堀の小万

海石榴

1話完結 名妓「堀の小万」

 江戸も後期にさしかかった文化年間のことである。

 山谷堀さんやぼりの船宿に一人の娘が売られてきた。浅草いろは長屋に暮らしていた11歳のお松である。

 船宿武蔵屋の女将、お多喜たきが因果を含める。

「いいかい、お松。おまえのお父っつぁんは盗みを働いた。お上の御用となり、伝馬町の牢屋にぶち込まれたけど、盗んだ金の弁済はしなきゃなんない。そんなことは、子供のおまえにも分かるだろ」

 

 ちなみに山谷堀とは、吉原遊郭に繰り出す男たちの溜まり場である。江戸の町々から猪牙舟ちょきぶねや屋根船で大川(隅田川)をやってきた男たちは、この山谷堀で景気づけに一杯ひっかけて、駕籠で吉原に繰り出すという寸法である。


 お松は雛妓おしゃくとして芸妓修行に励み、16歳で「小万」と名乗ってお座敷に出た。しかし、クールビューティともいうべき美人すぎる面立ちが却って仇となり、なかなか人気が伸びない。小万は一人鬱々と悩んだ。


 ある日、江戸いちばんの料理屋として名高い八百善やおぜんのお座敷に呼ばれ、その席で蜀山人しょくさんじんこと大田南畝なんぽと知り合う。南畝は、当時、第一級の文化人であり、彼の狂歌や戯文は、一筆何十両もの値打ちがあった。


 南畝は小万の鉄火肌の気性と小気味よい話しぶりが気に入った。しかも盃を交わすほどに艶治えんやな表情を見せる。三味しゃみも踊りも巧い。それなのに、なぜか売れっ子ではないのだ。

 南畝が小万の耳にささやいた。

「おぬし、それほどの美貌と芸と気風きっぷのよさがありながら、名が売れておらぬ。惜しいのう」

 おのれの不遇を内心嘆いていた小万が、酔眼で南畝をきっと見据える。

「先生、惜しいとおっしゃっていただけるなら、どうにかしてくださいな」

「よかろう、その三味を寄こしな」


 南畝はすぐさま筆を執り、小万の三味の胴裏に、こんな戯文を書きつけた。

「詩は詩仏しぶつ、書は米庵べいあんに狂歌乃おれ、芸者小万に料理八百善」

 墨痕あざやかに記したのは、いずれも江戸の一流どころばかりで、そこに小万も名をつらねたのだ。江戸で盛名を轟かす南畝の直筆で、小万は一流芸妓として折り紙がつけられ、その嬌名は一躍、江戸の巷に知れ渡った。


 その半年後、吉原遊郭につづく日本堤で武士と火消し同士のいさかいが起きた。どちらも多勢をたのみ、しかも酒が入っている。一人の武士が刀のつかに「おのれっ!」と手をかけた。火消したちが腰から一斉に鳶口とびぐちを抜いた。

 そのとき、小万が緋色の蹴出しをひるがえして割って入った。

「なんだ、なんだい。ここは天下の往来だよ。迷惑もいい加減にしとくれ」

 武士が思わず刀の柄から手を離した。

「ほう、女ながら度胸がいいな。そのほう、名はなんと申す」

「堀の小万ってえ、取るに足りぬ芸妓でござんすよ」


 武士も町人も目を剥いた。堀の小万といえば、江戸随一と評判の名妓ではないか。

 小万が双方をゆっくりと見渡し、艶然と笑って言った。

「どちらさまも、お怪我がなくてよござんした。よろしかったら、わっちの酌で呑み直しといたしましょう。もちろん、払いはこの小万に任せてくださいな」


 この武士と町人の喧嘩騒ぎを見事にとりなしたという噂は、雲州松江藩の藩主出羽守治郷はるさとの耳に入った。

 治郷が側近に命じる。

「苦しゅうない。その小万とやら申す芸妓、藩邸に連れてまいれ。今宵、そやつの酌で一杯やりたい」

 出羽守治郷は名君として知られ、不昧ふまいと称した茶人でもあった。


 武士でありながら、五代目市川團十郎、人気女形の瀬川菊之丞、戯作者の烏亭焉馬うていえんば、強豪力士の源氏山などと親しく交わり、江戸赤坂藩邸に出入りを許していた。

 贔屓ひきを受けた小万も赤坂藩邸の常連となり、藩主の治郷さえ平気で蕩児扱いした。しかも野郎自大な相手には、いかなる上客といえど「のぼせんじゃァねえよ。お代は要らないから、とっとと帰んな」と巻き舌で啖呵たんかを切り、江戸っ子の喝采を浴びた。男たちは、小万のうしろ姿にも「ありがたや、小万観音。江戸っ子のかがみでいっ」とを合わせた。


 小万35歳になった頃であった。

 妹のように可愛いがっていた雛妓おしゃくを呼んで、こう言った。

「アンタなら、間違いなく一流の芸妓になれるよ。もしよかったら小万の名を襲名して二代目になっておくれな」

「えっ、じゃァ、姐さんはどうなさるんですか」

 翌朝、小万は飄然と諸国巡礼の旅に出て、ぷっつり消息を絶った。以後、行方はようとして知れない。


 ――了

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堀の小万 海石榴 @umi-zakuro7132

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