第五章 ダンスくらい、やってみせますわよ(2)





「……まさか、翌日の朝からなんて」



 自室での朝食のあと、早速侍従長が呼びにきたので、アンジェリカは気が進まないながらも簡素なドレスに着替え、皇子宮で一番広い部屋へと向かった。



「遅い」



 一歩入るやいなや、待ちかまえていたエイベルから厳しい言葉が飛ぶ。さすがにむっときて、アンジェリカはつっけんどんに返した。



「こんな早朝からとは思いもいたしませんでしたのですわ」


「そうだったな。察しの悪い君のために時間もちゃんと指定するべきだった」


「察しがいい悪いではございませんことよ。連絡不備の問題でございますわ!」


「気が進まないという言い訳はその辺にしろ」



 相も変わらず取り付く島もないエイベルに、アンジェリカは足を踏み鳴らしたくなった。そこに侍従長が小型の弦楽器を抱えて現れる。



「それでは、不肖わたくしめが伴奏を務めさせていただきます」


「まあ、侍従長さまは家内のことだけでなく、楽器まで演奏できますの」


「大したことではありません。姫君のお稽古のお役に立ちますれば」



 アンジェリカの感嘆の言葉に、侍従長はほほ笑んで会釈した。



「時間が惜しい。まずは軽くステップの練習をする」



 無表情にそのやり取りを眺めていたエイベルが、一歩踏み出す。



「円舞曲の基本の足取りだ。これを覚えておけばそう不様にはならない」


「あの……ちょっとおうかがいしたいのですけれど」



 アンジェリカはいぶかしげに眉をひそめる。



「手をつながなくて、よろしいのですかしら」


「必要ない」



 そっけなく答えるエイベルの両手は宙に浮いている。



「近づき過ぎて足を踏まれたらかなわないからな」



 なーんーだーと。アンジェリカはむっとして眉を逆立てる。



「剣術の心得はございますの。殿下の華奢なおみ足を踏む心配はございません」


「いいや。君の力強い足踏みでつぶされるのはごめんこうむる」



 ふたりは火花をまき散らすようににらみ合った。



「殿下。それは間違っておられます」



 こほん、と侍従長がせきばらいをする。



「〝ダンスとは会話であり、対話である〟との言葉があります。パートナーとなるお方との対話を、練習であっても欠かすのはいかがかと存じます」



 む、とエイベルは言葉に詰まる。侍従長はいんぎんに頭を下げた。



「差し出がましいことを申し上げました。どうぞお許しを」


「……いや、おまえのいうとおりだ」



 決意の顔でエイベルはアンジェリカを見据える。



「少しくらい踏まれるのは覚悟しよう」


「わたくしが踏むのが大前提ってこと!? ええ、それでは遠慮なく」



 目にもの見せてくれるわ! とアンジェリカはひそかに意気込んだ。


 エイベルは唇をきゅっと引き結ぶと、どこかぎこちなくアンジェリカの手を取り、背中に手を回す。目もそむけ、触れ合う指先も固い。


 おや? といぶかしく思って、はたとアンジェリカは気付いた。


 もしや、照れてる……? と思った瞬間、こちらもつないだ手のひらや背中に回された腕を意識してしまって、カッと耳たぶが熱くなった。


(ど、どうして……ちょっと、その、手をつないだだけなのに)


 ああもう、とアンジェリカは自分に戸惑う。二十二歳にもなって、十九歳の青年とのほんの軽い接触にもこんな恥ずかしくなるなんて、子ども以下だ。


 弦楽器の音色が響き始めた。あわててアンジェリカは顔を引き締める。



「まずは基礎も基礎の右ターン。曲を聞けばわかるだろうが、ワルツは三拍子」



 エイベルは顔をそむけたまま説明する。



「したがってワルツの基本ステップは三歩だ。行くぞ」


「え、ま、待ってくださら……ひぇえっ!」



 説明を吞み込む前に、いきなりエイベルは動き出した。


 目にもの見せてくれるとの意気込みはどこへやら、エイベルの滑るような早い足取りに翻弄されて、アンジェリカは転びそうになる。



「あ、あの、目が回る……っ!」


「これくらいの速度にもついてこられないのか」



 エイベルは冷ややかにいった。初心者のアンジェリカにまったく配慮もしない。


 こいつ、とアンジェリカは悔しくなるができないのはあきらかなので、必死になって彼のステップを真似しようとする。



「耳がついてないのか。曲を聞け」「なんだその、泥を歩くような速度は」「これなら棒切れを振り回したほうがマシだ」



 びしばし容赦のない言葉を浴びせられ、うわーん、とアンジェリカは泣きたくなった。エイベルのしごきは思った以上にきつい。



「今日はここまでにしてやる」



 小一時間、みっちり基礎のターンだけくり返し、エイベルは練習の終了を告げた。ぜえはあ、とアンジェリカは膝に手をついて肩で息をする。



「今日は……って、明日も……でございますですの!?」


「当然だ。基礎のターンもできないのに甘えるな。あと一ケ月、舞踏会でせめて不様にはならないよう毎日稽古はつづける」


「わっ……かりましてでございますですわよ」



 こぶしを握り、アンジェリカは顔を上げる。



「ええ、基礎くらい明日には会得してみせますでございますわ!」


「今日の不様さからすると、三日は必要だな」



 エイベルは息を抑え、冷徹にいい返す。ぐぐ、とアンジェリカはみした。


 どうにかしてその澄まし顔の鼻を明かしてやりたい! とむきになる。


 だが、彼に欠点はあるのだろうか。剣術の腕前はおそらく互角、ダンスはむろん、身体能力にも優れ、頭の切れもいい。冷たい性格は欠点といえるが、それこそアンジェリカが競うようなものではない。


 うぬぬ、とアンジェリカが姫としてのたしなみを忘れて腕組みをしていると、



「……いや、君は怪我をしていたのだったな」



 ふいにエイベルが目をそむけ、声を落とす。



「牙猪のような勇ましさに失念していた。気遣うべきだった」


「あの、お気遣いはともかく……前半の表現は、いったい」


「もちろん、褒めているつもりではないが」



 なにをぅー! とアンジェリカがにらみつけると、演奏していた侍従長が弦楽器を下ろしてにこやかにいった。



「おふたりとも最初から息が合っていて、ようございました」


「なんだと」「なんでございますって!?」



 ふたりは同時に声を上げるが、老侍従長は嬉しそうにほほ笑むばかり。



「姫がこの宮にお見えになってから殿下は目に見えて楽しそうで、侍女長と日々喜び合っているのですよ。本当に、ようございました」



 裏表のない笑顔にアンジェリカは落ち着かない。エイベルも不機嫌に返す。



「……親子そろって見当違いのことを」


「おや、ティモシーの目にもやはりそう映っておりましたか」



 侍従長の笑みにエイベルはあからさまにそっぽを向いた。いまのやりとりからふと思いついた疑問を、アンジェリカは口にする。



「そういえば、殿下はいったい何年のあいだ、外出もままならないようなこんな生活をなさっておいでですの」



 エイベルは答えに迷う顔になるが、結局は口を開いた。



「六年だ」



 驚きに、アンジェリカは大きく口を開ける。



「ろ、六年? ええと、いま御年十九歳でございますから……そんな」



 十三歳から、この宮に閉じ込められるようにして暮らしてきたのか。


 自分は十九歳からの三年だったが、その倍の年月。十三歳といえばやっと子どもを脱したくらいの、まだまだ少年の年。そこから六年も、外の生活を知らずに過ごしてきたというのか。反目し合う相手の境遇とはいえ、あまりに過酷だ。


 絶句するアンジェリカを、エイベルは鋭い目でにらんできた。



「哀れむつもりか」


「まさか! ですけれど、あまりに酷い話ではございませんの」


「不満はない」



 そっけなくエイベルはいうが、アンジェリカは逆に感嘆の想いがこみ上げた。


 彼の鍛えられた身体能力や知性は、きっと六年もの軟禁生活のなかで日々たゆまず努力して培ってきたものに違いない。エイベルのなかには、だれにも消せない炎のごとき強い意志がある。……その意志の目指す場は、いまだ不明だけれど。



「そうだ、殿下も下町へまいりませんこと?」



 思い付きが口を飛び出す。さしものエイベルも、そして控えていた侍従長も、アンジェリカの突飛な提案に驚きの目を返す。



「忘れたのか。僕は……」


「蟄居中とは存じてますですわよ。皇子宮の周囲に監視の目もありますし、お招きがなければ自由には出られませんわよね。でも」



 もしかしたら、皇子の鼻を明かせるかもしれない。六年もの軟禁状態から、ほんの少しだけでも、この不遇な皇子を解放することだって。



「わたくしに案がございますわ。どうか、お試しさせていただけません?」



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気になる続きは、明日10月1日更新!

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