第8話 大団円

 松下は、そんなヘッドコーチのことを正直知らずに、時々話をしていた。コーチも自分のことを、ハッキリとは明かしていない。

「自分は、勝負の世界で生きてきて、今は、指導者という形かな?」

 というような言い方しかしていなかったからだ。

 もっとも、松下は野球を見るわけではないので、彼の話をされても、きっとピンとはこなかっただろう。

 ヘッドコーチの名前は、張本コーチと言った。彼は、打撃に関しては、独自の理論を持っていて、その理論は、自分をコーチしてくれた現役時代の打撃コーチと、二人三脚で築きあげたものだった。

 最初こそ、

「自分とコーチが造り上げた打撃理論で、第二の自分のようなホームランバッターを育てたい」

 と純粋に思っていたが、実際には難しかった。

 打撃フォームが独特の自分だからこそできるもので、これを他の選手に当てはめるというのは難しいことだった。

 しかし、それだけに、他の選手が、独自の理論でやっているのを、反対はしなかった。その人に合っていれば、それでいいからである。

 実際に、今気になっている選手もいる。何とか一人前にしてやりたいのだが、どうしても、張本自身の理論を押し付けてしまいそうになる。それを何とか抑えようと、このセミナーに参加したのだ。

 ここは偽善者ばかりが集まっていた。

「偽善者になる素質を持った人の集まり」

 と言えばいいのか、どうしてここに通うようになったのかといえば、

「ヘッドコーチとして、全体を見なければいけなくなったからだ」

 といってもいいだろう。

 だから、ここの触れ込みとして、

「世間一般の恥ずかしくないような人間になれるため」

 というコースだった。

 金銭的にもセミナーとしては、さほど高くはないし、参加できる時だけの参加でもいいというのが、魅力的だったら。あくまでも、主導は本人主導ということである。

 まったく業界の違う松下と話すようになったのは、たまたまある時、席が隣だったからだ。

 張本は、チームの中で、監督が煮え切らないことでチームが混乱し、毎日のように小田原評定を繰り返していることに耐えられなくなった。

「皆偽善者じゃないか?」

 と思ったのだ。

 まさか、そんな自分が偽善者を養成するようなセミナーに参加していると思っていなかったが、小田原評定が行われている中に入ったことで、

「自分が偽善者だ」

 と、気付いたのだ。

 ということで、知り合った松下の話を聞いていると、彼は偽善者ではないが、偽善者になるための何かを備えている気がしてきた。

 ただ、そもそも、偽善者というのがどういうものなのかもわかっていない。

「世間一般では、あまりいいようには言われていないが、果たしてそうなんだろうか?」

 と感じるようになったのだ。

「ここでの、サークルの一番の基本は、自由です。自由な人間が、自由に振る舞うことができる。そんな環境を、自分自身で作り出す。これは、実は非常に難しいことです。環境にも、その人の性格にもよりますからね。だから、私は、皆さんに、自覚と先を導いてあげるお手伝いをしたいと思っています」

 というのが、サークルのモットーであり、方針のようだった。

 だから、参加者が自由に仲良くなるというのは、今に始まったことではなく、以前から結構あったことだったのだ。

 松下と張本も、どこで、意見が合ったのかよく分かっていないが、会話をすればするほそ、相手に事由が感じられ、そこは、職業の違いもあってか、お互いに敬意を表していたのだった。

 松下は、最近、またしても、

「何もないところから、新しいものを作り上げたい」

 という気持ちになっていた。

 それは、別に仕事である必要はない。

 そこで考えたのが、

「空想物語を、文章にする」

 ということだった。

 小説を書くといっても、別にプロになりたいという意識があるわけでも何でもない。ただ、

「継続は力で、長く続けていきたい」

 と思っているのだった。

 だから、彼がこのセミナーに参加したのは、

「なるべく、自分が今まで感じてきた世界とは違う人とも出会える」

 ということと、

「自由な風潮がどのようなものかを感じたい」

 と思ったことだった。

 そういう意味で、張本という人間を見ていると、興味が湧いてきた。

 この間までは、必要以上な情報を得ることを我慢していたが、最近では、

「解禁してもいいかも知れない」

 と感じた。

 というのも、張本が何か、少し様子が変わってきたからだ。

 どこか、偽善者的なところが出てきたのか、それとも、人間的に丸くなって見えるのか、それはきっと、彼が自由というものに目覚めたからではないかと思った。

 自由に目覚めると、小田原評定をしていた時期が、何かおかしかったような気がする。それまで中にいた自分が、今は表から見ているだけ、それを思うと、

「そんな彼のことをもっと知りたいな」

 と感じるようになったのだ。

 そういえば、昔、芸人のコントで、

「自由だ~」

 と叫んでいるのがあったが、あの頃は、

「自由なんて、絵に描いた餅のようで、それこそ、偽善を象徴するための、言い訳にしか聞こえない」

 と感じたものだった。

 やはり、偽善ということをよく分かっていなかったことが問題だったのだろう。

「それにしても、自由と偽善が、相対的な関係にあったなんて」

 と考えている。

「長所と短所は紙一重」

 という。さらに、

「二重人格な人間は、一つの身体に正反対の性格を隠し持っていて、片方しか表に出すことができないものだ」

 と思うようになってから、逆に、

「それを自由に扱えれば、それこそ、偽善ではないか?」

 と考えるようになったのだ。

 ただ、偽善というのは、言葉がいかがわしく思えるだけで、自由と置き換えれば、それこそ、

「長所と短所」

 のようなものではないかと思えてきた。

 それを、最初に感じたのは、張本ではないだろうか?

 彼の仕事は、自分が自分の肉体を駆使してきたことを、戦術としてチームをけん引する仕事である。人のことを分かったうえで、全体を見ないといけない仕事で、監督の参謀の役目だ。

 監督が苦しんでいるのも分かるが、それは、自分がかつて歩んできた道でもある。それを思うと、急に監督が哀れに思えてきたのだ。

 そんな張本を見て、松下の方は、彼が変わっていく様子が手に取るように分かり、彼を野球関係者とは知らずに、偶然といっていいのか、彼の職業を、監督として描くようにした。

 元々、張本がやりたかった監督。しかし、今では、その監督という仕事が、結構大変で、椋られない仕事であると分かってくると、

「ヘッドコーチがちょうどいい」

 と思うようになっていたのだ。

「打撃コーチの方がよかったかな?」

 と思ったのは、このセミナーに参加する前のことだった。

 このセミナーに参加するようになってから、

「偽善と自由」

 という感覚を手に入れて、自分なりの考えが生まれてきた。

 松下は、そんな彼を見ながら、監督として描き始めたのだ。

「張本さんって、ビッグボスっぽいですね?」

 と、当時、新監督になった人のニックネームで呼んでみた。

 もちろん、野球関係者などと知らずにである。

 自分の中で監督として作り上げた張本に、そう声を掛けたかったのだ。

 作品の方は、今まで描いてきた作品とは違って、スムーズに描けた。

「これこそ、自由なんだ」

 という発想である。

 自由というのは、あくまでも、

「内面から醸し出されるもので、汗のような、そんな無意識のものではないだろうか?」

 と思えた。

 汗というと、分泌液でありながら、身体の体調を調整するものである。

 だから、身体からの分泌はまるでアドレナリンのようなもので、それが自由な発想と結びつくことで、余計に、発想が自由になるという、

「負のスパイラル」

 とは正反対の、

「正のスパイラル」

 とでもいえばいいのか。

 それを考えていると、張本の物語が、サクセスストーリーとなって完成していくのを感じていた。

 しかし、本人にその気がないのに、まわりから見ていて、勝手に想像できるのは、なぜだろう?

 一種のオーラのようなものが感じられるからではないだろうか?

 そのオーラが、実は、元々、小田原評定から、培われたものであることを、松下は知らない。

 松下も、仕事では、いやというほど、

「小田原評定」

 を味わっている。それこそ、

「自由のない空間」

 である。

 今でこそ、タバコを吸えない時代からまだマシだが、もし、タバコが吸える状況だったら、きっと耐えられなかったに違いない。

 小田原評定とは、そもそも、結論の出ないもの。それを分かっていて、ただ集まっているだけなので、出てくるのは脂汗だけである。

 そんな状態で、どのように雁字搦めになった自分を解放できるかというのが、大いに問題だった。

 本来なら会議の中でテーマを出すべきなのに、こんな小田原評定をいかに終わらせるかということが、次第にテーマになってきて、それが、どんどん、悪い方に膨れ上がる発想になってしまったようだった。

「こんなこと、いつまで続けるんだ?」

 と、皆頭の中で分かっているのだろうが、先に進むだけの気力もない。

「それだったら、このまま小田原評定を続けている方がマシではないか?」

 と思っているようで、そうなると、

「解決するための解決案を出すしかない」

 ということになるだろう。

 それを思うとさらに、深みに入っていき、ジレンマに追い込まれ、

「抜けるためには、タイミングも必要だ」

 ということが分かってくる。

 しかし、一人ではないので、そのタイミングというのは難しい。自分だけが抜けても、先に進まないのだから、どうしようもない。

 その時、

「小田原評定は、最大公約数なんだ」

 と感じた。

「一人が飛び出してもダメで、結局は、一番進んでいない人が基準になってしまうのではないか?」

 と思うと、今度は、どこかで我慢もしないといけないと思うようになったのだ。

 そんな小田原評定に、

「パズルゲーム」

 を思い出していた。

 心理的な発想が絡んでいて、

「最初に思いついた発想がどうしても頭にこびりついてしまって、そこから逃れることができない。つまりは、堂々巡りを繰り返してしまうのだ」

 ということになる。

 それが、小田原評定を抜けられない事情ではないか?

 つまり、ゴールにちょうど止まらないと抜けられない、人生ゲームのようなものだといってもいいだろう。

 そんなことを思うと、パズルゲーム、小田原評定は、完全に自由とは裏腹のものであり、自由と同じ感覚は、

「偽善者」

 と呼ばれるような人たちではないかと思うのだ。

 つまり、偽善者というのも、自由という感覚にさえなれば、堂々巡りや、小田原評定を抜け出すことができる。そんなに恰好をつけたとしても、最期は人間、

「自我のままに赴くものだ」

 といえるのではないだろうか?

 そのことを、ここにきて、松下も、張本コーチも学んだ。

 そして、二人がここで知り合うことがなければ、お互いに学びことはできないだろう。

 二人とも最近、そう思うことで、自分がお互いに、

「ナンバー2だ」

 と思うことで気が楽になり、自由になれるのだと思えた。一番でなければいけない理由もない。

「ただ自由でいたい」

 ということであれば、それに超したことはない。

 二人の自由は、仮想のものから、現実になっていく。

 そのことを、知るのは、このセミナーが一番の功績だったといってもいい。まわりの人たちはまったく自分たちに関わろうとしない。それが功を奏しているのではないだろうか?

「自由と、偽善活動」

「パズルゲームの発想と、小田原評定」

 それぞれに密接に組み合っていて、まるで、スパイラルを演じているようであった……。


                 (  完  )

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自由と偽善者セミナー 森本 晃次 @kakku

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