第44話 守るべき者

「姉君は、ウィリエス殿下のご無事を何より願っていらっしゃいます。それを、悲劇的に捉えてはなりません」

「……で、でも、僕は、結局……ハルヴェルを、取りました……」


 震える声に、ハルヴェルは眉根を寄せる。と言うのも、ウィリエスが何を言わんとしているのか察せられないからだ。発端の問いにおいて、ハルヴェルが中心に置かれているとは全く予期していなかった。仕方無く、黙って先を待つ。


「お姉様を助けたくて、ハルヴェルに声を掛けました。でも、お姉様は会いにいらっしゃらなくなって……」

「……」

「僕がハルヴェルと仲良くならなければ、お姉様とハルヴェルは一緒にいられたんですよね?僕、僕が友人になればお姉様も堂々と会えると思って、でも……」

「――ウィリエス殿下」


 ようやく、合点がいった。ハルヴェルの思考の中、あやふやだったうちの一つがようやっと輪郭を持った。

 ウィリエスがハルヴェルを求めたのは、ひとえに姉のためだったのだ。そしてリディエラは、ハルヴェルとの時間をウィリエスに語っていた。ウィリエスに逃亡を受け入れさせるための下準備でもあったかもしれないが、ハルヴェルという存在を肯定的に教えていた。


 あわよくば、とハルヴェルも期待はしていた。どうかリディエラにとって良きものであればと、そう願って同じ時を過ごした。かき乱す勇気も無い身でありながら、ささやかな幸を与えられればとうぬぼれたことを思った。

 それが事実だと分かった今、声が、指先が、心が震えてしまうほど満たされる。確かに同じ感情を感じていたのだと、感覚的な感動に飲み込まれてしまう。


 それでも、否、だからこそ、その否定はいらない。


「殿下が私を呼んでくださったあの瞬間、私は貴方様のお側にいることを決意いたしました。姉君も、同じことを決断なさいました。私も姉君も、貴方様を必ずお守りすると誓っています」


 現状に満足しているかと問われれば、頷けない。我ながら呆れてしまうほど、ハルヴェルは現実に不服を抱いている。王都に戻りたい。リディエラとウィリエスを会わせたい。二人で幸せに暮らしてほしい。そして、自身もリディエラの側にいたい。触れられずとも構わないから、あのあどけない微笑を見詰めていたい。リディエラを守ることができるのは自分ではない、そう分かっているのに。


 ハルヴェルはウィリエスの両手を取った。己のそれで柔く包み込み、自責の念を振り払うよう訴える。


「姉君の願いは、ウィリエス殿下が生き残ることにございます。成長なさいませ。そうしたら、姉君をお迎えに参りましょう」

「……ハルヴェルは、お姉様の近くに行かなくていいんですか……?」

「ええ。私は、ウィリエス殿下のお側にいると決めましたので」


 ――コン、コン、と扉が叩かれた。

 ハルヴェルが応じると共に、室内で控えていた侍従が扉を開ける。すると侍女が現れ、ご歓談中申し訳ございません、と頭を下げられた。

 夕食にはまだ早い。非常の出来事に、ハルヴェルとウィリエスはそろって息を詰めた。

 耳に届くは、予想の範疇から逸脱した、けれど予想通りの知らせ。


「――王城より、早馬が来ております」


 ハルヴェルの手の中で、ウィリエスの指先がきゅっと丸まった。分かった、と立ち上がったハルヴェルに、置いていかれたくなかったのか子供の足も続く。


 早すぎる、その一言に尽きるだろう。王城からの派遣自体は、ハルヴェルの予期するところではあった。しかしウィリエスがこちらに来てから未だ半月だ、ウィリエスが城を出た途端に問題が起きたか、何らかの不都合でウィリエスの養生が撤回されたか。どちらにせよ、良い話であるわけはない。当主がいない今、ハルヴェルはどこまで独断で舵を切ることができるだろうか。


 玄関ホールにいたのは、水を片手に息を整える男性。規律を身にまとい、ハルヴェルたちに気づくと礼を取る。


「――フロータス伯爵家令嬢より、言付けを預かってまいりました」

「内容は?」

「――『花』が枯れてしまうかもしれません、と」

「……」


 ハルヴェルは、ウィリエスを見下ろした。何を暗示しているのか見当も付かないのだろう、揺らいだ黒曜石に、力不足な青年が映る。


「私からも伝言を。一言一句違えず伝えろ。――犬を使うように。子供のほうは、『花』を慈しむ」

「……承りました」

「馬を貸す。可能な限り急げ」


 要件を引き受けた男性は、折り目正しくも慌ただしく踵を返した。窓からの夕日に、肩に付いた金細工がきらりと反射する。


 ハルヴェルとウィリエスは、再び部屋に戻った。ただしその足取りは焦燥感に突き動かされており、事態が飲み込めないウィリエスさえも緊張を感じていた。ハルヴェルの手は、まるで痛みを耐えるかのように強く強く握り締められている。

 入るや否や人払いを済ませ、青年はその場で少年の前にしゃがんだ。目を合わせ、息を吸う。


「殿下、落ち着いてお聞きください。……姉君の身に、何か起きたかもしれません」


 瞬間、黒い双眸は恐怖に歪んだ。小さな両手はハルヴェルの肩に届き、くしゃりと布地を掴む。


「た、助けないと……!」

「分かっております。ですが、姉君のお側には別の者がおります、私たちはここにいましょう」

「でっ、でも!」

「殿下、どうか。姉君の最愛はウィリエス殿下でございます。お二人共捕らわれては、今度こそ何が起きるか分かりません」


 ハルヴェルはウィリエスの両手を握った。同時に、とてつもない恐怖が伝播する。それはどちらのものとも言えないもので、体温を分け合っているかのようにも例えられる。


 冬は寒い、春がいないから。人々は土の下に眠った命を目覚めさせることもできず、透けそうな太陽と澄んだ空気に身をこごえさせるしかない。

 生まれた春に出会えるのは、幸運に恵まれた者だけだ。恵まれなかった者は、あの暖かさと鮮やかさに焦がれたまま。花の香りに触れることも許されず、真っ白な世界で呼吸を繰り返すまま。

 会いたい、そう願っている。それでも、ここで待つべきだ。


 ポタ、と床に涙が落ちた。直後にはボタボタと重量を増し、種が芽吹かない足下を濡らす。

 嗚咽が漏れた。唯一の姉と別れてから耐えていたそれは、いとも容易く無力な少年の肌を滑っていく。青年は指を伸ばし、その輪郭がぼやけていることに気づいた。不可思議ゆえに目を瞬けば、冷たい滴が顔に触れている。


 願え、そうするしかないのだから。死んだ春を夏に生き返らせることはできるだろうか。否、命は時間によってしか守られない。夏が死に、秋が消え、冬が力尽きてようやく春が再び生まれる。そこに第三者の意志は作用しない。強大な力を前に、非力な有象無象は傍観者の札を首に提げるしかない。

 しかし同時に、春を迎える用意を進める。春が笑って目覚められるように、有象無象は土の中で己を慈しむ。それは摂理であり、生き延びるための力だ。

 立てる場所も振るえる力も限られている。むしろ、引っかき傷すら残せぬほどの微々たるものかもしれない。それでも、春が目覚めてくれるのなら。それでも、春が笑ってくれるのなら。有象無象は、喜んで無力なこの身を大切にしよう。

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