第五章 ダンスくらい、やってみせますわよ(4)
「イベルどのは、国の政策についてどう考えてる?」
アンジェリカの言葉に、エイベルが眉をひそめて目を向ける。
「僕の意見をいう前に、君の意見を聞きたいものだが」
「わたしはこの結婚を破談にしたい。だから……よそ者だよ。そのよそ者が内政について意見なんかできない」
「馬鹿な話だ。君はもっと
なんですって、と目を上げれば、エイベルは美しい眉を厳しく寄せている。
「君はいま皇国に住む。自分が住む場の改善に声を上げるのは当然だろう」
アンジェリカは胸を
なんだか、ずっとエイベルには意表をつかれてばかりいる気がした。
「その……雨季の洪水で痛手を受けた地域が回復していないって聞いたんだ。皇国はなぜ援助や復興に努めないの。北部風邪っていう病も
「僕が得られる情報は限られている」
エイベルは市場を眺めつつ、吐息のようにいった。
「だが、皇族と貴族どもが
「その地域から逃れてきた貧しいひとたちが、皇都に流れ込んでいるのは?」
「知らなかった。だが、ここで目の当たりにしている」
皇子はうつむき、体の陰でこぶしを握る。
「僕が育った場所は、裕福ではないが食いつめたものはいなかった。街もにぎやかで、領民はみんな母や祖父母たちを慕って……」
そのとき、はっとエイベルは顔を上げると、いきなり声を上げた。
「やめろ。子どもだぞ!」
いましも目の前で、果物屋の店主が骨ばかりに瘦せた子どもの腕をつかんでこん棒を振り上げる。どうやら子どもが店先の果物を盗もうとしたらしい。
やはり瘦せて浅黒く日焼けした店主は、不愉快そうに振り返る。
「子どもだろうが
「だったら僕がこの店の果物をすべてもらう。ティム、金を」
周囲にざわめきが広がる。物見高い見物客が集まってきた。
あわわ、とアンジェリカはあわてふためく。エイベルも帽子をかぶって顔を隠しているが、注目を浴びれば正体がばれてしまうかもしれない。しかしエイベルはかまわず、迷う顔のティモシーを促して金を払わせると店主に命じた。
「この果物をここに集う貧しいものたちに配れ」
「何様だね、小僧。なんでわしが命令されなきゃならんのだ」
「僕が買ったものをどうしようと勝手だ。文句があるなら配る代金も払う」
「困るんだよ。味を占めてまた盗人がたかりにきたら……」
やり取りのあいだ、つかまっていた子どもは店主の手を逃れ、持てるだけの果物を抱えて逃げ出した。助けてくれたエイベルへの礼など一言もない。
「なんですか、あの子は。助けてくださったイベルさまに感謝もしないとは」
不満げなティモシーにアンジェリカは吐息する。
「貧しいものは……そうなんだ。スラムでよく見た。いまを生きるのに精いっぱいで、他人の厚意を受け取る余裕なんてないんだ」
そのあいだ、エイベルはさっさと追加の代金を払い、いまだ不満げな店主を無理やり黙らせる。アンジェリカは彼の腕をつかんで引いた。
「イベルどの、いますぐここから離れて。急いで」
なに、とエイベルはけげんそうに眉をひそめるが、周囲に集まる人々の好奇の視線に気付く。追いかけてくる目線を振り切るために、アンジェリカはエイベルを
足早に歩きつつ、アンジェリカはささやく。
「貴方のお志は尊く思うけど……ああいう真似はやめたほうがいい」
「なぜだ。目の前で困窮するものを見捨てろというのか」
「違う。たとえば、ミルドレッド皇女みたいに自費で配給所を作るとか」
「残念だが、僕にはそういう権限がない」
悔しげにエイベルは吐き捨てる。
「だが権限を持てるまで待てば、あの子は飢える。あるいはぶたれて酷い怪我を負ったかもしれない。僕のやり方は間違っていない」
「貴方はわたしをもっと賢いと思ったといったけれど……わたしだって、あなたをもっと冷静なひとだと思ってたよ」
「そうか。君の期待にそぐわず遺憾だ」
「皮肉でいったんじゃないの」
アンジェリカはなだめるように話をつづける。
「目の前でつらい目に遭っている人間を見捨てるのは、わたしだって無理。でもあんな目立つやり方では、助ける側の貴方をいまより苦しい立場に追い込みかねない。できれば、援助に慣れたひとを介するのが得策」
アンジェリカの言葉に、エイベルは唇を強く引き結ぶ。
「……わかった。次は君の案を取り入れる。納得できる策ならば」
存外素直な返事だった。
アンジェリカは、隣を歩く皇子の美しい横顔をそっと盗み見る。
冷静かと思えば衝動的な熱情があるひと。秘密主義で容易に心は開かないのに、自分が間違っていたと思えば受け入れる素直さと度量があるひと。
決して悪い人間ではない。それは間違いない、絶対に。
そう思ったとたん、天啓のような確信が胸に生まれる。
(──このひとは、〝母殺し〟じゃない)
だれかを殺せるひとではない。目の前の困窮する子どもを見捨てられないひとが、ティモシーやその父母、領民たちに慕われていた母親を殺せるはずがない。だが、彼は甘んじてその汚名を受け入れている。いったい、なぜ。
知りたい。彼が隠す秘密、彼の過去。
それが好奇心だけではないことに、アンジェリカはうっすらと気付く。しかし、その感情をよく見据える前に──。
「……っ!」
ざわりとうなじの毛が逆立つ感覚がした。
周囲の違和感に気付く。三人が歩くのは街外れの市場からつづく、家々に囲まれた路地。人々の行き来もわずかで、薄暗いなか遠くから荷馬車が行き交う音が響く。
そんな人通りの少ない場所で、三人以外のだれかが、いる。
「どうした、そんな険しい顔をして」
エイベルが察して尋ねると、ティモシーも身をかがめてのぞき込む。
「だめ。なんでもない顔して歩いて」
アンジェリカはささやきながら、頭のなかで考える。
確実にだれかにつけられている。背中を追う視線を感じる。
相手はだれ? まさかエイベルの正体に気付いた? あるいは皇子宮からつけてきて、皇子が失態を犯すのを待っていた?
「こちらの腕を知らないようだな」
エイベルも尾行に感づいたようだ。
「三人ならどうとでもなる。あちらの数さえわかれば」
「ほんと意外にも血の気が多いよね、貴方は」
こんなときだが苦笑がこぼれ、あわててアンジェリカは顔を引き締める。
「この辺なら道がわかる。わたしについてきて」
アンジェリカたち三人は何気ない様子で通りをぶらつく。その背中を、複数の目線が追いかける。
ふいに三人が走り出し、建物の陰の路地へと素早く消える。
あとをつけていた追手たちは、姿を隠すのをやめてその裏路地に駆け込んだ。
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