第45話 常春(最終話)
春は、今年も生まれた。秋と冬は過ぎ去り、三回目の春が来た。
身が焦がれるほど望んだ理想は、満を持して現実となった。小さな花は、蝶のためにその花弁を落としたが。
ウィリエスの付き添いとして、ハルヴェルは王城の廊下を進む。追い抜かさない程度に早めた足で、いくらか背が伸びた少年と共に青年は春を目指す。
護衛が開いた扉の奥に、待ち望んでいた姿があった。
ベッドから降りる、少女。美しい金髪と知性溢れる翠眼を備え、愛し子の無事に唇を震わせる。
「ウィリエス!」
「お姉様!お姉様、お姉様……!」
力強く、姉弟は再会の抱擁をした。姉は弟をかき抱き、黒髪をすくように頭を撫でた。大声を上げて泣く弟をなだめることもせず、その無事をただただ喜んだ。今までごめんなさい、もう大丈夫よ、と繰り返しながら、弟の成長をただただ噛み締めた。その光景は、至高の宗教画よりもずっと価値がある。
――答え合わせをしよう、とラインヴィルトは言った。今は侍医がいるから待て、と尤もらしいことをウィリエスに命じ、わざわざ別室にハルヴェルを呼びつけた。
お前たちも早く会いたいだろう、手短に済ませよう、とうそぶいた顔は、現状に満足しているかのごとく晴れ晴れしいものだった。
数年前、具体的にはリズリエラがリディエラを産んだ約十六年前から始まったこの状況には、三つの要因がある。一つ、第二妃が企てたリズリエラの衰弱死。二つ、ダグラクスが望んだ戦争、及びその準備に伴う人質の確保。三つ、ラインヴィルトがあつらえた第一王子派と王女派の対立構造。
リディエラとウィリエスは駒として扱われ、被害者となり、場をひっくり返す反逆者に化けた。ハルヴェルの推察は、当たらずといえども遠からず、といったところだろうか。
発端は、リズリエラの子が王位に就くことを恐れた第二妃の愚行だ。リズリエラを正妃に迎えてからもダグラクスは第二妃を寵愛したが、懐妊を機にリズリエラのもとへ通うようになった。
もしリズリエラが男児を産めば、たかが第一子であるだけのラインヴィルトでは王位争いに負ける。そこで第二妃は良薬に見せかけた毒薬を用意し、リズリエラに飲ませ続けた。
殺すつもりはなかった、精々子供が産めない体にするだけの予定だった。しかしリズリエラの衰弱は想定以上に悪化し、リディエラが六歳のときに死を迎えてしまった。
リディエラとウィリエスが出会ったのは、それから一年も経たないうちのことだ。リディエラはウィリエス及びその母と仲を深め、二人が幽閉されている塔に足繁く通った。――ところが、程無くしてダグラクスの利己心が三人を襲う。
まず、ダグラクスは第二妃を脅した。リズリエラの殺害を秘匿する代わりに、ウィリエスの母へ毒薬を届けさせた。すると、ウィリエスの母はリディエラとの出会いから四年後に死んだ。
そして、ダグラクスはリディエラをも脅迫した。ウィリエスを同じように死なせたくなければ、王に代わって戦争の下準備を進めろ、と。結果、リディエラはお披露目とほぼ同時期に過激派を煽動し、あたかも王女の我儘として武器を収集するようになった。
――陛下は私が気づかないとでも思っていたのだろうか、とラインヴィルトは言う。
ラインヴィルトは、一連の流れに感づいていた。どうして分かったのかはハルヴェルに明かさなかったが、良心の呵責に耐えられず第二妃が教えたのかもしれないし、リディエラが助けを求めたのかもしれないし、単純に本人の能力が高いゆえかもしれない。
とにかく、ラインヴィルトは両親の暴挙を知り、自身が王位を確実に手に入れるために利用した。第一王子派と王女派の対立を明確にし、自身がそれ相応の年齢に至るまで継承争いを長引かせようとした。戦争が目前に近づくまで過激派を誘導し、西の帝国に売ることで反乱分子を一掃しようとした。尤も、ウィリエスの突飛な行動により終幕は早まったそうだが。
現在ラインヴィルトは十七歳だ、三年後だとしても、国王の座に就くにはまだ若い。されどリディエラの自己犠牲的な行動があり、それを契機として第二妃が全ての罪を自白した今、ダグラクスが無理を押して戦争や王位にこだわることはないとの見立てだ。
保守派も力が削がれたからね、とラインヴィルトがわざわざ口にしたのは、ハルヴェルの抵抗さえラインヴィルトにとっては利になったと示唆するためだろう。
「――ハルヴェル」
待ち焦がれた呼び声に、ハルヴェルは涙腺が緩むのを感じた。返事をしなくてはならないのに、声が出ない。
「本当にありがとう。あなたには何も話さないままだったのに、ウィリエスを助けてくれて……。第一王子殿下から、お聞きしたかしら……?」
「……ええ。……お怪我は、もうよろしいので?」
ウィリエスがサンドルト辺境伯家へ逃げてから、さして時間が経っていない頃――リディエラは、武器庫で己を刺した。曰く、王位継承争いを速やかに収束させ、第一王子派に政権を握らせることで戦争を止めたかった、と。また、運悪く死んだとしてもウィリエスが自由になるから、と。
どうしようもなく、浅薄な考えだ。王女が負傷したところで、過激派をいさめられるわけはない。恨みが残る終わり方は、新たな火種となって燻るだろう。
幸運にも、手遅れになる前にカーニャとガルベンが見つけたから一命を取り留めたが。それにもし第二妃が依然口を閉ざしたままであれば、ウィリエスの証言をもってしてもダグラクスを追い込むことは叶わなかっただろう。
リディエラは徐に立ち上がると、ハルヴェルの目の前まで歩み寄った。静かな、けれど陰りが無くなった双眸は、涙に濡れたままハルヴェルを見上げる。
いつかに嗅いだ、淡い花の香り。触れたいと願った小さな手が、ハルヴェルのそれを優しく掴む。ふわりと和らいだ表情は、嘘偽り無い安寧を告げる。そこにあって当たり前の、けれど得がたい奇跡。
「……リディエラ殿下」
「何?」
「……心の底から、貴方様の幸福を願っております」
紡がれた文字に、リディエラは目を見開いた。改めて飲み込んだかのように、間を置いてから嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。――あなたがくれたわ」
そう聞いてしまえば、ハルヴェルにはどうしようもなかった。これまで抑えていた感情が決壊し、洪水のごとき荒々しさと共に溢れてしまう。それは涙となり、宝石のように頬を伝い落ちていく。
己が人生を懸けた存在は、ようやっと幸せを手に入れた。冬の抑圧から解放され、色鮮やかな陽気をあまねく行き渡らせられるようになった。
枝を運ぶ鳥の歌声と、太陽を仰ぐ草花の匂い。見上げれば透き通った青が広がり、踏み出せば柔らかな土が背中を押す。一年目の日々によく似た、それでいてずっと明るい景色。障害は何も無い。あるのは地平線まで覆う花畑と、花びらの手を引き舞い踊る恵風。
ハルヴェルだけでは、決してたどり着けなかった。ここに至るまで、様々な人の手を借りた。最後の最後に、ハルヴェルは何もしなかった。
だとしても、今はただ、この幸福が夢ではないと感じていたい。触れている体温は冷えていないのだと、目にしている泣き顔は嬉しいものだと、身勝手にもこの胸の奥深くで理解したい。
会いたい、会いたいと強く強く願っていた。同じ場所にいるのに会えない焦りと、闇雲に手を伸ばす不安がいつも胸を占めていた。
やっと、やっとだ。ついに、春が笑った。
季節は巡る。時に緩やかに、時に乱暴に移り変わる。春が息絶えなくては夏は来ず、冬が追い出されなくては春は生まれない。全てが予定調和のうちであり、覆せないこの世の根幹。
しかし、同時に言えることもある。季節は巡る。季節は変化を止めない。生きとし生けるものは絶えず死ぬが、それと同じだけ新たに生まれる。もし、繰り返すことがこの世の摂理だと言うのなら。もし、再び生まれることが約束されているのなら。どうか、何者にも侵されない春を、ささやかな平穏を彼らに。
常春の王女 完
常春の王女 青伊藍 @Aoi_Ai
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