夢か現か胡蝶の羽音か
十三番目
夢の境界線
不思議な夢を見ていた気がする。
外はまだ真っ暗で、夜が明ける気配もない。
夏の夜明けは早いから、きっと時間もまだ深夜なのだろう。
ふと、目の前をなにかキラキラしたものが横切っていく。
それは窓のふちに降り立つと、羽を休めるように動きを止めた。
「蝶……?」
目を凝らしてみると、綺麗な柄の蝶が一羽、そこに止まっている。
「何でこんなところに……」
ここはアパートの四階だ。
いくら何でも飛びすぎではないのか。
興味が湧いて見続けていると、蝶はひらりと身を翻し、窓のふちから浮かび上がった。
そして何度か窓の前で揺れ動くと、下に向かって降りていく。
何となく、「ついてきて」と言われているような気がして、思わず玄関まで走ると、サンダルをひっかけそのまま外へと飛び出した。
アパートを出ると外は真っ暗で、僅かに光る電灯が道の真ん中を照らしている。
奥の暗闇から電灯ではない灯りがチラチラと揺れ動き、こちらに向かって近づいて来るのが見えた。
だんだんと近づいてくる光源は、さっきまで窓を通して見ていた──あの蝶だ。
蝶はそのまま目の前まで来ると、俺の肩へふわりと体を降ろした。
「おまえ、何であんな高いところに居たんだ? あ、もしかして俺に会いにきたとか?」
蝶は微動だにせず、ただそこにいる。
なに言ってんだか。
蝶がそんなことを考えるわけもない。
自分のバカさ加減にため息が出てくる。
そんな俺をよそに、蝶は体を震わせ、再び空へと浮かび上がっていく。
そして、まるで道案内でもするかのように、目の前をゆっくりと進み出した。
「やっぱりおまえ……俺を何処かへ連れてこうとしてるのか……?」
無音で飛び続ける蝶は、「早くおいで」とでも言うかのように、その体をゆらゆらと揺らしている。
そんな蝶の後ろを追うように、俺は先へと歩を進めて行った。
◆ ◇ ◇ ◇
そこは誰かの家だった。
深夜だということもあり、家の中はどこもかしこも暗いままだ。
しかし、住人の誰かはまだ起きているのか、中で人の動く気配がしている。
不意に家のドアが開いて、中から一人の少女が出てきた。
金糸のような長い髪と、パッチリとした青い目。
まるで西洋人形を思わせるかのような容姿をした少女は、ヒラヒラとした白いワンピースを身につけている。
ワンピースに描かれた赤い花々が、とても綺麗に映えていた。
少女は立ちすくむ俺には目もくれず、そのまま夜道をどこかに向かって歩いて行く。
近くを飛んでいた蝶もまた、後を追うように少女と同じ方向へ飛んでいく。
俺は蝶と少女に誘われるように、暗い夜道を進んでいった。
◆ ◆ ◇ ◇
しばらく行くと、少女はとある一軒家の前で立ち止まった。
蝶はその近くをひらりひらりと優雅に飛んでいる。
俺は唐突に閃いた。
もしかしてこの蝶は、俺と少女を引き合わせようとしていたのではないかと。
「あのー……」
いつもの俺にはとてもできない行動だ。
しかし今、俺は少女に近寄り、自ら声をかけている。
「こんな夜中に出会うなんて、きっ、奇遇ですね!」
終わった。
俺の塵みたいなコミュ力では、これが限界だったようだ。
ダメダメな自分に、心の中で涙を流す。
と言うか、夜中に奇遇も何もないだろうに。
……夜中?
そうだ。今は夜中だ。
それも、深夜と言えるほどの。
何故こんな場所に、少女が一人で立っているのだろうか。
よく考えればおかしい事だらけだ。
夜遅くの道を、少女が一人で歩いているこの状況。
そもそも格好だっておかしい。
ワンピースを身に纏った少女の足は……裸足のままだ。
どう考えてもこれは……。
目の前で蝶が舞う。
いや、待てよ……。
そもそも俺だって、何かがおかしい。
夜中に四階まで飛んできた蝶を追いかけて、いきなりこんな所まで来てしまうくらいだ。
いつもの俺からは、余りに現実離れした行動。
……現実?
───そうか、これは夢か!
一度理解すれば、全ての辻褄が合っていく。
そうか。そうだった。
これは夢だった!
目の前で佇んでいる少女も、夢の中なら何らおかしなことではない。
少女はまだ、家を眺めたままだ。
話しかけた俺のことは、まるで見えていないかのようだった。
もしかして、本当に見えていないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎっていく。
思えば、少女が家から出てくる時、目の前に知らない男が立っているにも関わらず、少女は俺に見向きもしなかった。
つまり、そういう事なのだろう。
夢なのだから、会話が出来ないこともあれば、見えていないことだってそりゃあるはず。
何もおかしくはない。
おかしい事なんて何も、ない。
目の前では蝶が綺麗な羽を揺らしている。
こうしてみると、幻想的な蝶だ。
夢で見る蝶がこんなに綺麗だなんて思いもしなかった。
唐突に、少女が目の前の家へと近づくと、ドアノブに手をかけた。
「あ」
思わず声が漏れるが、聞こえていないのか、少女は意にも介さず家の中へと入っていく。
後を追うように入り込むと、中は真っ暗で、物音などはいっさい聞こえてこない。
少女は二階に上がっていくと、奥にあるドアを開いた。
鈍い音を立てて、ドアは内側へと開かれていく。
不法侵入……なんて心配もない。
これは夢だ。
むしろ楽しまなきゃ損かもしれない。
部屋の中には何があるのか。
俺は逸る鼓動を押さえつけながら、少女に続いて中へ入ろうとした。
ふと、横を飛んでいる蝶へと目を向ける。
音が、聞こえるのだ。
羽ばたきの。
羽音が、聞こえる。
蝶は先ほど上ってきた階段の方へ、まるで誘導するように戻っていく。
そうだ。戻らなければ。
そう思うのに、なかなか足は動いてくれない。
少女が入った部屋から、何かが落ちる音がした。
重さのあるものが落ちて、ごろごろと床を転がっていくような、そんな音だ。
帰らなければ。
そう思うのに、中がどうなっているのか気になって仕方がない。
羽音が強くなる。
時間がない。
早く帰らなければ。
でも、中は──。
俺の足は止まらなかった。
羽音が、遠ざかっていく。
俺はドアの隙間から、ゆっくりと顔を覗かせた。
その先にあったのは……。
◆ ◆ ◆ ◇
そこは寝室だった。
真ん中にはベッドが置いてあり、上に誰かが寝そべっている。
体つきからして男性のようだ。
夜も遅いし、部屋で寝ていたのだろう。
なんて事のない、よくある光景。
そんな普通の光景になる……はずだった。
ベッドで眠る男の体に、頭がついてさえいれば──。
「う、うわああぁっ」
衝撃で足がもつれて、その場に尻餅をついてしまう。
半開きだったドアが全開になり、隠れていた光景が目に飛び込んできた。
横に佇む少女は、赤い花の模様が綺麗なワンピースを着ている。
──違う。赤い花なんかじゃない。
白いワンピースに描かれた赤い花は、飛び散った人間の……血液だ。
「ぁ、あぁ……うぐぉえ」
吐き気が込み上げる。
手で口元を押さえ、必死で吐き気を抑え込んだ。
どうして、どうしてこんな……。
何とかして後ろへ下がろうと、床にそって少し顔を上げる。
男の顔が、あった。
首から上を何か鋭利なものでスッパリと切り取られたかのような、つるりとした断面。
表情はまるで、何が起こっているのか分からない。
そう言っているかのように唖然としていた。
そして今もなお、首からはぽたりぽたりと液体が滴り落ちていく。
赤い、紅い……あかい……血が。
「帰らないと……。家に、帰らないと……っ」
ドアノブを掴み、何とか立ち上がって顔を上げた。
「どこへ行くの?」
目の前に、少女が立っている。
白かったワンピースは、今や赤いワンピースだ。
赤い花は白い花となって、至るところに散っている。
「あ……おれ、ちがくて……」
慌てて弁明しようとするも、何一つ言葉が浮かんでこない。
終わりだ。何故今になって……。
今になって?
そうだ。彼女には俺が見えていなかったはず。
それなのに、どうして今更……。
「あなた、踏み込んでしまったのね。可哀想に。でも仕方ないわ。決まりは、決まりだもの」
少女が何かを持ち上げる。
きらりと光ったそれは、銀色の斧だった。
切れ味の良さそうな刃と、赤が付着した取っ手。
少女が持つには、随分と大ぶりな斧だ。
しかし少女は、それを軽々と持ち上げている。
──ああ、死ぬのか。
そう確信してしまうほど、目に映る光景は死に近かった。
夢だったら良かったのに。
そう、夢だったら……。
そんな俺の願いも虚しく、少女は俺に向かって勢いよく斧を──振り下ろした。
羽音はもう、聞こえない。
? ? ? ?
「うわあぁっ!」
ベッドから飛び起きる感覚。
「……あれ、なんで……?」
混乱した頭のまま、窓の外を見る。
空にはもう太陽が昇りきっており、直射日光が目に入り込んできた。
「うぉ、まぶしっ!」
思わず叫んだことで、少しは目が覚めたようだ。
随分と長く寝ていた事には驚きを隠せないが、幸いなことに今日の大学は休講でなかったはず。
「ぜんぶ……ゆめ?」
思わず呟いていた。
「あれは全部、夢だったんだ……!」
言葉を口にするたび、生きている実感がふつふつと湧いてくる。
「そうだよな! そんなわけないんだよな! ほんと良かったよ。全部夢でさ。ほんとに……、ほんとによかっ……」
思わずこぼれた涙を、手の甲で拭った。
安堵から、ただ天井を眺め続ける。
「よし! そろそろ起きるか」
気合いを入れるように声を上げ、起き上がろうと身体に力を込めた、その時──。
「あら、そのままでいいのよ」
上から覗き込まれたことで、身体に影ができた。
こちらを見て嬉しそうに微笑む少女は、見覚えのある斧を大きく振り上げていく。
「あれは夢じゃ……、夢のはずじゃ……!」
「これからは夢が、あなたの現実よ」
斧が振り下ろされる。
自分の首が転がり落ちていくのを、俺は呆然と視つめていた───。
◆ ◆ ◆ ◆
地に落ちた蝶を拾い上げ、男は一つため息をつく。
「好奇心には勝てなかったみたいだね」
ボロボロの羽を撫でていた男は、大して残念そうでもない声で呟いた。
「この蝶はもう飛べない。それ故に、もう二度と羽ばたく事もない。それじゃあね、名も知らぬ人間さん。永遠に終わらない胡蝶の夢を……どうか楽しんで」
誰もいなくなった場所には、ただ静寂が響いている。
彼は今も、覚めない
蝶はもう、羽ばたかない。
夢か現か胡蝶の羽音か 十三番目 @13ban_me
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