第五章 ダンスくらい、やってみせますわよ(3)
◆
とはいえ準備に時間がかかり、アンジェリカがエイベルを連れて皇子宮を抜け出せたのは半月以上あとのこと。
皇子宮へ農作物を運んできた商人に報酬を支払い、荷馬車の荷台に隠してもらって外へ出ることができた。
監視しているわりに手薄なのが不思議だが、六年も軟禁状態でそのあいだ見張っていたのなら、油断が生まれているのかもしれない。
……あるいは、エイベルの失態を待っているとも考えられるが。
「下町は久しぶりですよ! やっぱり、にぎやかですねえ」
護衛で同行のティモシーは、きらきらしたまなざしで朝も早い市場を見回す。
下町を歩く三人は市井の人々らしい質素な服。明日の早朝、商人と街はずれで待ち合わせ、皇子宮へ戻る予定。つまり、丸々一日自由の身。
「
ティモシーの楽しげな言葉に、エイベルは興味なさそうに返す。
「道端で売っているものだぞ。食べて平気なのか」
目深にかぶった帽子の下の皇子の顔は、いつもと同様に冷静だ。もっと驚く顔が見られると思ったのにつまらない、とアンジェリカは少し
「わたしは何度も食べたけれど、なにもなかった。試せばいいのに」
煽るように得意げなアンジェリカを、エイベルがまじまじと見つめてくる。
「なに。なにかいいたいことでもあるの」
「なぜ、ふだんもその話し方ではないんだ」
え? とアンジェリカが戸惑うと、エイベルはいつになく穏やかな声でいった。
「そのほうがいい。君らしさがある」
思わずアンジェリカは頰が熱くなる。
あわてて目をそらすが、どういうわけか心臓がどきどきして落ち着かない。
(な、なんで顔が熱くなるの? 当たり前のことをいわれただけなのに)
これが自分の素の言葉遣いだ。だから当然の指摘だ。それでも、いつもそっけない彼が珍しく褒めるようなことを口にするので、調子がおかしくなってしまう。
「そ、そういうわけには。仮にも、その……姫なんだから」
「姫らしくない自覚はあるわけだな」
揶揄する口調に、む、とアンジェリカは口を尖らす。やっぱり、いつもの皮肉屋なエイベルだ。だいたい六年も軟禁されてやっと外に出られたのに、ティモシーのようなわくわくと心はずませる様子もないなんて、まったく可愛げがない。
だが、よくよくエイベルを観察してアンジェリカは気付く。
彼のまなざしは、なぜか懐かしそうで、そしてどこか胸が痛む切なさがあった。失われてしまったなにかを、思い出すような。以前にもこの下町を訪れたことがあるのだろうか。いや、そういう久しぶりという感覚ではなさそうだ。
「あの、騎士さま……じゃない、ええとティムどの」
エイベルが市場や行き交うひとを眺めている隙に、アンジェリカは声をひそめて青年騎士のティモシーにそっと尋ねる。
外では固有名詞は出せない。だれが聞いているかもわからないからだ。ティモシーは略称のティム、エイベルはイベルと偽名で呼ぶと決めてある。
「イベルどのは、いまの場所に住む前はどちらに?」
「はい、いまは亡きお母上のご領内に住んでいらっしゃいました。領地の街は、ここほどではないにしろ、にぎやかでしたよ」
亡き母親の領地。そういえば、マグナイト鉱山を所有していると話していた。
懐かしそうなまなざしは、幼いころ見た領地の街と重ねていたのか。
「父と母は、イベルさまのお母上に仕えていたんです」
ティモシーは頭を上げ、空の遠くを見つめる。
「心広く優しいお方で、ひとり息子のイベルさまをとても慈しんでおられました。父と母を信頼し、使用人とは思えない厚待遇をしてくださいました。おれにも家庭教師で教育をつけてくれて、剣の稽古のために師匠まで手配してくれたんです」
「そう……だから、あなた方ご家族はイベルどのによく仕えてるのね」
「でも、イベルさまご自身のことも、すごくお慕いしてます!」
明るく屈託のない笑みで、青年騎士は答える。
「誤解されがちですが、お優しい方です。おれたちへの報酬に、皇子宮での予算のうちからかなり割いてくださってます。それだけでなく、ご自分で自室を掃除し、庭も掃き、衣類の洗濯から食器の片付けまでしてくださるんです」
ティモシーは温かなまなざしで、前を歩くエイベルの背を見つめる。
「照れ屋な方なので、おれたちは見て見ぬふりをしてるんですが。父や母の手をわずらわせないようにとのご配慮が嬉しくて。そうそう、イベルさまお手製のハタキもあるんですよ! 古着を使って自作された……って、どうされたんです?」
アンジェリカが肩を震わせるので、ティモシーはけげんな顔になる。
わざわざ夜に掃除するのを知られたくなさそうだったのに、ちゃあんと皇子宮のみんなは承知して、彼の心遣いに感謝して黙っている。
しかも、古着を使った自作のハタキ? 氷皇子ならぬお掃除皇子だ。
うわさに聞いていたより、ずっと庶民的な性格ではないのか。まあ、冷ややかで無愛想なのも間違いなく彼の性格だろうけれど。
「ううん、なんでもない。うん、愛されているのは承知したよ」
「なにをひそひそ話をしている」
さすがにエイベルが気付いて振り返った。アンジェリカはにっこり笑って首を振ると、彼の隣に歩み寄る。
「なにか気に入ったものは? 小遣いは持ってきたし、買い物はどう?」
「特にない。少ない予算を無駄遣いはしない」
「しみったれたことを。それに自分のものを買えとはいってないよ」
慣れた場所と素の自分を出せる嬉しさで、アンジェリカは偉そうになる。
「日頃世話になっている相手に贈るものとか、どうかな」
「……そうだな。だが、ティム一家がなにを喜ぶか」
意外に素直にエイベルは提案を受け入れる。
「贈り物は、趣味から近づくのがいいんじゃない?」
「門外漢の贈り物など、見当違いになる」
「趣味そのものを贈れなんていってないって。音楽が趣味なら楽器手入れ用の脂。読書が好きなら
といって目を移せば、エイベルが意外そうにこちらを見ているのに気付いた。
「もう三人の好みを把握したのか。まだひと月も経っていないのに」
「そんなの一週間も要らないもの。観察してたらかんたんだ」
不思議に思われることこそ不思議だと思いつつ、アンジェリカは答える。
「楽器は古くて使い込まれていたし、ひとりで訓練をしている姿をよく見かける。日刊マグナフォートをひんぱんに読んでいるなら、読書家で知識人の証拠」
「日刊マグナフォートはゴシップ紙だろう」
「扱うのは醜聞だけじゃない。時事ネタもあるでしょ」
ふむ、とエイベルは考えるように指をあごに当てる。その姿にアンジェリカはほほ笑んだが、ふと周囲を見回す。
市場のそこかしこには、多くの物乞いがたむろしていた。
店主に追い払われる瘦せ衰えた子ども。幼子を抱えて座り込む母親、地面にうずくまって動かない老人が市場の者に舌打ちをされている……。
遠い故郷のスラムの臭いがした。ひとの恩情にすがらなければ立ち上がることもできない人々。その日を生き延びることしか考えられない人々。
病や天災のためなら断じて彼らのせいではない。いや、生まれですでに貧しくて、前に進む足がかりもないなら、だれかが手を差し伸べなければ。
貧しくとも本と学問を与えられたアンジェリカは、どれだけ幸福だったか。
政治経済学者の祖父はスラムの現状に「貧困は国の病」だと常々いっていた。こんなときのために、国政はあるはずなのに。
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