第43話 姉

 まるで背比べをするかのように、ウィリエスはかかとを浮かせた。空へ伸びるに連れて細く茂るコニファーの葉は、目一杯に広げた指に似ている。すでに半月が経つというのに、ウィリエスの興味は庭から失せる気配もない。樹木の裏を覗き込んでは虫に遭遇したり、生け垣から現れる動物に触れようとしては逃げられたりと、何度繰り返しても飽きない出会いがいつも待っている。そのことは、ウィリエスの人生を正しく色鮮やかに染め変えた。そして、その様子を間近で見ているハルヴェルもまた、己の人生の価値が少しずつ変わっていくのを感じていた。明日を待ち遠しく思うのは、人生で二度目だ。


「殿下、そろそろ戻りましょう」


 ハルヴェルは、無自覚に頬を緩めながら言った。秋は目前まで迫っている、油断は風邪を招くだろう。そうでなくとも、昼食後からウィリエスはまともに休んでいない。時折ベンチに座ったり植木鉢の前でしゃがみ込んだりということはあったが、うろうろと動き回っている。鳥の巣を観察しようと木の幹にその足が掛かったときは、本当に肝が冷えた。ハルヴェルが思わず強い語気で止めてしまい、しょんぼりと肩を落とされたが。

 今も、ウィリエスは返事をしつつもうなだれている。つくづく罪悪感を刺激する方だ、とハルヴェルは内心で独りごちた。かがみ、柔らかい黒髪に右手を乗せる。


「天候が悪くなければ、明日もございます。本日はお終いにいたしましょう」

「ハルヴェルも、明日一緒に来てくれますか?」

「ええ」

「じゃあ、戻ります」


 あどけない、純朴な笑顔。はにかんだ頬は、王城にいた頃よりも丸みを帯びている。

 サンドルト辺境伯家に来て以来、ウィリエスは日に日に健康な体へと成長している。青白かった肌には血色が入り、毎日の食事を完食できるようになった。笑顔が増え、他愛無いことを自発的に話すようになった。

 もしリディエラが知ったらどれほど喜ぶだろうか、ハルヴェルはふとした瞬間にそう考えてしまう。毒薬から逃れ、太陽の下を歩き、満開の花に手を添える弟の姿を見たら、姉はどれほど幸福を感じるだろうか。

 叶うなら、リディエラにもこの庭へ来てほしい。王城のそれには見劣るが、今のウィリエスが見ている世界を知ってほしい。大人の半分ほどの目線から何を感じ取っているのか、リディエラにも経験してほしい。


 本当なら、ウィリエスの隣にいるのはハルヴェルではない。ハルヴェルは、ウィリエスの隣を守っているに過ぎない。蜂蜜だけではない、日の光や花の匂いも纏うようになった少年は、姉の心を確かに満たすはずだ。馬を走らせようと手紙を送ろうと伝わらない、幸せの一かけら。弟も、優しい手の平と軽やかな笑い声を心の底から求めている。お姉様、という呼びかけに応える人がいないのは、やはり寂しいものだろう。


 二人は邸内へと入った。この後は、ハルヴェルの私室で談話の時間だ。夕食までの短い時間、休息がてらその日の出来事や思い出話に花を咲かせる。尤も、社交のそれとは比べものにならないほどのんびりとした会話だが。

 それでも、時たまセーグルも交ざるこれには確固たる意義がある。ハルヴェルはウィリエスの様子を確認するためであり、ウィリエスは信頼する誰かと話せることが純粋に嬉しい。この温度差は気に掛かるものの、ハルヴェルもリディエラもウィリエスを王位継承者として育てるつもりはないから問題無い。


 ソファーに並んで座り、蜂蜜水を飲む。そこで、ウィリエスはどきどきとした様子で口を動かした。


「……あの……えっと、お姉様のことを聞いてもいいですか……?」


 不意を突いた問い。ハルヴェルは目を瞬かせた。これまで、ウィリエスからリディエラの話を聞くことはあったが、ウィリエスがハルヴェルから話を聞きたがることはなかった。

 ハルヴェルはそれを疑問に思うこともなく、己が抱く像はウィリエスの中にもあるだろうと何と無く思っていた。しかし今にしてみると、公の場で見た王女の姿は、ウィリエスの胸でつっかえたままかもしれないとも感じる。

 やや緊張した心地で、ハルヴェルはグラスをテーブルに戻した。構いません、と言葉を返し、質問を待つ。礼を言うウィリエスの面持ちは、どこか消極的な感情をたたえている。


「あの、お姉様は、ハルヴェルの前ではどのような方ですか?」

「……私は、お優しく、可憐な方だと思います」

「可憐……」

「実際に姉君にも申し上げましたが、かわいらしい、というような意味でございます」


 すぐにお泣きになりますので、とはさすがのハルヴェルも言えなかった。無論意地悪を働いたわけではなく、むしろ褒め言葉のつもりで選んだ表現だったものの、姉を泣かせたとあっては心象が悪い。否、泣かせようと思ったことはただの一度もないが。対してリディエラからはゴーシュに似ているとの言を贈られたのだから、ハルヴェルとしては痛み分けだと主張したい。


「お姉様は、ハルヴェルに怒ったり意地悪をおっしゃったりしたことはありますか?」

「いいえ、全く。ウィリエス殿下にはいかがだったでしょうか?」

「僕も、いつも優しくしていただきました。でも……どうして、みんなの前でのお姉様は怖いんですか?」

「……」

「……僕のせい、ですか?」

「それは断じて違います。ただ、ウィリエス殿下を守るため、という理由ならおありかと」


 何を明かすべきか、同時にその認識は正しいか、ハルヴェルは一瞬考えてしまった。


 最初、過激派を抑えるためだとリディエラは認めた。一方、それだけではないとも示唆した。事実父兄との確執があるようだし、ウィリエスが人質にされていたのは明白だ。

 セーグルによれば、リディエラがその姿を偽り始めたのは十一歳の頃。第一王子派と王女派の政争も、以降激化している。

 されど、王女の暴挙が無ければそうはならなかったのではないか。リズリエラの故国との兼ね合いはあれ、リディエラとラインヴィルトが正面切って対立する図は描かれなかったのではないか。

 もしかしたら、王女を愚に仕立て上げることで西の帝国の圧力を撤回させる意図はあったかもしれない。敵対関係にある東西の緩衝材がグリーティス王国だ、それが内部崩壊し、ましてや東に吸収されることは西も防ぎたいだろう。すなわち、それが実現してしまう危険性を取ってまで王女を即位させようとは考えない。穏健派の第一王子の即位を認め、同盟関係を強く結び直すほうが建設的だ。

 ただ、この仮説には人質の必然性が欠けている。まず、リディエラは王位を望んでいないだろう。となれば、リディエラはこの案の発案者に素直に従うはずだ。考案したのがダグラクスであれラインヴィルトであれ、ウィリエスの居住環境の改善を条件に出すことはあっても、ウィリエスを人質に取られるほど拒む理由は無い。

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