スピカ ~一番星~
かるら
第1話
「もう今はカッコいいだけじゃなくて、何かもう一つ欲しいんだよね」
タンクトップやパーカーのデザイン画が描かれた数枚の紙を机に置きながら、社長は苦笑混じりに目の前に立つ早乙女凛花に告げた。
単刀直入に言い換えると『ボツ』という事である。
「あ~……じゃあ描き直してきます」
気だるそうにポリポリと頭を掻き、凛花は紙を受け取ると社長室を後にした。
この小さなデザイン会社に就職して三年。最初の頃は凛花がデザインした洋服が一番売れていた。しかし近頃では人気も下降気味である。
「メンズものだからカッコいいだけでいーじゃねーか」
黒の生地にシルバーのスタッズ。同じくシルバーのラメで髑髏のイラスト。それが凛花デザインの特徴である。
返されたデザイン画を一枚一枚眺めた後、凛花は溜息を吐くとともに「くそっ」と呟き、近くのゴミ箱へ放り込んだ。
「リッちゃんどうしたのぉ? 急に電話入れてきてぇ」
金に近い茶髪をくるくると巻き、何本マッチ棒が乗るか試してみたくなるほどの付けまつげ。胸元は大きく開いて自己主張しており、足元のヒールは歩くたびに高い音を響かせている。
「ん~? なんかモヤモヤしてたから」
「ムラムラの間違いじゃないのぉ?」
くすくすと笑いながら女が胸を押し付けてくる。その肩に腕を回しながら凛花は夜の繁華街を歩く。
ストレス発散には、後腐れのない女と遊ぶのが一番。
「今からナニして遊ぼうか?」
笑みを含んだ声で、凛花が女の耳元で囁いた時であった。
「はあっ!? ふざけんなよ、お前!」
イラついた男の怒声。
「やだぁ。ケンカ?」
「じゃねーの? 酔っ払いとか、こういう所じゃよくある事じゃん」
関わると面倒になる事は明らかである。凛花は目を逸らし、足早に歩を進めた。
「おい、そこのチビ。お前、チビのくせにいい女連れてるじゃねーか」
ピクリと凛花の肩が反応する。
『チビ』。それは身長百六十センチの凛花にとって、禁句の一つであった。
しかしこんな場所で、しかも女連れで酔っ払い相手に喧嘩をするなんて馬鹿以外の何ものでもない。そちらを見る事もなく、無視して通り過ぎようとする。
「チビにその女は勿体ないよ。おい、置いてけ」
ガシッと肩に手を置かれ、凛花は仕方なく足を止めた。酒臭い息が顔にかかった。
「ちょっとぉ、リッちゃん……」
怯えた女が、組んだ腕に力を入れてくる。その様子がさらに酔っ払いの気を引いたらしい。
「可愛いお名前ですね~。『リッちゃん』だって。じゃあチビなリッちゃ~ん。怪我したくなきゃ一人でおうちに帰りなさい」
頭に血が上った。
凛花は女の腕を振り払うと、右拳を酔っ払いの顔面めがけて繰り出し……
「あの~、俺の相手はどうなったが?」
あまりにも間の抜けた声に、凛花の手が止まる。酔っ払いも凛花から体を離し、声の方に体を向けた。
「え~と……俺との決着をつけてから、次の相手、して下さい」
そうオドオドした物言いで姿を現したのは一人の青年だった。
一八五センチはあろうかという背の高さに、黒髪に金のメッシュ。強そうな外見だが、その話し方がちぐはぐな印象を与えている。
「うるせーなー。じゃあお前から相手してやる……よっ!」
酔っ払いが青年の胸ぐらをつかみ、拳を振り上げた。しかし青年はそれをひょいっと避けると、胸倉をつかんでいる手首をいとも簡単に外し捻り上げる。
痛みに、酔っ払いは顔を歪め、呻き声を上げた。それを見た青年は、「降伏け?」と小首を傾げるとパッと手を離す。
それを待っていたのか、酔っ払いは全体重をかけて青年にタックルした。避ける暇もなく二人は近くのゴミに倒れ込む。
缶がつぶれ、ビンが割れる音が響く。
倒れ込んだ二人は動かない。
「ね、ねぇ、行こう? リッちゃん」
女が裾を引っ張るが、凛花はそれを払うと二人に近づいていく。
「もう知らないっ! リッちゃんなんか絡まれちゃえっ!!」
子供じみた捨て台詞を吐くと、女はヒールの靴音高く走り去っていった。
「おい、大丈夫か?」
恐る恐る声を掛けてみる。すると片方がピクリと動いた。
酔っ払いは体を起こすと、振り向きざまに凛花の肩を思い切り突き飛ばし、「馬鹿には付き合ってられねーよ」と唾を吐き捨て雑踏の中に消えていった。
よろけた凛花は打ち捨てられた看板にぶつかり、耳障りな音を立てる。がしかし、青年は目を閉じたまま。凛花の不安が一層高まった。
「お、おい、お前……」
青年の頬に手を当てる。温かい。そのままペチペチと叩く。
「んぅ……」
瞼が震え、青年の瞳がゆっくりと開かれた。その焦点が凛花を捕らえると、青年の口元がほころぶ。
「あー寝ちゃってたぁ」
ガクリと凛花の肩から力が抜ける。
何だ、コイツ。心配して損した。
凛花は一つ息を吐くと、青年の頬に当てていた手を引っ込めようとする。しかしその手が掴まれた。
「っ……!」
先ほどの酔っぱらいの様に捻られるのかと思い、凛花は身をこわばらせる。
「何か背中が痛くて……起こしてくれん?」
一応凛花を助けてくれた恩人である。凛花は青年の手を取り立ち上がらせた。
「う~……いてててて」
青年が立ち上がるとともに、つぶされた生ごみの臭いがたつ。その臭いに顔をしかめながら、凛花は青年に頭を下げた。
「助けてくれてありがとうございました」
そう言い、財布から一万円札を取り出す。
「これ、服のクリーニング代。受け取って……」
しかし青年は、札ではなく凛花の手を握った。
はぁ? コイツ、何してんだ?
眉を寄せ、顔を上げる。目が合うと、青年は申し訳なさそうにへらっと笑った。
「俺、帰るとこ無いけぇ、一晩泊まってもいいけ?」
「はぁ!? 何言ってんだ?」
思わず声に出てしまう。正直、もう関わりたくない。それが本音である。それに、生ごみの臭いを付けた青年を家にあげたくない。
「一晩でいいけぇ……」
困ったように笑う青年のこめかみを、一筋の血が伝った。
「朝になったら出て行ってくれよ。あと、ちゃんと病院に行け」
凛花は眉間に皺を寄せながら、青年の頭に包帯を巻く。
流血に責任を感じた凛花は、渋々青年を家に上げて手当てをしていた。汚れた服は玄関で脱いでもらったのだが、割れた瓶の破片で背中にも怪我をしており、ますます放り出す訳にはいかなくなったのだ。
「ありがとぉ」
凛花のTシャツとスウェットを着た青年が微笑む。
のほほんとした笑顔に、凛花は「ふん」と鼻を鳴らし顔を逸らした。
あー面倒臭い事って重なるもんだな。
そう思いながら、ビールでも飲もうとキッチンへ足を向ける。その耳に、グーッという音が飛び込んできた。
次に聞こえてくるであろう言葉を予想しつつ、凛花はゆっくり首を巡らす。
「お腹空いたぁ~」
困ったように眉を寄せお腹をさする青年の姿に、凛花は恩人という事も忘れ声を荒げた。
「お前、手当てしてもらって、一泊させてもらってその上食事まで要るっていうのか!?」
「蘭丸。滝蘭丸っていうんよ」
にこにこと自身を指差して青年は名乗った。
空気を読まない発言と表情に、凛花は怒りを通り越して呆れてしまう。しかし今から作るのも面倒なので、何かないかとキッチンを見回してみる。
「なぁ、何て呼んだらいいけ?」
運良くカップ麺を見つけた凛花は、ビニールを破りながら蘭丸の質問にどう答えようかと迷っていた。
『凛花』。読み方も漢字も女みたいで好きになれないのである。
「それよりもお前……滝さん、どこ出身なの?」
やかんを火にかけながら話を逸らす。さっきから気になっているが、どこの方言なのか分からなかった。
「蘭丸でいいよ。え~と、出身は田舎よ。んで、色んな所を転々として、今はここにいるがよ」
蘭丸は「ここ」と床を指差している。
「あー……訊いた俺が悪かった」
親が転勤族だったのだろう。それで色々な所に行って、そこの方言が混じっている……と解釈することにした。
「で、名前は何て言うけ?」
どうやら忘れてなかったらしく、蘭丸は再び質問を投げかけてくる。
湯が沸くまで数分。次はどう逸らそうかと考えるも、「なぁなぁ」と子供のように急かしてくるので、仕方なく「凛花」とぼそりと答える。
「凛花。凛花かぁ~。だからあの彼女さん、『りっちゃん』って呼んでたのかぁ~」
納得したのか、蘭丸は頷く。
シュンシュンとやかんが騒ぎ出した。凛花はカップ麺に湯を注ぐと、蘭丸が待つテーブルに持って行こうと振り返る。
「うおっ!」
目の前に蘭丸が立っていた。驚きのあまり、カップ麺を落としそうになり慌てて持ち直すも、「あちっ!」と呻いてしまう。
「だ、大丈夫け?」
オロオロと手を出した蘭丸は、何故かカップ麺ではなく凛花の手に、手を重ねた。
「おい、何してんだ? 熱いんだけど」
「へ? あ、ああごめん」
ペコペコ頭を下げながらカップ麺を受け取った蘭丸は、心配そうな目を凛花に向けてくる。
「何だよ」
サイズが合っておらず、パツパツのTシャツとスウェットパンツを着た青年にそんな視線を向けられ、凛花は眉を寄せて問う。
こいつには、ヘラッとした笑顔と困り顔しかねーのかよ。
「りっちゃんが火傷してないかなって」
予想外の答えに凛花は目を見開くが、すぐに目を細めて蘭丸を睨みつけた。
「何でお前に『りっちゃん』呼ばわりされねーといけねーんだよ」
女ならまだしも、初対面の、しかもヒョロリとした不思議ちゃんな男にそう呼ばれても嬉しくない。
それを聞いた蘭丸は、カップ麺をテーブルに置くと、再び戻ってきて腕を組み、「うーん」と唸り始めた。
どうせ下らねー事でも考えてんだろ。
ジト目で凛花が見詰めているとも知らず、蘭丸は目を閉じ、首を左右に傾けながら唸り続ける。
「おい……」
「ラーメン伸びるぞ」と続けようとした時だった。
「よしっ!」
蘭丸はカッと目を見開き、大きく一つ頷くと満足そうな表情を浮かべる。
「今日から『凛花』って呼ぶけぇ」
「そのまんまじゃねーか!?」
漫才コンビみたく素早く突っ込んでしまった。凛花は慌てて「そうじゃなくて」と続ける。
「いきなり名前で呼ばれるほど、お前と仲良しになった覚えはない」
「家に上がれば、もう友達よ」
何故か不満そうに唇を尖らせると、蘭丸はとことことテーブルに戻り、箸を手に取る。
「そして、食事を出してもらえれば親友よ」
そう言うと、蘭丸はニヤリと口の端を上げ、ベリッとカップ麺の蓋を剥がした。
「ちょっと待て! なら食うな!」
「もう遅いっ!」
勝ち誇ったような顔でズルズルツと麺を啜った蘭丸だったが、すぐに眉尻を下げた情けないものに変わった。
「……凛花、これ、伸びてるがよ」
「知らねーよっ!!」
再び鋭く突っ込んだところで、凛花ははっと我に返る。
いつの間にかこいつのペースに乗せられてるっ!?
ゴホンと咳ばらいをし、凛花はキッと蘭丸を睨みつける。
「それ食ったら何も言わずにとっとと寝ろ。んで、朝、日が昇るとともに出て行け」
ちゅるると伸びた麺を啜りながら、こくりと蘭丸は頷いた。
凛花の一言が効いたのか、それから蘭丸は口を開く事は無く、食べ終わった容器を黙々と片付け始める。
そんな蘭丸を見ながら、凛花は溜息をついた。
本当に今日は散々な日だ。本当なら今頃は女と遊んで、多少はすっきりしてるはずなのに……これじゃあ、余計にストレスだ。
湧き上がってきたイライラを抑え込むように、グイッとビールを飲み干すとゴミ箱に向けて放り投げる。
と、先程捨てたデザイン画の事が頭に浮かんだ。
『カッコいい』だけではもう売れない。
売れ行きが落ちてきて、本当は凛花も焦っていた。何が足りないのか、何が駄目なのか。それが分からない。
「?」
ビールの缶を投げた姿勢のまま固まっている凛花を見て、蘭丸が不思議そうに首を傾げている。
凛花が言った事を忠実に守っているのか、口を開かずに見つめてくる。
「……何だよ?」
問う凛花に対し、蘭丸はぶんぶんと首を横に振った。
「何でもないならさっさと寝ろ」
ソファを指差しそう言うと、これまた忠実な犬の様に蘭丸はそこに寝転がる。
それを見届けると、凛花は棚から一冊のノートを取り出した。汚れた表紙。くたびれたページ。
それは、暇な時に描いていたデザイン集だった。
パラパラ捲ってみる。しかしどれも黒で髑髏モチーフ。
「……昔から変わってねーじゃん」
それを今更どう変えればいいのか。凛花は頭を抱えたくなる。しかし自ら描き直すといった手前、何か一枚でも描かなくては格好がつかない。とりあえず白い紙を取り、ざっとパーカーのデザインを描いてみようとペンを手にした。
カッコいい以外の何か……考えれば考えるほど、ペンは少しも動かない。そういう時に限って、やけに時計の音が耳につく。それはまるで凛花を急かすようで……
「うわっ!?」
時間を見ようと顔を上げると、後ろから覗き込むようにして蘭丸が立っていた。
「な、何して……ってかいつの間にっ」
しかし蘭丸はそれに答えず、ずいっと広げられているノートに顔を寄せ、デザイン画をしげしげと眺める。
凛花は素早く手を伸ばすと、蘭丸の目の前からノートを取り上げた。
「何勝手に見てんだよ」
蘭丸は口元をきゅっと引き結び、何も言わない。
もしかして……
「喋って良いぞ」
「いいのけ?」
ぱあっと笑顔が開いた。どうやら律義に凛花が言ったことを守っていたらしい。
「じゃあ俺の質問に……」
「なぁなぁ、これって洋服のデザインけ? もしかして凛花はデザイナー……」
「うるせえっ! 寝ろっ!!」
OKを出した途端に機関銃のように回りだした蘭丸の口に、思わず怒鳴ってしまう。
「え~、これ見てから寝るがよ」
そう言ってノートに蘭丸が手を伸ばす。その手を払い、凛花は蘭丸を睨みつけた。
「人のプライベートを勝手に見るな」
「って事は、やっぱりデザイナーなんだ」
睨みつけられているにもかかわらず、蘭丸はにっこり微笑むと改めてそのノートに手を伸ばす。
「だから見るなって!」
ノートをしっかりと胸に抱き、凛花は蘭丸から逃れるように立ち上がった。そんな凛花に対し、しゅんとした表情を見せるかと思われた蘭丸だが、意外にもすっと目を細めるとゆっくり口を開く。
「デザイナーが、自分の作品を見て欲しくないって違うと思う。見て欲しいから描く。着て欲しいから作る。デザイナーってそうじゃないのけ?」
「つっ……!」
凛花は口を開きかけるも、ぎゅっと唇を引き結んだ。それとともに、ノートを抱く腕にも力がこもる。
何も言い返すことが出来なかった。蘭丸の言った事は正論である。
蘭丸はそれ以上何も言わず、じっと凛花を見ている。
「こ、これは昔のノートだから……恥ずかしいんだよ」
真っ直ぐに向けられる視線に耐えられず、凛花はそう口にすると蘭丸に背を向け、元の場所にノートを仕舞い込んだ。そしてそのまま「もう寝る」とだけ告げると、凛花は寝室へと足を向けた。
寝室のドアが閉まるまで、その背には蘭丸の視線を感じていた。
いじけていても、デザイン画が一枚も描けていなくても朝は来る。
凛花はぼんやりとした頭で上体を起こした。
「……朝か」
誰にともなく呟く。
さて、描き直すといったデザイン画は一枚も描けていない。嘘をついて会社を休もうか……などと考えた時であった。
カチャカチャと食器が触れ合う音。ジューッと何かを焼く音が耳に飛び込んできた。
「?」
たまに泊まった女が朝食を作っている時はある。しかし昨日泊まったのは……
凛花は布団を跳ね除けると、ドアノブに手を掛ける。と、同時にドアが開かれ、勢い余った凛花はドアの向こうに倒れ込んだ。
「うわっと」
余り驚いていない声がしたかと思うと、凛花の体はがっしりとした腕に抱き留められる。
「大丈夫け?」
朝の日差しの様な柔らかい声が降った。凛花が顔を上げると、きょとんとした表情の蘭丸と目が合う。
「あ、ああ」
「ん。なら良かった。おはよう凛花」
凛花の応答に安堵したのか、へらっとした笑顔に変わった。
「朝ごはん作ったけぇ、一緒に食べよ」
そう言って、凛花を抱き留めている手に力を込める。
そこで初めて凛花は、今、自分がどのような状況に置かれているのか理解した。
男に抱き留められて朝食のお誘いを受けているという状況。凛花は思い切り突き放そうとするも、蘭丸はよろけもせずに、かえって凛花の手を握る。
「凛花は朝から元気やねぇ」
「違う! てか離せっ!」
抵抗するも、子供の様に手を引かれてリビングへと連れていかれた凛花は、そのテーブルの上に広げられている品に目を見開いた。
目玉焼きにマッシュポテト。洋風かと思いきや、みそ汁や焼き魚という和風物もある。
「お前、これ……」
「全部作ったんよ。凛花がどっち派か分からんかったけぇ……」
苦笑を浮かべる蘭丸に向けて、凛花はキッと目を細め睨み付けると、テーブルを指差した。
「これ、この食材の出所はどこだ!?」
「出所? もちろんあそこから」
蘭丸が指差す先は冷蔵庫。凛花は冷蔵庫に飛びつくと急いでドアを開けた。
中は見事に空に近い状態になっている。これでは今日の晩御飯にも困ってしまうだろう。
「お前……」
冷蔵庫のドアに手を掛けたまま肩を震わせる凛花をどうとったのか、蘭丸は自身を指差しにっこり微笑んだ。
「蘭丸って呼んで。ね、早く食べんと冷めるがよ」
その呑気な声に、怒りを露わに凛花は振り向くも、料理の芳しい匂いにグゥーッと腹が鳴った。
凛花は最近の若者に多い、朝食を食べない派である。なので、久し振りに食べた朝食はあまり腹に収まる事無く、皿の上に残っていた。
「凛花、食欲無いのけ?」
白米を頬張りながら、心配そうな表情で蘭丸が問い掛けてくる。しかし凛花はそれに答えず、キッと睨み付けた。
「な、何よ?」
「何勝手に俺の箸使ってやがる。てかその前に、昨日、朝になったら出て行けって言ったよな?」
それに対し、蘭丸は行儀悪くも箸を噛みながら眉尻を下げる。
「泊めてもらったお礼よ。それに、俺、行くとこ無いけぇ」
行くところが無い。
凛花の胸中に嫌な予感が湧き上がった。
「俺、仕事に……」
話を逸らす様に、ガタンと音を立ててイスから立ち上がる。
「あ、カギはどこに置いとけばいいけ?」
「え?」
という事は、出て行く気があるという事か?
凛花は幾分気分を和らげると、カギをテーブルの上に放った。
「カギはポストにでも入れといてくれ。勝手に色々触るんじゃねーぞ」
そう告げながら鞄を手に取る。デザイン画が出来ていない事に一瞬手が止まるも、「ふん」と鼻を鳴らして払拭する。
蘭丸はというと、卵焼きを噛みながら「了解」と敬礼をしていた。
「で? 新しいデザイン画は描けていないって?」
テーブルの上で手を組み、上目遣いで凛花を見る社長。その目付きには、どことなく嫌な感じが混ざっている。
「……すみません」
そんな視線から少し顔を逸らし、凛花はペコリと頭を下げた。
「謝る時間があるのなら、一枚でも描けばいいんじゃないかな?」
頭を下げた姿勢のまま、凛花はぐっと唇を噛み、拳を握る。描けなかった自分が悪い。「失礼します」と口にしようとした時、ドアがノックされた。
「失礼しまーす」
軽い声と共に入ってきたのは、つい最近入社してきた若者であった。白に近い金に染めた髪。両耳には重くないのかと思うほどのピアス。
「おお、綾瀬クンか」
ぱっと社長の顔が明るくなるのを見て、凛花は思わず鼻を鳴らしそうになってしまう。
顔に出過ぎなんだよ。……お邪魔虫は退散すっか。
心の中で悪態をつきながらドアに向かう凛花の背に、社長と綾瀬の会話がぶつけられる。
「綾瀬、今度お前がデザインしたパーカーが、某アイドルの衣装として採用されるようだ。奇抜な組み合わせが良いそうだぞ」
「マジっすか!? ありがとうございます。いや~、やっぱ今は一つだけではダメなんすよ」
「わざとかよ」
そう呟いた言葉は二人に届く事は無く、凛花は二人に目を向けずにドアの所で会釈すると、社長室を後にした。
「乙女ちゃん、何浮かない顔してんのよっ」
凛花が自身の机に戻るやいなや、スタイリストをしている雪が笑顔で肩を叩いてきた。
「別に。それより、その呼び方やめろって」
しっしっと追い払うように手を振るも、雪は笑顔のまま顔を近づけると、「彼女?」と囁く。
「は? 彼女なんて……」
「そっか。乙女ちゃんは特定の彼女作らないんだっけ。じゃあ~……」
雪は「う~ん」と人差し指を顎に当て思案し始めた。凛花は溜息を吐くと、先程の社長との会話を雪に話す。
雪は、凛花が心を許している一人であった。所謂「おネェ」で、何でも裏表なくきっぱりと言う所に信頼を置いている。
「あ~綾ちゃんね。最近メキメキ実力出してきてるみたいよ。ポップなのからレトロなデザインまで描けるみたい」
「ふ~ん」
目を細めそう返答する凛花に、雪は「あら?」と小首を傾げた。
「乙女ちゃんともあろうものが若手に嫉妬? まあ、最近の乙女ちゃんはマンネリ化してるものね」
本当に雪は歯に衣着せぬ物言いをする。
「何が足りないと思う?」
凛花の問い掛けに、雪は困ったように眉を寄せ目を逸らすと、「う~ん」と返答に詰まった。しかしそれは「分からない」という事ではなく、「言うべきかどうか」という迷いであった。
「アドバイスしてあげたいけど、それは乙女ちゃんが自分で見つけないと」
「デスヨネー」
棒読みでそう答えると、凛花はファッション誌を何冊か持ち出し広げ始める。頬杖を突きパラパラとページを捲るも、頭の中には何も浮かんでこない。
「ねえ乙女ちゃん。『何でも屋』って知ってる?」
そんな凛花をじっと見ていた雪が、おもむろに口を開いた。突拍子も無い発言に、凛花はジト目で雪を睨み付ける。
「その『何でも屋』に考えてもらえって?」
「違うわよ~。『何でも屋』にモデルをやってもらえばって事」
そして雪はズビシッと凛花を指差した。その表情は何故か誇らしげである。
「私も一回頼んだことあるけど、ほんといい男よ~。不思議な空気感というか……背もそこそこ高いし。とにかく、その子に乙女ちゃんの服を着てもらったら何か浮かぶかもよ?」
そしてバチンとウインク。
「……お前は何を依頼したんだ?」
すると雪は少女マンガの様にポッと頬を赤らめ、両手でそれを隠す仕草をした。そして恥じらいつつ口を開く。
「一夜のお相手っ」
「キャッ」と言いながら、一人ぶんぶんと首を振る。
凛花は溜息を吐くと、雪がその話を赤裸々に語り出す前にファッション誌を突き出した。
「悪いけど、これ、戻しといてくんね? で、ちょっと一人にして欲しい」
きっぱりそう告げると、雪はファッション誌を受け取りながら、「はいはい」と唇を尖らせつつ退散していった。
『何でも屋』ねぇ……胡散臭いったらない。大体そんな奴に着てもらって、いいアイデアが浮かぶわけもないだろう。
そんな事を思いながら、凛花は紙を広げ鉛筆を手に取り、ラフに人体を描きそこに服を着せていく。ほぼ黒一色のコーディネートが出来上がった。それもよく見る形。
凛花は盛大に溜息をつくと、苛立ちをぶつけるように紙を丸め、イスの背もたれに体を預ける。
そんな凛花を、本棚の所から見ていた雪は、やれやれという表情をしながら携帯を取り出し、どこかへ掛け始めた。
終業の時間が来ると、荷物をまとめ凛花はすぐに席を立った。
仕事なので、一応何枚か描いてみたが、もう自分でも納得する事が出来なくなっていた。俗に言うスランプに、凛花は見事に嵌ってしまっている。
「乙女ちゃん」
振り返ると、仕事道具を詰め込んだ大きなバッグを手に、雪が立っている。
「何だよ。もう帰るんだけど」
軽く眉を寄せる凛花に、雪は小走りで近づくとピシッと人差し指を立てた。
「今からある人物が来るから、仲良くやるのよ」
「はぁ? 俺、スーパーに……」
わざとらしく腕時計を見る素振りをするも、そんな事は雪にとっては気にならないらしい。指を立てたままずいっと顔を寄せると、珍しく眉を跳ね上げ厳しい表情をした。
「乙女ちゃん。私は乙女ちゃんはこんな所で消える訳無いと思ってるの。だから子供みたいに意地を張らないで、人に頼りなさい」
「じゃあ答えを教えてくれよ」
むっとした表情で凛花がそう口にした時だった。
「雪ちゃ~ん」
間の抜けた声がした。二人して声の方に顔を向ける。雪はパッと目を見開き輝かせ、反対に凛花思いっきり目を眇めた。
手をぶんぶんと大きく振りながら駆けてくる人物。
「ラ~ンちゃ~ん!」
雪はそう叫ぶと蘭丸に駆け寄り、手を取り合ってキャッキャとはしゃぎ始める。
「お前、雪と知り合いだったのか?」
はしゃぐ二人とは対照的に、凛花は冷たく問うた。
「うんっ。一回だけ寝たがよ」
「は?」
凛花の頭の中も表情も固まる。言われた意味を理解するまで、数秒要した。
「はぁぁぁぁっ!?」
そして理解した途端、思わず大声を出してしまう。
「乙女ちゃんびっくりしすぎ。それにもう会ってたのね。この子が『何でも屋』のランちゃんよ」
手で蘭丸を差し紹介する雪。紹介された蘭丸は、朝別れた時と同じくビシリと敬礼する。
「お前っ、一体何して……って、こんなヤツの助けなんか絶っ対に……」
「必要無い」と続けようとした。が、その前に蘭丸が真剣な表情で口を開いた。
「凛花、仕事で来たからには、ちゃんと役目は果たすが」
そう言われてしまうと無下に断る事も出来ない。
凛花は恨みがましく雪を見詰めた。
「ランちゃん、こう見えても意外にしっかりした体つきしてるのよ。だから乙女ちゃんの服、着こなせると思うわ」
蘭丸の肩に手を置き、雪は凛花に向かってウインク一つ。そして、「乙女ちゃんの新しい一面が見れるの、期待してるわよ」と言い残し、仕事道具を手に去って行った。
残された二人の間に沈黙が流れる。しかしそれも一瞬で、すぐに「凛花」と蘭丸が口を開いた。
「早く行かんと、スーパーのタイムセール終わるが」
「……何で行くって分かんだよ」
蘭丸は得意気にフフンと鼻を鳴らし腕を組むと、どこかの探偵の様に人差し指を眉間に当てた。
「今朝、凛花の冷蔵庫がほぼ空に近い状態になっていました。これでは晩御飯が作れません。その前に、俺は昼ご飯も食べてないがよ」
言い終わると同時に、蘭丸の腹が鳴った。
「それはお前のせいだっ!」
怒鳴る凛花をよそに、蘭丸は腹をさすると息を吐く。そしておもむろに凛花の手を取った。
「いろいろ考える前に行くがよ!」
そう言うと、凛花を引っ張り駆け出す。その手の力強さに、凛花は「おい、ちょっと待て!」と言いながらもなすがままであった。
「たっだいま~」
ポストからカギを取り出し、まるで自分の家であるかのように蘭丸は玄関に足を踏み入れる。その両手には大量に買い込まれた食材。
「お前んちじゃねーし」
その後ろからジト目で姿を現した凛花は、自分の荷物しか手にしていない。「全部俺が持つがよ」と言う蘭丸に、半ば奪われるように取られたのだ。その上、凛花の荷物まで持たれそうになったので、それだけは死守した。
溜息をつきながら凛花が靴を脱ぎ、一歩上がった時である。スマホが着信を告げた。
誰からかと画面を見る。「雪」と表示されていた。舌打ちしそうになるのを押え、通話ボタンを押す。
『もっしも~し。乙女ちゃん、今何してるの?』
「家に着いたところだけど? 何の用だよ」
『ふーん、そうなんだ。あ、ところで乙女ちゃん。サンプル服持ってるでしょ』
サンプル服。それはデザインした服を実際に商品として大量に作る前に、一度作成されるものである。
「あー……確かどっかに仕舞い込んでるけど」
クローゼットの奥の段ボールに詰め込まれているはず……と頭の中で思い出す。
『それ、ちゃんとランちゃんに着せてみなさいよ。ランちゃんはLサイズだからね』
そう言うと、通話は一方的に切られた。凛花は眉を寄せ、普通の待ち受けに戻ったスマホをスリープモードにする。
「凛花~、何してるけ?」
なかなか来ない凛花を心配してか、ひょこっと蘭丸が顔を覗かせた。
「いや、別に」
こいつに俺の服を着せて、何か良い案が浮かぶってのかよ。
内心そう悪態をつきながら、凛花はリビングへと上がって行った。
「さて、晩御飯は何が食べたいが?」
袖を捲り上げ、「ふんす」と鼻息荒く蘭丸が問うてくる。
そんな蘭丸の横を通り過ぎ、凛花はクローゼットの前に立った。
サンプル服なんて、最近は貰ったきりで着た事も無い。服なんて万人の為の物だし……
「凛花?」
蘭丸の声に、凛花は振り返る事なく答える。
「お前の食べたいもんで良い。使う材料は最小限でな」
そう言うと、ガラッとクローゼットを開けた。
美味しそうな臭いが鼻腔をくすぐり始めた頃、凛花は一つの段ボール箱を引っ張り出していた。中には無造作に詰め込まれた服。そこから「L」と表示された服を探し出す。
凛花が「あった」と口にすると同時にキッチンから「出来た!」と蘭丸の声。
そして小走りで駆けてくる音がしたかと思うと、「凛花~」と蘭丸が背中に抱き着いてきた。
「うわっ!? 急に何っ……てか重い。どけ」
しかし蘭丸はどこうともせず、ぬっと肩口から首を伸ばすと、凛花が手にしている服をしげしげと眺める。
「もしかして、これ、凛花が作った服け?」
「正確には『デザインした』服な」
「ふん」と手渡すも、蘭丸は首を傾げるだけ。どうやら意図が伝わらないようだ。
「着てみろ」
しかし蘭丸は首をぶんぶん振ると、「先にご飯よ」と唇を尖らせる。どうやら熱いうちに食べたいようだ。
「あー、はいはい」
融通のきかない子供に接するように、凛花は気付かれないように小さく息を吐くと、膝に手を突きながら腰を上げた。
朝食と同じく、テーブルの上にはいかにも美味しそうな料理が並べられている。蘭丸はすでに席に着き、箸を手にうずうず体を動かしていた。
「うまそ」
思わずそう口にする。それを聞いた蘭丸の顔が、はあっと綻ぶ。
……しまった。
そう思うも、時、すでに遅し。蘭丸は「でしょ? でしょ?」と笑顔で早く座るよう促す。今、蘭丸に犬の尻尾が生えていれば、はち切れんばかりに振られている事だろう。
それを想像し、凛花は「ぷっ」と吹き出してしまった。
途端に、蘭丸が驚いた様に目を見開く。
「何だよ」
そう凛花が問うたところ、蘭丸は柔らかく微笑んだ。今までの様にヘラッとしたものではなく、愛おしい者を見るような、慈しむ様な微笑。
男でもこういう風に笑う奴いるんだ。
その笑顔を見詰めたまま、凛花はそんな事を思ってしまう。
「凛花の笑った顔、初めて見たが」
心底嬉しそう言われ、凛花の頬が熱くなった。
「なっ、う、うるせぇっ!」
蘭丸が次の言葉を発する前に、凛花は乱暴に箸を掴むと「いただきます」も言わずに食べ始める。
そんな凛花の様子に、「あっ、肉ばっかり取ったらダメがよっ!」と、慌てて蘭丸も手を動かした。
久し振りの賑やかな食事。それが一段落ついた所で、凛花は蘭丸に問い掛けた。
「なあ、『何でも屋』って何だ?」
「何でもやるって事よ。頼まれれば庭の草抜きから迷い猫探し、ケンカの相手も一夜のお相手も」
一夜の相手って、男でも女でも関係無くか?」
一瞬蘭丸はきょとんとした表情になるが、すぐにニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。
「凛花、俺に興味あるのけ?」
「は? ふざけんな。俺にそういう趣味は無い」
そう凛花は答えるも、蘭丸は笑みを崩さずに体を乗り出す。
「性別なんか関係ないが。俺を必要としてくれる人がいればそれだけで良いんよ」
「だから凛花も……」と続ける蘭丸の言葉に被せるように、凛花は口を開いた。
「なら、これ食ったらそれ着てみろ」
「これ」でご飯を指差し、「それ」で服を指差す。蘭丸はそれぞれに目を向けると、「了解」と立ち上がった。
「いっぱい食べたけぇ、お腹出てるかも」と口にすると、おもむろにTシャツを脱いだ。
「おい、いきなりこんな所で……」
白い肌。ほど良く筋肉が付けられた腹。凛花は息を飲む。
しかしそれは体の良さだけではなく、様々な箇所に付いている傷のせいでもあった。大きなものから小さな擦り傷まで、実に様々な傷跡が付いていた。
「お前、それ……」
「ん? これ?」
蘭丸は手を挙げて自身の体を見ると、情けない笑顔を凛花に向ける。
「『何でも屋』やってると結構怪我するんよ。危うく刺されそうになったりとか。それに、泊まる所が無いと街をうろつくしかないけぇ、前みたいに酔っ払いに絡まれたり」
「両親は? 実家ぐらいあるだろ」
その質問には答えず、蘭丸は口元に笑みを張り付けたまま、ただ目を伏せた。一瞬の間。しかしすぐにパッと目を上げ、「そんな事より、早速着てみるがよ」と、凛花が渡した服を素早く身に付ける。
上下黒に身を包んだ蘭丸。黒は、色の中で一番体のラインが分かる色であると言われている。確かに今の蘭丸は、よりスタイルの良さが分かるようになっていた。
思わず凛花は羨望の眼差しで見てしまう。
しかし蘭丸の表情はどこか冴えなかった。「う~ん」と唸り、袖や裾を摘まんでいる。
「何だよ」
羨望の眼差しから一転、凛花はジト目で見つめる。
「カッコいいとは思うけど……なんか俺には似合ってないが」
そう言われ、凛花は改めてまじまじと眺めるも、別に変だとは思わない。むしろ似合っている。凛花が思い描く「カッコいい男」だと思う。口には出さないが。
「俺にはスタッズはともかく、髑髏は似合わんよ」
「それはお前の好み……」
はた、と凛花は口を閉ざす。
じゃあ誰の好みだ?
「黒とシルバーだけっていうのも、何か寂しいがよ。もっと色を使ってもいいと思う」
「黒と銀ってカッコいいじゃねーか。クールでスタイリッシュで」
「別に他の色の組み合わせでも表現できるが」
「例えば青とぉ~」と指を折り始める蘭丸に、凛花は内心イラつきを覚える。
「もういいよ。俺の才能はここまでだったって事だ」
半ば吐き捨てるようにそう言うと、くるりと蘭丸に背を向けた。
「凛花は子供みたいやねぇ」
その背に苦笑混じりの柔らかい声が掛けられ、凛花の肩が微かに動く。
「凛花はこの服を誰に着てもらいたい? 友達? 男性? 女性? 初めてデザイン画を描いた時の気持ちはどうだった?」
凛花はそれに答えず、背を向けたまま動かない。それに対し、蘭丸は急かす事無く静かに待っている。
しばらくして、凛花が口を開いた。
「出てけ」
何の感情も籠っていない、淡々とした一言。
「依頼人の雪から金貰って、とっとと出て行ってくれ。俺の前に姿見せんな」
沈黙。
「了解。この服は記念に貰っていくがよ」
そう言う蘭丸の声と共に、立ち上がる気配。気配は少しの躊躇も無く玄関へと向かい、ドアが開かれる音がした。
それでも凛花は振り向かない。
「凛花。凛花だけよ。俺に手を差し伸べてくれたのは。何の得も無いのに」
そしてドアが閉まった。
一気に静けさに包まれる。凛花はゆっくり振り返った。凛花しかいない室内。室温も、心なしか下がった気さえする。
そんな中、凛花は一旦口を開くも、ぎゅっと引き結び、代わりに両手でバリバリと頭を掻きまわした。そして足音荒く室内を歩き、ドスンとソファに腰を下ろす。
「昔の気持ちなんて覚えてるわけねーだろーが。『好き』だけじゃあ、仕事なんてやってられねーんだよっ!!」
他人のいない室内に、凛花の吐き捨てるような声が響く。
最後に盛大な溜息をつくと、凛花は目を閉じ背もたれに体を預けた。
昔は色々なモチーフで描いていた。でも今のモチーフで売れたので、そればかりを続けていれば、人気も平坦にはなるが続くと思っていた。
いつの間にか楽な方に逃げてしまっていた。挑戦しなくなっていた。「誰かの為に」という気持ちなどなく、自分の為に描き続けている。その結果が今だ。
両手で顔を覆う。自ら作り出した暗闇の中、何故か蘭丸の顔が浮かんでくる。
最後の言葉。果たしてそれはどんな表情で言ったのか。
滝 蘭丸。ひょろっとした不思議ちゃん。かと思いきや、意外に鍛えられた体に、的を射る発言。人のパーソナルスペースに入り込んで自己主張する……
凛花は手を下ろす。その下から現れた表情は、鋭く一点を見つめていた。
「何かギラギラしてるわね、乙女ちゃん」
翌日、会社で会った雪が開口一番そう言った。その口元には笑み。
「徹夜で描いてたからな」
ダブルクリップで留められた紙束鞄から取り出しながら、凛花は雪の顔も見ずに答える。
「本当にそれだけぇ?」
意味深な笑みを含んだ声に対し、凛花は席を立ちながら溜息を吐いた。
「お前んとこに来ただろ、蘭丸」
「へ? 来てないわよ?」
「え?」
凛花と雪、二人して「何言ってんだ?」という顔をお互いに向ける。
「ずっとランちゃんと一緒にいたんじゃないの?」
「……いや、結構すぐに追い出した。お前のとこに行けって」
それを聞いた雪は、大きく目を見開いた。
「何それ? 来てないし、連絡も無いわよ」
じゃああいつはどこに行ったんだ? 確か帰る所も行く所も無いと……
「早乙女さーん。何か社長が呼んでるっすよ~」
今の状況を分かっていない綾瀬が、呑気な声を掛けてきた。その声で凛花は我に返る。
あいつの事よりも、自分の仕事が先だ。
「分かった。今行く。じゃ、雪……」
「ちょっと乙女ちゃん!」
腕にすがってくる雪を軽く払い、凛花は紙束を小脇に社長室へと向かった。
ノックをする前に、凛花は一つ息を吸う。そしてぐっと唇を引き結んだ。
拳を握り、ノックを二回。中から「はい、どうぞ」と返答があり、凛花はドアを開ける。
社長と目が合った。途端に、社長の口元に笑みが浮かぶ。しかし何も言わず、「失礼します」と頭を下げて入室する凛花を見ている。
凛花はそんな社長の前に立つと、バサリと紙束を置いた。
「新しいデザインです」
社長の目を真っ直ぐに見詰めたまま、凛花は短くそう言う。社長は、同じように凛花から目を離さずにそれを手に取った。
「一晩で描き上げたって?」
視線を紙束に落とし、一枚一枚捲っていく。
「ふーん。髑髏はやめたのか?」
デザイン画には、デビュー当時から頑なに描いてきた髑髏は消えていた。そこには、代わりに星が描かれている。
「星か。髑髏とは正反対ともいえるこれをどうして?」
「あ~っと……」
凛花はポリポリと頬を掻き、少しだけ目を泳がせた。
「中途半端に自己主張してるなって」
よく意味が分からなかったのか、社長は微かに眉間に皺を寄せる。
「太陽みたいに激しく目立ってるわけじゃなく、かといって月みたいには静かじゃない。小さく煌めく一番星というか……」
「ふっ」と鼻で笑う声。凛花が目を向けると、社長は少しだけ目を細めていた。
「黒地に金の星か。まあ、目を引くし良いと思うね。それに、着る人の幅も広がったんじゃないか? 他は……珍しいな。体のラインが出る服か」
目を通し終えた社長は、ポンと紙束を叩き口角を上げる。
「じゃあ、いくつか作ってみよう」
「よろしくお願いします」
いつもより少しだけ声を張り、凛花は頭を下げた。
それから数日後。凛花の新しい服の出だしは好調であった。
「聞いたわよ~乙女ちゃん。今度レディースの依頼も来たって?」
メーカーからの依頼書を前に、「う~ん」と唸りながら鉛筆でこめかみを掻く凛花。その背に、半ば抱き着くように体をぶつけてくる。
「っと、雪ぃ~。危ねーじゃねーか」
眉を寄せ椅子を軋ませて振り返る凛花に、雪は笑顔を向けた。しかし当の凛花は表情を緩める事無く、ジト目で雪を睨む。
「乙女ちゃん、調子良いのに表情厳しいわよ~?」
覗き込むように顔を寄せられ、凛花は深く眉間に皺を刻んだ。
「……ねえ、もしかして行き詰っちゃってたりして」
「うるせぇ」
シッシッと追い払うように手を振ると、凛花は再び依頼書とにらめっこを始める。そんな凛花の背に、雪の溜息が掛けられた。
「乙女ちゃん、すーぐ態度に出るんだもの。またランちゃん呼んじゃう? ってあれから連絡取れないんだけど」
「え?」
問い返してきた凛花の反応が意外だったのか、雪は少し目を見開くと、頬に手を当て溜息をつく。
「また相手してもらおうとしたんだけど、他の人の依頼受けてるのか、電話もメールも返ってこないのよねぇ」
何故か凛花の頭の中に、蘭丸の傷跡残る肌が思い出された。
確か、「泊まる所が無いと、街をうろつくしかない」とか言ってた……
「雪、蘭丸の……」
そう凛花が口を開いた時だった。
「じゃーん! ここが俺の仕事場だぜっ!」
綾瀬の嬉しそうな声が飛び込んできた。どうやら誰かを連れて来ているようだ。
「今日の綾ちゃん、機嫌良いわね~……っと」
雪の口がポカンと開かれた。何事かと凛花は雪の視線を追い、目を見開いた。
「へぇ~。デザイン会社って言っても、中は普通の会社と一緒なんだぁ~」
お上りさんの様な間延びした声で、キョロキョロと社内を見回す蘭丸がいた。
「あら~っ、ランちゃん!」
「お前っ……!」
雪と凛花、二人同時に口を開く。しかも凛花は椅子から腰を浮かせて。
しかし蘭丸は二人に視線を向けるも、すぐにふいっと逸らし綾瀬に笑顔を見せる。
「蘭丸、お前、あいつらと知り合いなの?」
綾瀬が二人を指差して問うと、蘭丸は改めて顔を向けてきた。しかしそれはどことなく硬い。
「あ~、以前の依頼人よ」
「何だよ、その言い方っ!」
半ば怒鳴るようにそう言うと、凛花はつかつかと蘭丸に歩み寄った。
「お前、何で綾瀬の所なんかに……」
「俺は『何でも屋』やけぇ、依頼人がいればそこに行くが」
冷たい眼差し。凛花は思わず両手を伸ばし、蘭丸の胸倉を掴んでいた。
眉間に皺を寄せ睨み付ける凛花と、目を細めてそんな凛花を見る蘭丸。口を開く事無く、二人は見つめ合ったまま動かない。
と、綾瀬がその空気を破った。
「な~に見つめ合っちゃってんすか。さ、蘭丸。俺がデザインした服着てくれよ」
蘭丸の胸倉を掴む凛花の手を払い除け、綾瀬は「ささ、こっち」と蘭丸を押していく。
「乙女ちゃん……」
だらんと手を下ろし、顔を俯かせ凛花の肩に雪は手を置くと、デスクに戻るよう促した。
そしてまた、手が動かなくなった。鉛筆を握っている手は、先程から少しも動いていない。
耳には、綾瀬の賑やかな声と、他の仕事仲間の歓声や、女子の黄色い声が飛び込んでくる。
凛花は何度目かになる盗み見をした。
綾瀬の服を着て、輪の中心にいる蘭丸。服のテイストに合わせて雰囲気も変えているのか、ころころと表情が変わっていく。
「チッ」
我知らず舌打ちが出た。一体何に対してイラついているのか自分でも分からない。その事が、余計に凛花を苛立たせた。
凛花は、半ば鉛筆を叩き付けるように置くと、デスクから立ち上がり給湯室に向かう。そこには女子の先客がいた。
「綾クンが連れてきた子、カッコい―よねー」
「そう? カッコいいっていうか、可愛くない?」
蘭丸の話題に、思わず凛花は耳を澄ませてしまう。
「で、綾クンに『どこで見つけたの?』って訊いたら、『何でも屋』って」
「『何でも屋』~? 何それ。何でもやってくれるんなら、彼氏になってもらおうかな~」
「……馬鹿らしい」
ぼそりと呟いた後、凛かはハッとして口をつぐんだ。しかし幸いにも、女子二人の耳には届かなかったようで、キャッキャッと騒ぎながら出て行った。
何だよ。どいつもこいつも蘭丸蘭丸って……
コップに水を注ぐと、呷る様に一気に飲み干す。余りにも勢いを付けて飲んだので、唇の端から水が零れた。
と、すっとハンカチが差し出される。
目を上げてハンカチの主を見ると、先程噂されていた蘭丸であった。
しかし凛花は受け取る事無く手の甲で拭うと、視線を外し蘭丸の横を通り抜けようとした。
「凛花、何拗ねてるのけ?」
「はあ?」
凛花はぴたりと足を止め、上目遣いで蘭丸を睨み付ける。
「何で俺が拗ねないといけねーんだ?」
「だって、何か怒ってる」
蘭丸は困ったように眉を下げた。その表情が凛花を苛立たせる。
「だったら何でさっきみたいな態度とったんだよ。あんな他人みたいな……」
蘭丸がそれを聞いてどんな表情をするのか気になるも、じっと見詰められず凛花は顔を逸らす。
「仕事してる時は、その人の為だけやけぇ」
グッと凛花は息を飲んだ。
「ならもう一度俺の……」
「まだ綾瀬さんとの契約が終わってないけぇ、無理よ」
困ったような蘭丸の声に、凛花は顔を向ける。
その凛花の表情を見た蘭丸の目が見開かれ、次いで言葉を紡ぎ出そうと口が開かれたが、それを聞く事無く凛花は給湯室を出て行った。
ガンガンと重低音が鼓膜を叩く。目がチカチカするようなカラフルなライトが、フロアで体を揺らす若者たちを照らしていた。
「リッちゃ~ん。久し振りに会ってんだから、もっと構ってぇ~」
グラス片手に、ぼんやりとフロアを眺めている凛花の腕に女が絡みつく。
しかし凛花は「ん~」と生返事をするだけで、女の方を見向きもしない。
「リッちゃん! あの時から全く連絡無くて、久し振りにあったと思ったらこれなんだもん!」
女は唇を尖らせると、凛花の腕を思い切り抓った。
「いてっ! ……あー、悪かった。じゃ、行くか」
近くのテーブルにグラスを置くと、凛花はスタスタと歩き出す。
「え? ちょっと待ってよ、リッちゃ~ん」
その後を慌てて女が追った。しかし凛花は振り返る事もせず地上への階段を上る。その表情は無表情ではあるが、どことなく怒りの様な、苛立ちの様な色が漂っていた。
地上に出て、凛花が一つ息を吸った時である。
「こういう場所で、色んな人を観察してイマジネーションを高めるってわけ」
凛花の耳に、聴き慣れた声が飛び込んできた。綾瀬である。隣に蘭丸を連れている。それを視認した時、凛花は思わず一歩後退してしまう。そこに女の体がぶつかった。
「いたっ……リッちゃんどうしたの?」
女の声に、蘭丸が目を向けてきた。凛花は瞬きもせずに見つめていたので、蘭丸とばっちり目が合う。
途端に、凛花は身を翻すと、女の腕を掴み走り出した。
ただ真っ直ぐ前を見て走る。
……俺、どうして走ってるんだ? まるで逃げるみたいに。あいつから。
どんっ
路地から出てきた二人組にぶつかってしまう。
「いってぇ~……何いきなりぶつかってきてんだ?」
「……すいません」
面倒臭い事になりそうだ。凛花はそれを回避すべく頭を下げるも、相手は口元を笑みの形に歪めた。
「女の手を引いて逃避行かぁ?」
「……チッ」
思わず舌打ちしてしまう。ヤバイと思ったが遅かった。二人組の眉が跳ね上がる。
凛花は掴んでいた女の腕を離すと、そちらを見る事無く手で「あっちへ行け」と示した。「もうヤダっ」という女の声がしたかと思うと、走り去るヒールの音。それを耳にした凛花は一つ息を吐き、改めて二人組を睨み付け……と、眉間に深い縦皺が刻まれる。
二人組は綾瀬がデザインした服を着ていた。それを見た瞬間、凛花の頭に血が上る。
何も浮かばない自分への苛立ちをぶつけるように、凛花はがむしゃらに拳を繰り出した。ケンカ慣れしていないので、大半は避けられ、代わりに相手の拳が体に入る。
「くそっ……!」
しかし凛花は体をくの字に曲げながらも、上目遣いで相手を睨む。殴られて切れたのか、強く噛み締めて切れたのか、唇の端を血が伝う。
「こいつ、チビのくせになかなか倒れねーじゃん」
笑みを含んでそう言ったのは男二人のどちらかだった。しかし痛みで朦朧としている凛花には、何故か綾瀬に見えた。自分を馬鹿にする綾瀬に。
「……っの野郎っ……!!」
吠える様に言葉を吐き出し、凛花は男に飛び掛かっていった。
暗転。
「つっ……」
痛みで目が覚めた。ぼんやりとした視点が定まると、そこが自分の寝室だと気付く。
「あ、目、覚めたが?」
目だけを声の方に向けると、そこには蘭丸がいた。にっこり笑っているが、その顔は血や泥の様なもので汚れている。
「……何だよ、その顔」
「それ、凛花が言えるセリフやないよ」
「分かってるよ」
体中の痛みに加え、口の中は血の味、片眼も何だか腫れぼったい。
蘭丸は苦笑しながら、そっと片手を頬に当ててきた。
「綺麗な顔が台無しよ。どうしてケンカなんて……」
「……別に。ケンカに意味なんてあんの?」
「質問変える。何で俺から逃げた?」
そう問いかける蘭丸の顔からは笑みが消え、真剣な眼差しが凛花を射る。
「逃げてねーし……」
「返答の仕方、間違ってる」
蘭丸はギシリとベッドを軋ませ、覆い被さるように凛花の顔を覗き込んだ。
「本当に気付かなかったのなら、『知らない』って言うべきよ」
光の関係で、今、蘭丸がどんな表情をしているのかよく分からない。
「お前が、綾瀬といたから……」
ズキズキと痛み出したのは、体なのか心なのか。凛花はぎゅっと布団の上から胸元を握る。
「それは嫉妬? 独占欲?」
すっと蘭丸の顔が近付いた。
「分かんね。ただお前が……お前の事ばっかり気になんだよ」
片腕で自分の顔を隠そうとするも、その腕を蘭丸が掴む。
「凛花の新しい服、見たがよ。何で星け?」
「……お前みたいだと思ったから」
「どこがよ」
笑みを含んだ声が降って来たかと思うと、蘭丸の影が動き、電灯の光によって顔が照らされた。蘭丸は愛おしむ様に目を細め、微笑んでいる。
そしてゆっくりと顔が近付き、唇が重ねられた。ピリッとした痛み。微かな血の味。
はっと凛花は目を見開くと、慌てて自由な方の腕で蘭丸の胸を押し返す。
「ちょっ、お前、何してんだ!?」
「へ? 何ってキスよ」
何を言っているのか分からないというように、蘭丸は不思議そうに首を傾げた。
「いや、それは分かってる。何でキス……」
ギシリ、と蘭丸が凛花の上に乗っかってきた。
「だって今の凛花、わっぜ可愛いけぇ」
凛花の頬に手が添えられる。壊れ物をに触れるようにそっと。
「それに、俺は凛花が好きで、凛花も俺を好きやし」
「はあっ!? いつ俺が……」
凛花は反論するも、蘭丸は無邪気に微笑み再びの口付け。今度の口付けは深く行われた。
「んっ……」
ぎゅっと目を閉じ、凛花は蘭丸の体を押し返そうとするも、びくともしない上、更に体重をかけてくる。
「ら、蘭……」
息継ぎの為に離された唇の間に、透明な糸が伝う。それを無造作に手で拭うと、蘭丸は少しだけ眉を寄せ、「進めてもいいけ?」と問うてきた。
欲情している目。いつもの柔和な感じは消え、ぎらついた雄の瞳。
そんな蘭丸から目が離せないでいると、ばさりと布団が剥がされた。途端に、凛花を羞恥心が襲う。
「ちょっ、ちょっと待て! ストーップ!!」
凛花の首筋に顔を埋めてくる蘭丸の耳元で、慌ててそう叫んだ。
「んもう。何よ?」
顔を上げた蘭丸は、お預けを食らった子供の様に唇を尖らせている。そんな蘭丸を上目遣いで見詰め、凛花はおずおずと口を開いた。
「で、電気、消して……」
我ながら、女みたいな事を言っているなと思う。しかし自分がこういう立場になってみると、恥ずかしく感じてしまうのだ。
「ふっ」と蘭丸は笑うと、ライトの紐へと手を伸ばす。
「こんな可愛い凛花、見れんのは勿体無いが」
そう言いながらも、カチリと紐が引かれた。
一気に視界が真っ暗になる。蘭丸の重みだけが、今の凛花に感じられる全てだった。その重みが、再び凛花の全身に掛かってくると、シャツの中に手が差し込まれる。
ひやりとした感触に、ビクリと反応してしまう。
差し込まれた手は、さわさわと上へ移動し、胸へと辿り着く。
「凛花、わっぜドキドキしてるが」
「うるせ……っ」
反論しようと口を開いたタイミングで胸に触られ、思わず高い声が出てしまう。
「可愛い声、出せるやん」
蘭丸は笑みを含んだ悪戯っぽい声でそう言うと、ずいっと顔を近付けた。
「ね、明かり点けていいけ? 可愛い顔見たいが」
そう囁かれるも、凛花は顔を腕で隠し、「絶対に嫌だ!」ときつく言う。それを聞いた蘭丸は小さく溜息を吐くと、ぐいっと凛花のシャツを捲り上げた。
凛花の肌が空気に晒される。胸に吐息がかかったと思いきや、チュッと音を立てて胸の突起に吸い付いてきた。
「あっ……」
手で口を塞ぎ、必死に声を殺すも、蘭丸は執拗に舌と歯で愛撫してくる。
と、蘭丸の手が凛花のベルトへと掛かった。反射的に凛花は膝を曲げ阻止しようとするが、そこで初めて自身が興奮している事に気付いた。
一瞬の躊躇い。それを逃さず、蘭丸は凛花の膝を割るとするりとその間に体を滑り込ませ、大きく足を開かせる。
「凛花。もっと気持ち良くさせてやるけぇ、安心するが」
カチャカチャと音がしたかと思うと、下着ごとずるりと半分下ろされた。
昂った自身を見られている恥ずかしさに、凛花はぎゅっと目を閉じる。そこに、少し困ったような声が降ってきた。
「凛花は口でするのと手、どっちがいいけ?」
「っ~……変な質問すんなっ」
凛花の返事を待っているのか、ただ視線だけが自身に向けられている。
「じ、自分で決めたらいいじゃねーか!」
余りの恥ずかしさに、凛花は主導権を蘭丸に委ねてしまう。と、蘭丸が「いいのけ?」と口を開いた。その声はどこか弾んでいる。
しまったと思うが遅かった。蘭丸は「じゃあ~……」と言うと、片手で凛花自身を握り、もう片方の手で顔を隠す腕を掴んだ。
「顔見たいから手にするが」
強い力で腕を外され、暗闇に慣れてきた目が蘭丸と合う。蘭丸は微笑んだかと思うと、ゆっくりと扱き始めた。
「んうっ……!」
ビクンと体が跳ねる。凛花はぎゅっと目を閉じ、唇を噛んで快感に耐える。
「凛花、唇切れるから噛んだらいかんよ」
蘭丸は優しく唇を重ね、噛まないように凛花の口内に舌を差し入れた。
湿った音が凛花の耳に届く。その音がどちらから発されているのか、それを理解する余裕はもはや無かった。
子犬の様な甘い鳴き声が、吐息と共に零れる。
「ら、蘭丸……」
懇願するような目で、凛花は蘭丸を見つめる。蘭丸の姿は涙で滲んでいる。
「ん、ええよ。イッて」
その言葉と一際優しい愛撫に、凛花は達した。
全身から力が一気に抜け、荒い息とともに涙が一粒頬を伝う。凛花は、とろんとした目で蘭丸を見上げた。
カーテンの隙間から微かに月光が差し、蘭丸を照らしている。黒髪に入れられた金のメッシュが月光を受けて、(ああ、星みたいだ……)と、ぼんやり思った時だった。
「ごめん凛花。凛花、怪我してるけぇ、これ以上痛い思いさせたくなかったけど……」
半分まで下ろされていた下着とズボンが、ずるりと全部脱がされる。
「……へ?」
「力抜けてる今なら、そんなに痛くないと思う……」
蘭丸が自分のベルトを外す音。そして熱い塊が押し付けられた。
「凛花の中で気持ち良くさせて?」
熱い塊が、ぐいっと凛花に差し込まれる。
「痛ってぇ~!!」
今までの、甘く濃厚なムードは凛花の絶叫によってかき消された。
「おはよう、凛花」
朝日と同じ様に柔らかく微笑む蘭丸。それに対し、凛花はどんよりとした表情で「はよ……」とだけ答える。
体中が痛かった。特に下半身。痛みによく眠れなかったし、歩く事もままならない。
「凛花、今日は仕事……」
「あるよ! 平日だからなっ!」
そう怒鳴る凛花に、蘭丸は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん凛花。あんまり凛花の中が気持ち良いけぇ……」
「あーっ! もういいっ! その話はやめだ、やめっ!!」
耳まで赤く染め、凛花は蘭丸から顔を逸らす。そんな凛花の背に抱き着いた蘭丸は、耳元で囁いた。
「綾瀬さんとの仕事は終わりよ。やから凛花、この前の続き言って?」
そして、悪戯っぽい笑みで凛花の顔を覗き込む。
「お、俺の専属モデルになれっ!」
「次のアイデアが浮かぶまでけ?」
「……お前、分かってて言ってるだろ?」
ジト目で睨む凛花に対し、蘭丸はへらっと笑った。
早乙女凛花の新しいシリーズは、男女問わず人気となる。
黒い生地に浮かぶのは、銀や金の星、星座。
新シリーズ名『スピカ~一番星~』。
スピカ ~一番星~ かるら @chiaki0811
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