第7話 三大〇〇?

 松下が通い出したサークルに、前述の球団の、ヘッドコーチが通っていていた、松下は、あまり野球を見ないので、そんな人がいるなどと、最初は知る由もなかった。

 どちらかというと、このセミナーには、元々、会社の幹部候補生に当たるような人が参加していて、中には。世襲や、同族企業の、

「英才教育」

 に使われていた。

「帝王学」

 といってもいいのだろうが、帝王学というと、どうしても、ジュリアスシーザーを思い浮かべてしまう。

 かつての、

「英雄」

 と呼ばれる人たちは、いろいろな人がいた。

「世界三大英雄」

 として名前が挙がるのは、人によってバラバラだったりする。

 その中で、ほぼ皆から選ばれるのは、アレキサンダー大王と、ジンギスカンだという。

「もう一人は?」

 ということになると、

「ジュリアスシーザー」

「ナポレオンボナパルト」

 の名前が挙がるだろう。

 だが、英雄と呼ばれる人はもっとたくさんいる。パッと考えたところで、

「始皇帝」

「ハンニバル」

 日本でいえば、織田信長などの名前が挙がるのだろう。

 しかし、問題は、

「英雄と呼ばれる人は、そのほとんどが、一代で終わっていて、さらに、本人の運命も、部下に殺されたり、という悲惨な目に遭った人がほとんどではないだろうか?」

 といえるだろう。

 しかし、そういう意味では、ジンギスカンなどのように、強大な国家を自分の代で作り上げ、さらに、次代に受け継いだ英雄もいるだろう。ジンギスカンを世界三大英雄から外さない理由はそこにあるのだろう。

 しかも、彼には、

「義経伝説」

 まで絡んでいる。

「義経は、衣川で自害したことになっているが、実際には、大陸に渡って、ジンギスカンになった」

 というウワサである。

 信憑性はかなり薄いが、伝説になるくらい、殺すには惜しい人間だったのだろう。

 そういう意味で、

「明智光秀」

 もそうだったのかも知れない。

 本能寺の変の際に、森蘭丸が、信長に、

「ここは我々が防ぎますので、殿はお逃げください」

 と言ったにもかかわらず、

「光秀ほどの男だ。虫一匹逃げられぬわ」

 と言ったとされているほど、信長から信頼され、それ以上に恐れられていたのかも知れない。

 そんな光秀なので、

「山崎の合戦で、あんなに簡単に敗れて死んだというのは、あまりにもひどい」

 ということからなのか、家康に仕えた僧の中に、

「南光坊天海」

 という相談役のような僧がいたというが、彼が、

「明智光秀の生まれかわりだ」

 と言われているようだ。

 義経が、ジンギスカンになったという伝説に似ているではないか?

 ただ、同じような話で、明治時代、ロシアの皇太子、のちのニコライ二世が、日本に表敬訪問に来た時、ちまたでウワサされていたのが、

「死んだはずの西郷隆盛が、実は生きていて、ロシアに逃れ、復讐のために、戻ってくる」

 というものであった。

 そこで警備にあたっていたはずの警官の一人がそのウワサを信じ込んでしまって、ニコライ二世を襲撃するという、

「大津事件」

 が発生したのだ。

 それが、まだ、日清戦争前の、日本が絶賛、

「富国強兵」

「殖産興業」

 の真っ最中だった頃だった。

 何とか、国際問題にならずに、かたはついたが、一歩間違えれば、

「日露戦争」

 になっていた可能性がないとはいえないのだった。

 実際に、日露戦争になっていれば、下手をすれば、朝鮮半島を含めて、

「ロシアの属国になっていた」

 という可能性だってあるのだ。

 しかし、何とか丸く収まったおかげで、日本は助かった。もし、属国となっていれば、世界の歴史ははるかに変わっていただろう。

 日清戦争も、日露戦争もないわけで、日本がアジアで、覇権を争うこともなかっただろう。

 逆にいえば、連合国の端くれではあっただろう。ただ、ソ連から独立できていればの話ではあるが、できていなければ、日本は、社会主義国家として、連邦に組み入れられていたことだろう。

 それを思うと、あの時戦争にならなかったのが、よかったのかどうかであるが、歴史というものに、

「もし」

 というものは存在しないのであろうが、存在したとすれば、それをどう考えればいいというのだろう?

 そんな英雄伝説を、実はこのセミナーでは、教えているというよりも、

「自分たちで考えて意見を出し合う」

 ということが行われていて、

「答えは自分たちで考える」

 というやり方がここでは基本なのだ。

 そんなセミナーでは、もちろん、帝王学はもちろんのこと、会社での自分の立ち位置を考えるなどというのを、人と話すことで、自分たちの中で、何かを見つけていくという考えが基本になっている。

 だから、誰かが講義をするというよりも、

「相談したり、自分たち同士で、向上していく」

 という考えが、強いのだった。

 ただ、中には、答えを求めたい人もいる。

 そういう人には、講師のような人がいて、話を聞きながら、助言を行うというコースもある。

 それは有料であり、ただし、

「お金を取るのは、営利のためだけではなく、ただでの教えというのは、それだけのものでしかない。だから、あくまでも、ステータスのようなものだ」

 といっているが、それこそ、

「偽善ではないか?」

 と最初に考える。

 すると、

「そういう考えも否定はしませんが、偽善であると思い込むことは、自分の視野を狭めることで、自由な発想こそが、ここのモットーであるということを、お忘れなきように」

 というのだった。

「なるほど、まさしくその通りだ」

 というのも、当然のことであって、

「ここの基本は自由であり、自由こそが正義だ」

 と考えている。

 しかし、

「これこそ、きれいごとではないか?」

 と思われる。

 きれいごとこそ、偽善であり、この時に、まず、偽善と疑う人が出てきても無理もないだろう。

 しかし、そこまで言い切れるほど、疑えるのであれば、何もセミナーに参加することもないはずである。

 偽善ということをいかなものかと考えると、

「自由と背中合わせではないか?」

 と思えるのだった。

 そうなると、帝王学を学びに来ているのは、

「偽善こそ、帝王学」

 として、考えている連中がいるからなのかも知れない。

「そもそも、帝王学というものがどういうものなのか?」

 ということである。

 基本的に、創始者は、何もなかったところから、新しいものを生み出して、それを次代に伝える。ただ難しいのは、

「次代に伝えられるかとうか?」

 ということであり、ほとんどの英雄が、

「一代で終わっている」

 と言われるゆえんである。

 ただ逆に、日本人はm

「判官びいきだ」

 と言われる。

 九郎義経が、

「判官」

 という職にあったことから、

「判官びいき」

 と言われるのだが、彼は兄の怒りを買って、あるいは、恐れられて、いわゆる因縁を吹っかけられ、追われることになった。

 そして、奥州平泉の衣川の館で、殺されることになる。

 もっとも、その後、

「ジンギスカンになった」、

 あるいは、

「各地に落ち延びてその土地に伝説を残した」

 ということで、各地に伝説が残っている。

 そういう意味で、

「鎌倉幕府関係者に滅ぼされたり、流されたりした人間は、結構全国に伝説が残っている」

 といってもいいだろう。

 義経伝説もそうだが、

「承久の変」

 にて、流された後鳥羽上皇の伝説も、中国地方には結構残っていたりする。

 最近では、ミステリーで、これが恰好の小説のネタになっていたりするくらいだ。

「後鳥羽伝説」

 などと言われ、

「平成の名探偵」

 という誉の高い人が出てくる小説である。

 最近のミステリーを読んでいて、これは、本人のあくまでもの意見でしかないのだが、

「どうも、偽善者的な話が多い気がする」

 ということが言われているようだ。

 考えれば、

「何が偽善者なのか?」

 ということが問題なのだが、

「善というものに、本当も贋者もあるか?」

 ということであり、

「そもそも、贋者であれば、善とは言わない」

 ということであろう。

 ただ、だからこそ、

「善ではない、善というものを、偽善という」

 ということであるならば、

「偽善者」

 という言葉は、当たり前だといってもいいだろう。

 さらに、この英雄伝説であるが、

「英雄色を好む」

 とよく言われている。

「英雄の裏には、女アリ」

 ということなのかも知れないが、だからと言って、女の影がなければ、英雄と言えないのか?

 ということになれば、アレキサンダー大王も、ジンギスカンにも当てはまることではない。

 むしろ、それ以外の、

「候補」

 として名前が挙がっている人にはあるかも、知れない。

 ジュリアスシーザーに、クレオパトラというようにである。

 ただ、英雄に限らず、

「歴史を動かすのは、女ではないか?」

 ということで、女性を中心に歴史を見るものも結構あるではないか?

 歴史上で出てくる女性としては、どうしても、悪女というか、

「北条政子」

「日野富子」

「淀殿」

 の三人だと言われている。

 ただ、これが男性であれば、英雄と言われてもいい人もいる。

 北条政子が悪女と言われるのは、あくまでも、俗説によるもので、夫である頼朝の妾になっていた、

「亀の前」

 と呼ばれる女性の家を、

「後妻討ち」

 にして、家屋、家財道具を徹底邸に破壊したという。

 ただ、政子の場合は、頼朝亡き後、さらに、源氏三代の将軍が、滅亡すると、朝廷が起こした、

「承久の変」

 に対しての、問題が生まれた。

 弟である、二代目執権の北条義時追討を、朝廷が出したのである。

 つまりは、

「朝廷に逆らうということは、朝敵になるということ」

 を意味している。

 今まで京で起こった戦乱も、朝敵になりたくないということで、天皇や上皇などの身柄を抑えることが先決だった。

 しかし、今回は、その上皇が、宣旨を出したのだ。その時点で、北条義時は、

「朝敵」

 ということになってしまったのだ。

 つまり、鎌倉の御家人は、二の足を踏む。

「朝廷に逆らって、朝敵になるのを、甘んじて受け入れるということなのか?」

 であった。

 もちろん、幕府とは、

「封建制度」

 という結びつきで、固まっていて、

「坂東武者は、京都のひ弱な貴族たちとは違う」

 ということで、政子は、大演説をぶちまける。

「頼朝がつくった武家政権によって、皆は、土地の心配もなく、朝廷からの押し付けもなくなった。それは頼朝の功績であり、その恩は、海よりも深く、山よりも高い」

 といって、番号武者をいさめたという。

 さすが、坂東武者の娘というところか。

 ここはさすがに英雄と言えるのではないだろうか? 相手は、官軍というだけで、実際には、まったくひ弱な軍団で、数の上でも勝負にはならない。そんな武士団をまとめたのだから、悪女と言われるゆえんもないだろう。

 そもそも、昔から、

「悪債」

 と呼ばれ、恐れられているのは、もう一人の悪女と言われた、日野富子、そして、徳川二代目将軍秀忠の嫁であった、

「浅井三姉妹」

 の三女の、江ではないだろうか?

 もっとも、江の場合は、秀忠があまりにも、次男の方をかわいがるので、その代わりにされたという話が残っているのであって、悪女というのは、政子同様に、可愛そうといってもいいかも知れない。

 ただ、日野富子の場合は違う。

 ここは、日野富子に限らず、

「自分の息子を、天皇(将軍)に」

 という気持ちは誰にでもあるだろう。

 そういう意味で、歴史上、そういう奥さんはたくさんいた。古代では、持統天皇(天武天皇の妃)などもそうであり、自分の子供を天皇にしようと、謀略を巡らせ、別の候補を失脚させたりした。

 ただ、どうしても、一番の大問題に発展させたのは、日野富子による、

「自分が産んだ子供を、室町九代将軍に」

 という野望から引き起こされた、

「京都が11年間も、戦火に見舞われ、焼け野原になってしまった」

 という応仁の乱を引き起こしたことだろう。

 しかも、そのせいで、室町幕府は、まったく機能しなくなり、戦国時代へと突入するきっかけになったのだから、その罪の深さは大きなものだ。

 ただ、そういう意味では、もっとひどいといってもいいのは、淀殿かも知れない。

 自分の子供の秀頼を関白につかせたいということで、秀吉に詰め寄り、秀吉が、自分の後継者にといって、決めていた、秀次に、謂れのない罪を着せて、最期は切腹までさせたのだ。

 その時、秀次は素行が悪かったと言われているようだが、どうも、本当のことなのか疑わしいという。

 ということは、そんな濡れ衣まで着せて、排除したかったという意味では、

「恐ろしい女」

 ということになるであろう。

 ただ、これは秀吉が単独でやったことなのか。それとも、淀が焚きつける結果になったのか、それとも、本当の黒幕は淀だったのか?

 そのあたりは、ハッキリとしていない。

 同じ時代に生きていたとしても、

「七不思議」

 などと言われて、結局、謎は闇の中だったのかも知れない。

 江の場合は、言われていることとして、自分が産んだ長男の竹千代、次男の国松と比べると、

「病弱の兄よりも、聡明な弟を猫かわいがりした」

 と言われているが、果たしてどうなのだろう?

 結局最後は、竹千代の乳母である、

「春日局」

 が、駿府で隠居している、大御所(家康)に直訴して、

「代々の継承は、嫡男であるべき、例外はない」

 と言ったことから決着した。

 家康とすれば、日野富子であったり、持統天皇などのことが頭にあったのだろう。

「お家騒動、継承者争いは、家を滅ぼす」

 ということで、最初から、決めておけば、少なくとも、最初のお家騒動はなくなるということだ。

 要するに、

「将軍が、その器でなくとも、まわりを固める側近がしっかりしていれば、問題ない」

 ということなのであろう。

 そういう意味で、家康が春日局の意見をくみ取ったのは、ある意味、自分の身に置き換えて、

「築山事件」

 が影響しているのかも知れない。

 信長に命令され、疑惑を掛けられた自分の長男を切腹させなければいけなかった家康からみれば、

「嫡男というのが、どれほど尊いものか?」

 ということを、思い知らされたと感じているからであろう。

 築山事件の折りに、徳川四天王の一人である酒井忠次が、信長に言われたとはいえ、そのまま家康に伝えたことで、その後、彼の息子が無事だった時に、喜んだ忠次を見て。

「お前でも、親の心が分かるんだな」

 という皮肉をいい、忠次は何も言えなかったということがあったくらいだ。

 三英傑として、言われている人間に、

「織田信長」

「豊臣秀吉」

「徳川家康」

 の三人がいる。

 安土桃山時代を、別名、

「織豊時代」

 と言われ、織田信長と、豊臣秀吉の時代と言われている。

 そこから、関ヶ原の合戦、江戸幕府成立、豊臣家滅亡と来て、江戸時代に入ると、やっと、徳川の時代がやってくることになる。

 つまり、戦国時代末期から、豊臣滅亡くらいまでの天下取りの時代を、三英傑が駆け抜けたといってもいいだろう。

「織田がつき羽柴がこねし、天下餅、座りし食うは徳川」

 という狂歌があったくらいに、天下取りレースは、さまざまであった。

 信長、秀吉が英雄として名を残せなかったのは、やはり、次世代に天下を渡せなかったからだろう。

 信長の場合は、配下の明智光秀に謀反を起こされ、秀吉の場合は、家康に謀反を起こされた。結局、二代目は滅ぼされてしまった。

 それを見ているからこそ、家康は、幕府を築き、娘婿である秀頼を殺してまで、徳川の天下を知らしめようとしたのだった。

 考えてみれば、武家政権の最初であった、源氏も三代で滅びている。

 しかも、二代目も三代目も、どちらも、暗殺された。それを思えば、天下はほとんど、頼朝の時だけである。

 それだけに、頼朝も英雄ではない。

 足利幕府も、名目上は15代まで続いてはいるが、実際には、暗殺された人間が2人、御所に一度も入ったことのない将軍もいたり、ひどい場合は、

「くじ引きで、後継者を決める」

 などということもあった。

 もっとも極めつけは、9代将軍を決める時の、内乱が大戦争を引き起こし、応仁の乱となって、京都を焼き尽くし、結局、幕府を根底から覆すことになった。

 そういう意味では、3代目以降は、ほぼ形式でしかなかったということで、こちらも、

「3代以上は続いていない」

 ということになる。

 それだけ、一代で天下を取っても、それを維持していくには、どれだけ大変かということであろう。

 今の時代でも、3代以上続く企業というのも珍しいのではないだろうか?

 もっとも、時代の流れとして、

「バブルや、リーマンショック、今回のパンデミック」

 などというものを乗り越えて、世襲企業が生き残るのは、ほぼ無理なのではないだろうか?

 特にバブルが弾けてからというもの、リストラであったり、企業同士の吸収合併などによって、

「大きなところが、小さなところを組み込んで生き延びるしか手はない」

 ということで、小さな同族会社は、生き残れなくなっていた。

 しかも、バブルが弾ける前までにあった、

「銀行不敗説」

 というものが、まったく通用しなくなっていたのだ。

 昔は、

「銀行に就職できれば、潰れることはないので安泰だ」

 などと言われていたのだが、今ではまったく違い、

「銀行は、今まで融資したお金が回収できず、不良債権に見舞われて、にっちもさっちもいかなくなった」

 と言われるようになり、銀行こそ、

「吸収合併でもしなければ、生き残れない」

 ということになったのだ。

 結局、今も、次世代に受け継ぐなどということはできなくなり、

「英雄伝説」

 なるものは、

「今は昔」

 になってしまったのだろう。

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