言われると、それよりも動揺しているというのが正しいと思えた。


 親父の横顔に何か声をかけようとして、結局言葉が見つからず、俺はただ目の前の味噌汁に視線を落としていた。



「ほんまに大変なことになったなぁ」


 この、鈴を転がすような声。

 味噌汁から視線を上げれば、やはり。


「気ぃ落とさんといてな。ほら、一杯どう?」


 ビール瓶を上品に持ち、この場に似つかわしくないほどつややかに微笑んでいる、るり子さんがそこに居た。


「悪いことは続くんやんな。ほんまに嫌やわ」


 そう言ってるり子さんは、楚々とした仕草で俺のグラスにビール瓶を傾けた。


 一瞬。

 本当に一瞬。


 胸が焼かれるような感覚を覚えた。


「っ俺はええよ。少し飲み過ぎたさけ」


 咄嗟にグラスを引いて、るり子さんのお酌を断ってしまった。

 何故だかは分からない。

 美しいるり子さんのお酌ならいくらでも受けたいと思うのに、何故か、やめた方がいいような気がする。


「何言うちゃーんの。ほとんど飲んでないやん」

「ほんまに平気」


 つい、硬い声が出てしまう。

 自分で自分の行動に困惑する。俺は一体何をしているのだろう。


「なんやなんや? なっとーしたんやで隆。まだ隆にビールは早かったか? ごめんなぁるり子さん。代わりに俺がもらうわ」


 俺の様子がおかしいと思ったのだろう。

 隼人兄さんがやって来て、茶化しながらるり子さんにグラスを向けた。


「ごめんね隆くん。無理強いするつもりはなかってんけど……。じゃあ、隼人くんどうど」


 少し悲しげに苦笑いをして、るり子さんは隼人兄さんのグラスにビールを注いだ。

 途端、罪悪感が押し寄せる。

 なんであんなにも頑なに彼女のお酌を断ってしまったのだろうか。


「あー美味い。るり子さんが注いでくれたさけ余計やわ」

「やめてや隼人くん」


 照れ臭そうに口元を手で押さえながら笑うるり子さんは、本当に美しいと思う。

 彼女なら、どんな人混みにいてもすぐに目についてしまうだろう。


 そう思った所で、はたと思う。

 先程の告別式に、るり子さんはいただろうか?


 おかしな疑問だ。居たに決まっている。

 骨壷にお骨を入れる時、確かに見かけた。

 バスの中にも居たと思う。

 だから今、ここに居るのだろうに。


「……すんませんした」

「ええんよ。私も無理に勧めすぎたわ。ごめんねぇ」


 気まずくなって謝った俺に、るり子さんはにこりと微笑んで、席を立って行った。


「なっとーしたんやで隆」

「なんか……お酌してもらわん方がええ気ぃして」

「なんやそれ」


 不思議そうな顔をしながら、隼人兄さんは喉を鳴らしてビールを飲んだ。

 実に美味そうだ。

 断らずにビールを貰えばよかったと後悔する。


「まあ、こんな状況で普通でいられやんのは、しゃあないけどな」

「そうかな」

「おかしいやろ、こがに続くなんて。なんか不吉やわ。…………すまん」

「いや、ええよ」


 母さんの死を悪く言ってしまったと思ったのか、隼人兄さんはしおらしくなってしまった。

 もちろん隼人兄さんにそんな意図がないことは分かっているので、特に何とも思わない。

 気の使える優しい男なのだ。


 隼人兄さんに気にするなと声をかけ、煮物の里芋を一口食べる。途端に、忘れていた食欲を思い出してばくばくと平らげてしまった。


「いつ東京戻るん?」

「ほんまは明後日戻る予定やったけど、一週間はおるよ。妙子おばやんたちの葬式もあるさけ」

「大学は? 夏休みか」

「せやで」


 後でバイト先に断りの電話を入れなければとちらりと考える。

 それにしても、一週間分の服を持って来ていて良かったと思う。汗で着替えるかもしれないと多めに持って来ていたのだ。


「隼人兄さんは最近どうよ? 新しい農業っちゅうの、大変そうやんな」

「まあ、そりゃ大変よ。それに親父はがちがちの保守派やさけさ、喧嘩ばっかやで」

「そうかぁ」

「そやけど、俺の夢や。満足するまでやるしかないわ」


 そう言って隼人兄さんはまたグラスに口を付け、最後まで一気にビールを流し込んだ。

 昔から隼人兄さんはとても眩しい人だった。

 俺には到底真似出来ない信念の強さと、直向きさがある。

 心から羨ましいと思う。


 そのまま隼人兄さんと他愛のない会話をして、他の親戚たちとも幾分言葉を交わし、精進落としは終わった。

 最初から最後まで騒がしく、落ち着かないまま皆家へと帰っていく。

 久しぶりに会った面々と別れを惜しむこともない。

 どうせまた、すぐに葬式で会うのだから。



「疲れたなぁ」

「そうやなぁ」


 急に静かになった家の中で、親父と二人、茶の間で一息つく。

 茶の間は母さんがいる和室の奥にあって、かつてはこの部屋でいつも母さんのご飯を食べていた。

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷を入れたグラスで一気に飲み干す。

 沸かした麦茶を飲むのも三年ぶりだ。一人暮らしではなかなかやらない。


 何度か口を開いては、閉じる。

 妙子おばさんたちのことに触れようとしてなかなか出来ずに、ただ沈黙が横たわる。

 外から聞こえる蛙と虫の声だけが、五月蝿うるさいくらいに響いていた。


 ぼんやりと、今日の告別式を思い出す。

 つい数時間前まで肉体があったはずなのに、人間が骨だけになるなんて何とも奇妙だ。

 あんなに小さな骨壷に全身が入ってしまうなんて、人間の体の半分は水だというのは本当らしい。

 またああやって、妙子おばさんたちも骨になるのだろう。


 一日を振り返る中で、ふと、強烈な違和感に襲われる。

 その違和感の正体が分からず、とても気持ちが悪い。

 何かを忘れているような……。


 俺はまた麦茶を一気に飲み干した。

 なんだか、物凄く嫌な予感がして仕方がない。

 胸の中に湧き上がった不安と焦燥感をかき消すように、その日は風呂で冷たい水を浴びて寝た。



 翌朝、嫌な予感は的中する。

 隼人兄さんが、首を吊った状態で発見されたのだ。



 ◇◇



 知らせを聞いてすぐ、隼人兄さんの自宅に向かった。

 隼人兄さんは両親と一緒に暮らしており、俺の実家から車で十二分程度の場所に家がある。

 親父と駆けつけた時には、家全体が騒然としていた。

 庭には車が何台も停まり、警察官が数人家から出たり入ったりしている。

 親父と急いで玄関の扉をくぐると、中には父の弟である誠二郎せいじろうおじさんがいた。


「誠一あにやん!」

「大丈夫か誠二郎!? 一体何があってん!?」

「それが……」


 誠二郎おじさんの話を総合すれば、こうだ。

 告別式から帰り、その日の晩はみな普通に床に就いた。翌朝、珍しくなかなか起きてこない隼人兄さんを不思議に思い、順子じゅんこおばさん……隼人兄さんの母親が、二階にある隼人兄さんの自室を見に行ったという。

 外から声をかけても反応がなく、仕方なく襖を開けた。

 途端、順子おばさんは腰を抜かすことになる。

 中には、梁にロープをかけて首を吊っている、隼人兄さんが居たから。


 宙に浮いてる足の下には、畳に倒れている椅子が。仕事用に使っているデスクの上には、遺書が置かれていたという。

 遺書には、新しい農業に投資するため借金をしたが上手く行かず、辛いというようなことが書いてあったそうだ。


 誠二郎おじさんの話を聞いて、驚いた。

 全く聞いたことのない話だったから。昨日だって、借金の話なんて欠片もしていなかったのに。

 ……いや、当然か。

 三年ぶりに会った従兄弟にそんなことまで話すはずがない。

 反応を見るに、親父は知っていたのだろう。


 しかし借金が本当のことだとして、隼人兄さんが自殺をするだなんて思えない。

 昨日だって、目を輝かせて夢を語っていたのに。


 そして何より、何故、今なのか。


 階段を上がり右手正面に、隼人兄さんの部屋はある。

 部屋の入り口には、ドラマや映画でしか見たことのない黄色と黒色のテープが貼られていた。

 幼い頃に何度も入ったことのある部屋のはずなのに、まるで異世界の入り口のような異質さを感じる。

 少し覗こうとした所で、警察官に追い返されてしまった。

 既に遺体は警察が回収したとはいえ、当然だ。けれど、本当にあそこがいつもの隼人兄さんの部屋なのか、確かめたくなったのだ。

 階段の上からじっと入り口を見つめる。

 一瞬、ぎしぎしとロープが軋む幻聴を聞く。

 襖の隙間から、四肢をだらりと下げてゆらゆら揺れている隼人兄さんが見えるような気がして、慌てて階段を駆け降りた。



 一階の茶の間に行くと、完全に呆けている誠二郎おじさんと、既に泣き腫らしたのかぐちゃぐちゃな顔の順子おばさんが居た。

 親父は誠二郎おじさんの背中に手を置いて、不器用ながら励ましているようだった。


「絶対おかしい。昨日まで隼人にそんな素振りはいっこもなかってん。確かに借金をしてたのは事実やけど、どもならんと悲観するほどのことはなかったはずや」


 誠二郎おじさんが、親父に支えられながら頭を抱える。

 俺もそう思う。

 昨日の隼人兄さんに自ら命を断つような逼迫さはなかった。逆に、明日に希望を抱いてるとさえ思えた。

 なのに、何故……。



「美代子さんの呪いや」


 ぽつりと、順子おばさんが呟いた。

 意図がわからず視線を向ければ、光が届かないほどの、深い暗闇を湛えている瞳とかち合う。


「全部美代子さんが死んでから始まってん。美代子さんの呪いに決まっとる。妙子さんと弘幸さんは美代子さんに当たりが強かったやんか。それで呪われてん。隼人も……美代子さんに幾らかお金借ってたさけ、きっとそれで……」

「美代子が?」


 隼人兄さんが、母さんから金を借りていた?

 親父も初耳なのか目を丸くしている。

 昨日、農業のやり方で誠二郎おじさんと対立しているようなことを言っていたから、両親は金を出さなかったのかもしれない。親父は誠二郎おじさんの肩を持つだろうし、それで、母さんが金を貸したのか……?

 確かに、母さんなら貸したかもしれない。昔から、困っている人を放って置けないたちの人だから。


「美代子さんのせいや! 美代子さんが隼人を呪い殺してん! 呪うくらいならお金なんて貸さなんだらええものを! 返せ! 隼人を返せ!!」


 順子おばさんは物凄い勢いで親父に掴みかかる。

 誠二郎おじさんはどうにかおばさんの肩を掴んで親父から引き離そうとしている。

 俺は呆然としていた。

 目の前の出来事がどこか作り物めいたフィクションのようで、まるで現実味がない。

 ただ立ち竦んだまま、三人を見つめていた。



 その後、刑事さんが部屋にやってきて、今のところの見立てはやはり自殺だと説明された。

 誠二郎おじさんも順子おばさんも、そんなことある訳がないと食い下がった。

 けれど、争った跡もなく、遺書も直筆だということで、警察は自殺の方向で捜査するとのことだった。

 これだけ親族で不幸が続いているのも、「他人の死は心が弱っている人間の死を誘発するから」とだけ説明され、刑事さんはそそくさと出ていってしまった。テレビドラマでよく聞くように、警察は自殺と思えるものは大して捜査をしないのかもしれない。

 当然ながら、誰一人として釈然とすることなかった。


 誠二郎おじさんたちのことが心配ではあったけれど、俺たちが居ると順子おばさんを刺激してしまうからと、仕方なしにその場を後にする。

 いつの間にか、太陽は頂点から少し降った所に位置していた。昨日の快晴から一転、空の所々に灰色の雲が横たわり、今晩にも雨が降る予感がした。


 帰りの車内、俺と親父は一言も言葉を発することはなかった。

 助手席に座り、只管ひたすらに窓の外に目を向ける。

『美代子さんの呪いだ』という順子おばさんの言葉が脳にこびり付いて離れない。

 どうにかその言葉を引き剥がそうと、山並みにかかる厚い雲を眺めた。


「呪い……」


 どこか胸に引っ掛かりを覚える。

 母さんの呪いだなどとは思わない。けれど何か……大事なことを忘れている気がする。

 結局、その引っ掛かりが何なのか分からないまま、一日が過ぎていった。



 ◇◇



 三日後。

 妙子おばさんと弘幸おじさんの葬儀が行われた。

 母さんの時とは打って変わって、みな一様に固く口を閉ざし、妙子おばさんたちの家はしんと静まり返っている。

 朝から降りしきる小雨が、空気をより一層重たくさせていた。


 みな何も言わないが、内心は恐れているのだ。

 次に死ぬのは、いったい誰なのか。

 本当に、母さんの呪いではないのかと。


 昨夜の通夜を見ても、やはりちらほらと来るべき人が来ていない。あまりに不幸が続きすぎて、関わりたくないと思われているのだろう。


 みな静まり返ったまま、二人分の骨壷を持って帰り、精進落としが始まる。

 ほんの一口だけ口を付けて帰っていく人も多い。

 こんなに静かで陰鬱とした精進落としは初めてだった。



「隆くん、大丈夫?」


 このじっとりとした空気に似合わない、花が咲いたかのようなあでやかな声。

 いつの間にか、るり子さんが隣に座っていた。


「ほんまに辛いわね」


 るり子さんは、またビール瓶を持っている。この前も見た光景だ。

 畳に膝をつき、空いている右の手を俺の手に重ねた。

 心臓が、どくりと跳ねる。

 部屋の中に、俺とるり子さんの二人しか居ないような錯覚を覚えた。


「辛い時には頼ってな。お願いよ」


 るり子さんが、俺の手をきゅっと握る。

 ひんやりとした彼女の掌の冷たさが俺の手に移って、二人の境界を曖昧にしていた。

 黒い着物に結い上げられたつややかな髪。白い頸にじっとりと滲んだ汗。

 るり子さんを見ていると、どうしようもない欲情が湧き上がる。

 何をこんな時に。そう思うけれど、もはや本能的にるり子さんに惹かれていた。


「さあ、一杯飲んで」


 瓶を差し出するり子さん。

 俺はその色香に当てられたまま、グラスを手に取り、るり子さんに向けた。

 胸が焼けるように熱い。

 けれどそんなことはどうでもいい。

 るり子さんのお酌を受けたいと、それだけしか頭になかった。


「じゃあ、お願いします」

「どうど」


 トクトクトクといい音がして、グラスに黄金色の液体が注がれる。

 普段あまりビールは飲まないけれど、なんだかこの上なく美味しそうに見えた。


「おおきに。いただきます」


 グラスを傾ける時間が惜しいとさえ思うほど、今すぐにこれを喉に流し込みたい欲求が俺を支配していた。

 ちらりと、るり子さんの顔を覗き見る。

 彼女の瞳に、少しでも俺への欲情が垣間見えないかと期待して。


 どくり、と心臓が止まりそうなほどの衝撃を覚えた。

 恋や欲情からではない。

 胸を支配したのは、圧倒的な恐怖だ。



 るり子さんが笑っている。

 きっと、笑っているのだろう。

 瞳が、余りに大きく、暗く。ただ深淵がそこにあるような穴。

 口が、三日月のように大きく裂けているように見えた。

 まるで、漸く獲物を仕留めたとでも言うような。

 この世のものではない、何かがそこに居た。



 瞬間、胸の熱さが一際高まった。


「っ!」


 思わずグラスから口を離し、胸を押さえて蹲る。

 熱い。熱い。

 火傷してしまいそうだ。


「なっとーしたん隆!」


 俺の様子がおかしいと思ったのか、横から親父が慌てて顔を覗き込んできた。

 その表情を見る余裕すらなく、俺は上着の内ポケットに手を突っ込み、熱さの正体を引き摺り出す。


「これ……母さんの御守り?」


 右手に握られていたのは、黒焦げになった御守りだった。


「なっとーしたんこれ!? なんでこがになってるんや!?」

「分からん……」


 無惨な姿になった御守りを手に、訳が分からず呆然とする。

 一体なぜ、こんなことに? 内ポケットのライターが誤って点いたのか?

 スーツを確認するが、特に燃えたり焦げたりしている跡はない。

 何が何だか分からないまま、御守りをハンカチに包み、再び内ポケットにしまった。


 実家に帰ってきてから、不吉で嫌なことばかりだ。元々嫌で出て行った所ではあるが、更に嫌な思い出で上書きされてしまった。

 もうここには居たくない。

 東京に戻ったら、もう、ここへは帰らない。

 内心そう決意した。


「嫌なことばっかりやなほんまに。……これじゃあいよいよ、隆はここが嫌いになるな」


 思わず心臓が跳ねる。親父に心を読まれたのかと思った。悪戯がバレた子供のように口を引き結び、恐る恐る親父の顔を見つめれば、今にも泣きそうな顔で俯いていた。

 そこで、思った。

 ここで俺が故郷を捨てれば、親父は一人だ。

 母さんも居ない。妙子おばさんもいない。誠二郎おじさんとも、今まで通り付き合っていけるか分からない。

 幼い頃あんなにも広く感じていた親父の背中は、絶望を抱えて小さく丸まっていた。


「そんなんないよ」


 どうにか親父に背筋を伸ばして欲しくて、思わずそう言った。

 無口で昔気質で、俺の苦手な親父。

 けれど、誰よりも頼り甲斐がある親父。

 嫌だ嫌だと言いながら、結局、俺は親父を尊敬しているのだろう。親父のこんな姿は見たくない。


「そんなんないよ。これからは、ちょくちょく帰ってくるさけ」

「隆……」


 親父はよりぐっと背中を丸めて、肩を振るわせた。

 俺はそんな親父から視線を逸らす。以前、母さんを前に涙する俺に背中を向けていた、親父のように。

 願わくば、他の誰も今の親父の姿を目に留めないで欲しいと思った。



 しばらくそうしていたか。

 親父は落ち着いたのか、顔をおしぼりでごしごしと拭くと、はあと一つ息を吐き出して、グラスに残っていたビールを煽った。

 続けて、既にしなしなになった舞茸の天麩羅を口に放り込み、不味そうに眉間に皺を寄せて咀嚼する。

 俺はグラスにビールを注いで、親父はそれをまた一気に飲み干した。


「おおきにな」

「いや……」


 また、二人揃って口を閉ざす。

 今は、何を言葉にしても無駄な気がした。

 ただ黙々と食事をする面々を眺めていた。



「そういうたら、さっき隆にお酌してた女の人、あれは誰や?」


 まるで空気を変えようとするかのように、調子外れの声で親父が言った。あまりにも露骨すぎて、いっそ笑える。


 ふっと息を漏らしてから、一瞬悩み、ハッとした。

 一体なぜ。

 何故、今さっきまで目の前に居たるり子さんのことを忘れていたのか。


「……るり子さん?」


 不可解な現象に困惑しながらも、彼女の名前を口にする。

 そう、るり子さん。彼女はるり子さんだ。


「ああ、そのるり子さん。あの人どこの人やったかな?」

「どこって……母さんの方の親戚やろ? 確か、俺の再従姉妹やんな?」

「再従姉妹? あんな子おったかなぁ」


 どうやら本当に心当たりがないようだ。

 親父ももう歳だな、と、自分のことを棚に上げて思う。


「ほら、母さんの実家で流しそうめんしたことあったやん」

「ああ、あったなぁそんなん」

「あの時おったやろ。母さんの方の親戚みんなおったさけね」


 母さんの実家に行くことはそう多くなかったが、それでも一番印象的なのが流しそうめんをした思い出だ。

 俺がまだ小学生の頃、母さんの方の親戚一同が集まって、びっくりするくらい長い流しそうめんをやったのだ。

 発起人が誰だったのかは覚えていないが、とにかく楽しかったと記憶している。


「……いや、あの時母さんの従兄弟夫婦は来なんだはずだ。確か出掛けに車、田んぼに落としてん。それで覚えとる」


 少し悩んだ後、親父は言った。

 従兄弟夫婦は来なかった……?

 だとしたら、まだ子供だったるり子さんだけが来るはずはない。

 じゃあ、この記憶はなんなんだ?

 はっきりと覚えている。

 水の中を流れていく白いそうめん。それをひょいと掬って口に運ぶ、まだ幼いるり子さん。そうめんを口に運ぶ際、唇からちらりと覗いた歯の白さまで、鮮明に記憶しているのに。


「そもそもあの人、通夜と告別式におったか?」


 親父が怪訝な顔で腕を組んでいる。

 いや、何をそんな当たり前なことを。


「おったよ。当然やろ」

「わしは見なんだ気ぃする。母さんの時もや」


 そんな馬鹿なことがある訳ない。

 それじゃあるり子さんは、食事の席にしかいなかったというのか?

 一体どうして。

 いや、そもそも俺の記憶では、確かにるり子さんは居たのだ。バスの中でも、骨壷に母さんのお骨を入れる時も……。


 待てよ。

 るり子さんは誰の隣に座っていた?

 誰とお骨を拾っていた?

 るり子さんの姿はあまりにも鮮明に覚えているのに、その周りの風景がぼんやりとして思い出せない。

 そう言えば、流しそうめんの時もそうだ。

 るり子さんの記憶は彼女だけが鮮明で、周りの光景があまりに朧げにしか覚えていない。


「そういうたら、あの人どこ行った?」


 親父の言葉にハッとして見回す。

 居ない。どこにも。

 ついさっきまで目の前に居たのに。

 訳が分からない。

 あんなにも強い感情を持って眺めていたのに、次の瞬間忘れているなんて。

 目の前からいつの間にか居なくなっていても、何も思わないだなんて。


 いや……待て。

 俺は今まで、食事の席以外で、ちらりとでも彼女を思い出すことがあったか?

 通夜の時、告別式の時、寝る前、起きた後。

 一度でも彼女のことを思い出したか?

 あれ程までに鮮明な印象を持つるり子さんが、まるで存在ごと消えてしまったかのように、記憶の片隅にも残っていなかったのではないか?


 ……本当に、彼女はずっと存在していたのか?


 そうだ。おかしい。

 深く考えれば考えるほど、るり子さんなんて親戚はいなかった気がする。

 そうだ。母さんの従兄弟の子供は、男しか居なかったではないか。彼らはきちんと葬儀に参列していたのに。

 どうして再従姉妹だと思った?

 どうして道中るり子さんがずっと居ると思った?


 そこで、はたと思い出す。

 妙子おばさんも、誠二郎おじさんも、隼人兄さんも。

 みんな、るり子さんにお酌をされてはいなかったか。


 途端に背中に冷たいものが流れる。

 何でそんな簡単なことに思い至らなかったのか。

 それは、るり子さんの存在を忘れていたからに他ならないだろう。

 他にるり子さんのお酌を受けた人は見ていない。

 そして俺はさっき…………彼女のお酌を受けてしまった。


 嫌な汗が一気に溢れてくる。

 るり子さんにお酌をされた人間は、翌日にはみな死体となった。


 次は。次は俺なのか。


 手が震える。汗が止まらない。

 偶然に違いないと何度も言い聞かせながら、俺は汗を拭こうと胸ポケットからハンカチを引き摺り出した。

 同時に、ハンカチで包んでいたあの黒焦げの御守りが、ぽとりと畳に落ちた。


 そうだ。

 この御守り。

 先ほど胸に感じた熱さは、きっとこれだ。

 何故御守りが焦げた?


『ご利益があるっちゅう神社まで行って、毎年こんな厄除け守り買うてきてんで』


 母さんが買ってきてくれた、ご利益のある神社の厄除け守り。

 この御守りが熱くなったから、るり子さんにお酌された酒を飲むのをやめた。

 そう、実際に飲むことはなかったのだ。

 もしかして……


「母さんが……守ってくれた?」

「なっとーしたん隆」

「いや……」


 父さんは、弘幸おじさんたちや隼人兄さんがるり子さんにお酌されていたのに気付いていないようだ。

 ……むしろ、認識しているのは俺だけかもしれない。

 弘幸おじさんも、隼人兄さんも、本来は俺に注ぐはずだったお酌を受けたのだから。

 彼らは、俺の代わりに……?



「それにしてもこんな不幸が続くなんて、あの話みたいやな」


 出し抜けに発せられた親父の独り言に、思考から意識が浮上する。

 先程まで不思議そうに座敷を見渡してるり子さんを探していたのに、急に興味を失ったように手酌でビールを注いでいる。


「あの話?」

「子供の頃おかんに聞いた御伽噺よ。御伽噺ちゅうか、怪談話の方が近いか。この辺りで立て続けに人が死んでまう時は、葬式にバケモンが紛れるんだと。いつの間にか他人の葬式に現れて、男を取り殺すんや。男に妻がおったらその妻も。そいつは、一族の中で一番最近成人したやつから狙うんやって」


 ヒュッと喉から息が漏れる。

 それは、それはまさに……。


「まあ、迷信や。一番最近成人したんはおまんやろ。おまんは無事やんか。それに、葬式で見慣れやんやつなんて、一度も見てへんしな」

「え……?」


 不自然なほど、けろりと親父はそう言った。

 つい先ほどまで、まさにそんな話をしていたのに。

 そんな話を…………あれ、なんだったか?

 つい今し方、自分が何かを恐れていた気がしたけれど、一体何だったかすっかり忘れてしまった。思い出そうと唸ってみたものの、一切何も出てこない。

 まあ、忘れるくらいなら大したことはないのだろう。


「さあ、帰るか」

「そやな」

「隼人の葬式まで、こっちにそのまま泊まってくやろ?」

「そうやんな。服がないさけ明日隣町に買いに行くわ」

「なら車で送っちゃるわ」

「おおきに。助かるわ」


 親父と普通に会話していることに、小さく感動を覚える。

 ここ数日二人で居る時間が長いからか、以前に増して打ち解けた気がする。

 悲惨なことばかり起きているけれど、それだけは良かったと思う。

 やはりこれからも、実家には顔を出そう。

 親父があの家でずっと一人で居る姿を想像し、そう考えを改めた。


 それにしても、思いがけず長居することになってしまった。


 隼人兄さんの葬式は、五日後だ。


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るり子さん 九重ツクモ @9stack_99

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